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泉宣道のChinAsia 中国・アジア

2018年3月20日 【最終回】「アジアの時代」 外交は日米・日中が基軸

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 中国共産党総書記の習近平国家主席は3月20日閉幕した全国人民代表大会(国家に相当、全人代)を経て、国家元首として2期目に入った。王岐山・国家副主席と二人三脚の「習・王」体制で長期政権を目指す。21世紀は中国を中心とした「アジアの時代」になる公算が大きい。個人的な事ながら、「中国・アジア」にかかわるようになってから30年が経つ。この間、新聞記者としてマニラに3年余、北京に2回計5年駐在した。各国・地域への出張を含め、要人らにインタビューする機会に恵まれ、歴史的な節目の一端も目撃した。コラムChinAsiaを締めくくるに当たり、これまでの経験を踏まえ、アジアの時代に日本が果たすべき役割を考えてみたい。

「情がない」日中関係をいかに改善するか

 ケ小平・中国共産党中央軍事委員会主席「日本の政治家にはいろいろお会いしているが、あなたとの面会が一番多い。私たちは本当に心を打ち明けられる友人です」

 伊東正義・自民党総務会長「お元気なのは、たばこを吸うからですか」

 ケ氏「(3月の)全人代でたばこを止めようとしたが、却って皆さんから批判された」

 1988年4月19日午前、北京の人民大会堂。竹下登首相の特使として訪中した伊東氏は、愛用の漢方薬入りたばこを燻らす中国の最高実力者、ケ氏との会談を始めるに当たって、こんなやりとりを交わした。当時、ケ氏84歳、伊東氏74歳。両氏の会談は6度目だった。

 いわば“老朋友”同士だ。ケ氏は「われわれ老人は比較的若い人たちに仕事を渡し、退いていく。それは自然の法則に基づくものです」と表明。これに対し、伊東氏は「同感です。日本側も若い人に仕事を譲っていきたい。竹下首相は日本ではニューリーダーと呼ばれている。世代交代は自然の摂理です」と応じた。

 当時35歳の私は日本側同行記者団の一員として、初めて中国の土を踏んだ。1988年4月は「中国・アジア」に本格的にかかわる契機となった。

 私は一記者として伊東氏の晩年の一時期を担当したにすぎない。にもかかわらず、伊東氏は私のような若輩にも「忘年の交わり」で対応してくれた。1988年秋に社内のアジア問題取材班に加わり、アジア各国・地域に出張した際には現地の日本大使、総領事宛の直筆の紹介状を持たせてくれるなど本当にお世話になった。

 あるとき、伊東氏からこんな話を聞いた。昭和14年(1939年)に興亜院が新設され、農林省から上海に出向していたが、昭和18年に召集令状(いわゆる白紙召集)がきた。東大法卒の官僚だから、その気になれば将校になれたが、あえて幹部候補生試験を受けなかったため、二等兵として従軍した。「上等兵から殴られ、眼鏡が飛んでいったこともある」ともつぶやいた。

 本人は明確には語らなかったが、「会津っぽ」の伊東氏は文官として、当時の軍部への精一杯の反骨精神を示したのではなかったか。伊東氏は超党派の日中友好議員連盟の会長も務めた。中国側から厚い信頼を得たのはこうした経歴も背景にあるのだろう。
 
 伊東氏は1989年6月の天安門事件後、西側の要人として先陣を切って訪中し、ケ氏と7度目の会談に臨んだ。これが国際社会から経済制裁を受け孤立していた中国の復帰のきっかけともなった。

 因みに、伊東氏も実はケ氏に劣らない愛煙家だったそうだ。1988年8月31日夜、こんなエピソードを明かしてくれた。「昭和27年にサンフランシスコ平和条約が発効したのを機に止めた。それまでは『チェリー』に朝、火をつけると、そのまま夜までのチェーン・スモーカーだった。手が黄色くなっていたよ」

 「中日友好でも、日中友好でも一番重要なことは、人間と人間の関係だということだ。お互いに心と心で付き合うことが大事だと考えている。その意味では、最近の中日関係には“情”がない」――。

 中日友好協会会長の孫平化氏は、日本経済新聞朝刊の連載「私の履歴書」の初回(1997年9月1日付)でこう書いた。孫氏は1972年9月29日の日中国交正常化につながる田中角栄首相の訪中をお膳立てした人物である。

 「私の履歴書」掲載の直前の1997年8月15日に79歳で死去したことから、遺稿となったが、亡くなる直前まで北京支局長として聞き書きなどのお手伝いをした。孫氏は中国共産党の幹部病院「北京医院」にリンパ腺がん治療のため入院していた。酷暑の7月、特別の許可を得て北京医院に通った。そのときの様子が『中日友好随想録――孫平化が記録する中日関係』(孫平化著、武吉次朗訳、日本経済新聞出版社)下巻の「入院日記」に7月21日の日付で綴られている。

 「日経の泉記者の取材を受ける。(中略)この仕事は私にとり極めて重要である。生涯の経歴を、発行部数三百五十万部の全国紙である『日本経済新聞』で一ヵ月連載するのは得難い機会であり、連載後に『私の履歴書』双書の単行本ができるのは、中国人では初めてのこと。公務としても私的な意味でも、病気をおして完成させなければならない」

 聞き書きは日本語で進められ、孫氏の波乱に富んだ人生の軌跡を細かく記録することができた。それは国交正常化を軸とした戦中、戦後の日中関係史の「史料」ともいえる内容だった。遺稿は無事に完成した。入院日記にある日経の発行部数はやや多めに書いていただいているが、単行本は『私の履歴書 中国と日本に橋を架けた男』(孫平化著、日本経済新聞社)として1998年8月7日に発行された。

 孫氏は1917年に中国東北部の遼寧省で生まれた。東京工業大学予科に留学、中退して帰国した後は中国共産党に入り、抗日地下活動に携わった。だが、1949年の中華人民共和国成立後は周恩来首相ら指導部からの指示で、日本からの最初の国会議員代表団を接待するなど、常に戦後の対日関係の第一線で活躍したことで知られる。

 官房長官、首相臨時代理、外相、自民党政調会長などを歴任した伊東氏とは深い交流があった。東京・永田町の衆議院議員会館の伊東氏の部屋に孫氏がよく顔を出していたことを記憶している。伊東氏は1994年5月20日、肺炎のため80歳で死去した。孫氏は「自民党の政治家で私と一番気持ちが通い合い信頼し合えた古い友人」としのんだ。

 孫氏は1996年10月、伊東氏の妻、輝子さんと親族を北京に招待した。「伊東氏は農林官僚出身だったが、清廉潔白で、子どもがなく、残された夫人は清貧で孤独な暮らしをつづけている。夫人を招待したのは気分転換のためと、生前の友情に少しでも応えるためであった」と『中日友好随想録――孫平化が記録する中日関係』下巻で記している。訪中した輝子夫人からは北京支局長だった私にも連絡があり、10月4日に北京の貴賓楼でお会いした。

 輝子夫人とはその後、親族、伊東氏の元秘書、われわれ元担当記者3人と年に1回は会食するのが慣例となった。2014年3月23日には東京・丸の内の東京會舘で親族を中心にした「白寿を祝う会」が開かれ、元担当記者3人も招かれた。99歳の輝子夫人は大変お元気だったが、翌年10月2日、肺炎のため百歳で亡くなられた。

 輝子夫人から、伊東氏が戦中を挟んで中国にいたとき日本に送ってきた手紙をすべて取ってあるとうかがったことがある。手紙には当時の中国の状況が詳しく書かれていたという。それだけ伊東夫妻は中国への思いを大切にしていた。伊東氏と中国要人らとの信頼関係に匹敵するような日中の政治家同士の付き合いは難しくなっているのかもしれない。

 孫氏が「最近の中日関係には“情”がない」と嘆いてから、早くも21年。この間、日中関係は紆余曲折を経て、日本の対中感情はより深刻になっている。

 内閣府が2017年12月23日に発表した「外交に関する世論調査」(全国の18歳以上の男女3000人を対象に10月26日〜11月5日実施、回収率60.1%)によると、現在の日中関係を「良好だと思う」は14.9%で、前回調査(2016年11月)に比べると2.4ポイント上昇した。半面、「良好だと思わない」は79.8%で前回調査より3.2ポイント下がった。

 日中関係にやや改善の兆しが出てきたとも取れる、だが、孫平化氏が亡くなった直後の1997年9〜10月の世論調査(当時は総理府)では、「良好だと思う」が45.6%だった。「良好だと思わない」の44.2%を上回っていたのである。

 今年は日中平和友好条約締結40周年の節目。両国関係の改善はまさに急務である。

日本はアジアとの歴史問題に謙虚な対応を

 マニラ駐在時代は毎年、大きな出来事に見舞われた。1989年12月にはフィリピン国軍の反乱勢力約4000人がコラソン・アキノ大統領(愛称コリー)の退陣を求めて決起したクーデター未遂事件が発生、1990年7月のルソン島大地震、そして20世紀最大の火山噴火となった1991年6月のピナトゥボ山大噴火とニュースが相次いだ。

 フィリピン外国人特派員協会(FOCAP)の正副会長を務めていたときには、アキノ大統領と直接話す機会もあった。1990年10月30日と1992年2月11日の2回、FOCAPの昼食会・記者会見にゲストスピーカーとして招き、壇上での食事の際に隣に座ったからである。

 フィリピンで最もお世話になったのは、フィデル・V・ラモス元大統領(愛称エディ)である。ラモス氏が大統領選に出馬する前の国防相時代の1990年9月25日、マニラホテルでのFOCAP主催の昼食会・記者会見の司会をした際、「ノノイ(Nonoy)」の愛称を授かった。カソリック教徒が8割を占めるフィリピンで、ラモス氏は少数派のプロテスタントだが、いわばゴッドファーザー(名付け親)になってくれたのだ。

 ラモス氏とはマニラロータリークラブ(アジア最古のロータリークラブ)でも会員同士だったため、毎週のように会うことができた。マニラでの各種パーティーなどで各界の著名人に「Nonoy」と紹介してもらい、一気に人脈が広がった。

 ラモス国防相とは1990年11月29日、軍用機に同乗してマニラから南部のミンダナオ島に視察にも行った。ラモス大統領が来日、1993年3月12日に都内の日本記者クラブで記者会見した際には質問し、会見後に握手した。大統領退任後も上海や北京、東京で旧交を温めた。

 フィリピンでは対日感情は悪くないといわれたが、マニラ駐在中、深層には微妙な感情が残っていることも次第にわかってきた。1991年5月31日のFOCAPの会長(President)選挙――。当時、会員は約200人で、内訳は日米欧など外国人記者が60〜70人、約3分の2は外国メディアで働くフィリピン人記者・助手たちだった。会長ポストは外国人とフィリピン人が1年ごとに交代するのが慣例で、この年は外国人の番だった。

 会長選挙を控え、副会長だった私は米CBSマニラ支局長を務めるフィリピン人の長老ジャーナリストに呼ばれ、立候補するよう薦められた。「英語が下手だし、あまり自信もない」と答えたが、白髪の彼は先の太平洋戦争中、日本の軍艦の動静を丘の上の茂みから望遠鏡で監視するなど抗日ゲリラとして戦った経歴を打ち明け、こう続けた。「これまでFOCAPでは、フィリピン人以外の黄色人種は会長になったことがない。ここで君が、とりわけ日本人である君が会長になることには大きな意味がある」

 5月31日夜の選挙の結果、私は86票を得て、対抗馬だったニュージーランド人の60票を上回った。

 FOCAP 会長時代を含めて、フィリピンの閣僚で頻繁にお会いしたのがラウル・マングラプス外相だった。ときには自宅に“夜回り”でお邪魔した。

 マングラプス氏は太平洋戦争中、抗日活動のため日本軍の捕虜となり、脱走するまでの2年間、憲兵隊の拷問に遭い、左目が不自由になった。マッカーサー米極東軍司令官の下、反日戦線のラジオ局のアナウンサーや連合軍従軍記者を務めた。1945年9月2日、東京湾に浮かぶ米戦艦ミズーリの艦上で、日本の全権代表、重光葵外相が降伏文書に署名したときに取材した経験もある。

 マングラプス氏とのインタビュー(1991年11月8日)で、憲兵隊に捕まった経緯を詳しく聞いたことがある。名門アテネオ大学の学生だった1942年8月25日早朝、マニラの自宅に憲兵隊数人が現れた。母親は「息子はいま、ここにはいません」と不在を告げたが、やりとりをベッドで聞いていたラウル青年は母親が連行されると思い、自主的に玄関まで出て行ったという。

 「戦争中の最も苦い経験は捕虜となって拷問を受けたときではない。あのときケンペイタイが私の目の前で母を『ライヤー(ウソつき)』とののしってビンタしたことだ」とマングラプス氏は静かに語った。しかし、戦後は長男をアテネオ大学の姉妹校である上智大学に留学させ、長男は日本企業に就職した。「日本との個人的な和解の意味もあった」とも述懐した。

 日本にとって外交上の歴史問題は中国や韓国、北朝鮮にとどまらない。太平洋戦争中、日本に占領された東南アジア諸国、太平洋の島々には日本への愛憎入り混じった複雑な感情があることを忘れてはなるまい。

 シンガポールの首相を務めたリー・クアンユー氏に、1991年10月15日と2002年12月17日の2回、シンガポールで単独インタビューしたことがある。日本が東南アジアで真の友人をつくるには、どうしたらよいかと質問すると、「日本は過去の戦争に関する事実を率直に語るべきだ。もしそれを覆い隠そうとすれば、猜疑心が持ち上がる。過去は変えられない。だが、国民同士により多くの敬意と好意があれば、お互いに実りのある未来を構築することができる」との返答だった。

 中国・アジアで、謦咳に接した政治家は少なくない。日本経済新聞社社長との会見に同席し、間近で肉声を聴いたのはコラソン・アキノ大統領(1989年4月3日、マニラ)をはじめ、中国の朱鎔基副首相(1997年11月28日、北京)、江沢民国家主席(同年12月12日、同)、呉邦国・全人代常務委員長(2003年9月11日、訪日中の大阪)、インドのマンモハン・シン首相(2005年11月23日、ニューデリー)らだ。

 中国の唐家璇外相(現中日友好協会会長)には1998年6月3日、国連安保理常任理事国5カ国の緊急外相会議に出席するためスイスに向かう北京発CA959便の機内で単独インタビューした。時間の節約ということで、すべて日本語で答えていただいた。機内では王毅・外務次官補(今回の全人代で国務委員兼外相に昇格)も同席した。

 韓国のソウルでは2004年、当時の玉置直司ソウル支局長の紹介で、3月25日に金大中(キム・デジュン)前大統領、8月6日に最大野党ハンナラ党の朴槿恵(パク・クンヘ)代表(後に大統領)、同月26日に李海瓚(イ・ヘチャン)首相とそれぞれ単独インタビューをした。

 金氏とのインタビューには通訳を同伴したが、前日に金氏の故郷・全羅南道の名物「ホンオ(洪魚)」(エイの一種を発酵させたアンモニア臭のある高級料理)を美味しくいただいたと伝えたら、日本語での質疑応答になった。朴、李両氏とは通訳を介してインタビューした。3氏とも日本との歴史問題に触れ、日韓関係も信頼醸成が容易でないことを改めて肌で感じた。

 一方、モンゴルのバカバンディ大統領とは1998年5月7日にウランバートルで、ラオスのブアソン首相とは2007年5月9日にビエンチャンでそれぞれ単独会見した。両首脳とも、日本への期待は投資の拡大であった。

 中国・アジアと向き合ってきたこの30年間は、平成の時代と重なる。日経平均株価が史上最高値3万8915円となった1989年(平成元年)末ころ、アジアの経済発展モデルは、日本を先頭に韓国、台湾などが続く「雁行(がんこう)型」といわれたが、もはや過去の物語となった。

 1988年4月の北京市内では、自転車の群れだけでなく、リヤカーも走っていた。中国はいまや自動車の生産、販売とも世界一。北京市内では高級車も珍しくなく、自動車があふれている。光景は一変した。

 日本は2010年に名目の国内総生産(GDP)で中国に抜かれた。やがてインドにも追い越され、世界第4の経済大国になるだろう。習近平国家主席率いる中国は今世紀中葉に「世界一」になるとの壮大な目標を打ち出している。経済規模で米国を凌駕するとの含意だ。トランプ大統領の誕生で、「米国一極集中」の時代は幕を閉じようとしている。

 19世紀初めまで2大経済大国だった中国とインドが再び台頭し、世界経済の中心がアジアに移っていく「アジアの時代」が現実味を帯びてきた。日本の外交はどうあるべきか。「日米同盟」が最優先であることは言を俟たない。同時に日本にとって最大の貿易相手国である中国との関係も極めて重要である。伊東正義氏の持論だった「日本外交の基軸は日米・日中」は依然として正鵠を得ている。

 安倍晋三首相は2015年8月14日、「戦後70年談話」を発表した。この中に「私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります」との一節がある。日本のアジア外交は、歴史を教訓に常に謙虚さを保つ必要があるのではないか。

 このコラムを擱筆するに当たって、最後にシンクタンクのあり方に触れたい。

 「建好新型智庫」。中国の全人代で3月20日に採択された李克強首相の政府活動報告に、この6文字が盛り込まれた。「智庫」は中国語で、シンクタンクのことだ。6文字の日本語訳は「新しいタイプのシンクタンクをしっかりと整備する」である。

 習近平総書記が昨年10月の第19回中国共産党大会で約3時間半にわたって読み上げた活動報告にも「中国の特色のある新しいタイプのシンクタンクをつくる」とのくだりがあった。習政権は、国際的に影響力があり、知名度も高い新型のシンクタンク建設を目指しているという。

 それ自体は、政策立案能力の向上などにつながるとして評価できよう。しかし、「中国の特色」とは何か。共産党政権の執政強化や西側と異なる中国式民主主義の確立などを意味しているとすれば、「科学的、客観的な観点から調査・研究し、政策立案・提言をする」というシンクタンク本来の趣旨から外れるかもしれない。

 米ペンシルベニア大学は今年1月30日、「2017年世界有力シンクタンク評価報告書」を発表した。総合ランキングをみると、1位は米ブルッキングス研究所、2位は仏国際関係研究所、3位が米カーネギー国際平和基金。アジアでは13位の日本国際問題研究所が首位、25位のアジア開発銀行研究所(ADBI)が続き、日本のトップ100入りはこの2機関だった。

 中国は29位の中国現代国際関係研究院を筆頭に38位の中国社会科学院、49位の中国国際問題研究院、57位の国務院発展研究センターなど7機関がトップ100入りした。91位のグローバル化シンクタンク(CCG)が中国の民間のシンクタンクとして初めて100位以内になったのも目立つ。

 「世界有力シンクタンク評価報告書」によると、世界には7815のシンクタンクがある。国別では米国が1872でトップ、中国が512で2位。日本は116で8位に位置している。日本と中国のシンクタンクは数のうえでは大きな開きがあるが、総合ランキングではこれまで日本の機関がアジア首位を維持してきた。今後は、シンクタンクの発展をめぐっても、日中が競い合う時代を迎えるだろう。

(2018年3月20日)


(日本経済研究センター 研究主幹)

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