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岩田一政の万理一空

2016年7月12日 ブレグジットと「安全性のワナ」

日本経済研究センター理事長 岩田一政
国民投票離脱派勝利についての2つの感想

 英国の国民投票は、大方の予想を裏切り離脱派が勝利した。筆者自身、コックス議員の射殺事件以前は、離脱の可能性ありとみていたが、射殺事件以降は、離脱シナリオは事実上消えたと考えていた。驚きをもって離脱派勝利のニュースに接して、2つの感想を持った。

 まず第一に、国民投票前の数多くの有識者のコラムなどを読んでいて、欧州連合(EU)の将来に対する悲観論が強く、英国がグローバルに活躍するためには、EUにとどまることが制約要因になるという主張が強いということであった。英国は、EUとともに没落することを何としても回避すべきだという主張は、移民受け入れ問題と同様の説得力をもって、高齢者に受け止められた可能性が強い。

 第二に、英国は、もとより大陸ヨーロッパに属する国ではなく、むしろ、スウェーデン、デンマーク、ノルウェーなど北欧諸国に親近性の強い国だということである。このことは、EU離脱後の英国−EU関係として、「スイス・カナダ型の自由貿易協定」よりも、「ノルウェ−型の欧州経済地域」を望ましいとする意見が強いことにも現れている。

 ただし、ノルウェー型関係構築の問題は、金融パスポートを含め単一市場へのアクセスを確保できるとしても、移民についてもEUの決定に従わなければならないことである。EUの単一市場は「財、サービス、資本、人々の移動の自由」を保障するものだからだ。スイスもその例外ではあり得ない。この矛盾を解決する一つの方法は、EU自身が現在の移民政策の原則に「緊急時例外規定」を設定するなどより柔軟な形で運営することであるが、その可能性は低いであろう。

 英国のEU離脱に関するEU条約50条に基づく申請については、国家主権にかかわる問題なので議会で改めて議論すべきだという主張も、事前のコラムなどで散見された。しかし、国民投票を再度実施すべきだという主張と同様、その実現可能性は低いであろう。

政治的衝撃と経済的な衝撃

 英国のEU離脱が与える国内外の政治的な衝撃は、経済的な衝撃をはるかに上回るものになろう。国内面では、保守党、労働党の内部分裂を始め、スコットランドの独立を通じたEU加盟への動きを促進しよう。北アイルランドでは、アイルランドとの統一後にEU加盟を志向する動きもある。

 EU内部においても、英国と同様にEU離脱勢力が力を強め、EU分裂のリスクを高める可能性がある。オランダやオーストリアがその例だ。

 グローバル・ガバナンスに与える影響も甚大だ。英国とEUが経済関係の再構築に失敗し、英国とEUの間で亀裂と対立が深まる可能性もある。この亀裂を最も歓迎するのは、ロシアのプーチン大統領であろう。

 近年、米国と英国の間で対外・外交政策に軋みが生じている。米国政府は、従来通りの米英関係の維持を打ち出しているが、米国の英国を通じたEUへの影響力行使は不可能になろう。

 経済面について、ポール・クルーグマン・ニューヨーク市立大学教授は、経済への影響はほとんど無視し得る大きさだと論じている。しかし、経済面での打撃も無視し得るものではない。英国経済の成長率が2%程度下押しされることは確実であろう。また、米国とEU、日本とEUの間でのメガFTA(自由貿易協定)締結もほぼ不可能になろう。環太平洋経済連携協定(TPP)の米国議会通過の見通しがつかない状態の下で、日本は英国との通商関係を始め、新たな通商戦略を練り直す必要がある。

金融市場を通じる効果

 ブレグジットの金融市場を通じる効果は、グローバルな金融市場に内在するリスクを考慮するとより深刻だ。

 ロンドン市場の株価下落は軽微だったが、英国を含めた欧州の銀行株価の下落は大幅であった。ロイヤルバンク・オブ・スコットランドやロイズ銀行には公的資金が投入されており、その目減りも78億ポンドに達している。

 カーニー・イングランド銀行総裁は、ただちに2500億ポンドの流動性供給を実施し、銀行部門の景気循環対応のバッファー用自己資本を2017年6月までにゼロ%にすることを公表した。金利引き下げ実施後には、量的緩和に戻る可能性もある。この過程でポンドはさらに大幅に下落しよう。英国の経常収支赤字は、名目GDP比率で7%もあるので、離脱派は、ポンド下落は望ましいと論じている。しかし、長期停滞で自然利子率がゼロ近傍にある英国経済が、歯止めのないポンド下落によってスタグフレーションに陥るリスクも無視し得ない。

 イタリアは、不良債権比率が16%もあり、公的資金導入なしには、その解決が困難になっているが、EU委員会は、統一破綻処理基金による公的資金投入前に銀行部門が負債の8%負担を先行して実施すべきだとの姿勢(「ベイルイン原則」)を崩していない。イタリアでは20兆円規模の銀行債を小額投資家が保有している。昨年末に地方の中小銀行に対して「ベイルイン原則」を適用したところ、銀行債を保有する年金生活者に自殺者がでた。

 欧州委員会は、イタリアの大手銀行モンテ・ディ・パスキ・ディ・シエナの不良債権比率を2018年までに40%から20%に引き下げることを要求した。イタリア政府や中央銀行は、単独での公的資金投入(400−500億ユーロ)も辞さない姿勢を示しているが、仮に「ベイルイン原則」を無視した形でイタリア政府が公的資金投入を実施するとすれば、それはEUが目指している「銀行同盟」構築の最初のつまずきの石となるであろう。しかし、EUの破綻処理スキームの弾力条項を発動する可能性も残されている。

 加えて、米連邦準備制度理事会(FRB)は、ストレステストの結果を踏まえて、ドイツ銀行の米国部門とスペイン最大手のサンタンデール銀行の健全性に警告を発した。同時期に国際通貨基金(IMF)は、システミックリスクを起こしやすい金融機関として、ドイツ銀行、香港上海銀行(HSBC)、クレディ・スイス、を挙げた。いずれも欧州系銀行である。

日本経済と「安全性のワナ」

 ブレグジット直後にバーナンキ前FRB議長がブログで指摘したとおり、ブレグジットへの経済面での打撃が最も大きいのは、日本であった。円高、株価下落幅は他の先進国のそれをはるかに上回っていた。

 何故、日本経済への悪影響が大きいのか。バーナンキ前FRB議長は説明していないが、一つの要因は、不確実性の増大に対する「安全資産」への逃避と見られる。

 ポンドに加え、銀行株価の下落からユーロ不安が再燃する場合には、ユーロの大幅下落のリスクもある。日本にとって悪夢というべき事態は、1ユーロ=1ドル=1ポンドになることであろう。この時、円の対ドル・レートは2011−12年の水準まで巻き戻されるリスクがある。

 カーニー総裁は、2001年9月11日のテロ事件以降に地政学リスクの水準が倍増し、2008年の金融危機以降に金融リスクが高まった後、2010年以降は政策リスクの高まりにより不確実性が増大していると述べている。不確実性増加に対する「安全資産」需要の増加は、グローバルな国債金利の低下に現れている。スイスや日本ではマイナス金利政策導入前から国債金利のマイナス化が始まっていた。世界経済では、マイナス金利の国債は11兆ドル以上にも達している。スイスは40年物の国債まで、日本は20年物の国債まで含めて水面下に没している。米ジャナス・キャピタル・グループのエコノミストであるビル・グロス氏は、「超新星の登場」であり、大爆発のリスクがあると警告している。

 リカルド・カバレロ・米マサチューセッツ工科大学(MIT)教授とエマニュエル・ファーリ・ハーバード大学教授は、経済がゼロ金利制約に直面する「流動性のワナ(liquidity trap)」のほかに、安全資産に対する需要が供給を上回る「安全性のワナ(safety trap)」が存在すると論じている。「安全性のワナ」は「流動性のワナ」よりもその克服が困難である。金融界の不評もあって政策金利引き下げに限界があるとすれば、安全資産の超過需要を解消するには、国内の生産・所得を減少させるか、または、安全資産を新たに作り出すことが求められるからである。

 仮に日本経済が「安全性のワナ」の下にあり、「マイナス金利政策」の深堀りと生産・所得の減少をともに回避しようとするのであれば、安全資産の超過需要を抑えるために、財政拡大によって国債供給を増加させるか、または、日本銀行が大規模な国債購入プログラムを縮小することが求められる。

 前者の大規模な財政支出拡大は、中長期の財政健全化を困難にする。加えて、日本銀行の大規模な過大な価格での国債買い入れ継続が自己資本の毀損という財務上の困難を引き起こすに至るとすれば、グロス氏が警告する「超新星の大爆発」リスクを強めることになろう。後者の選択は、日本銀行が現在採用している三次元の金融政策の枠組み変更を必要とし、マネタリー・ベースの達成目標を不可能にするため、その採用も難しいであろう。

(2016年7月12日)


(日本経済研究センター 理事長)

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