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小峰隆夫の私が見てきた日本経済史

2017年5月22日 内国調査課長へ―バブルを分析する(1)

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日本経済研究センター研究顧問 小峰隆夫
 1992年の暮れも押し詰まった頃、数台の黒塗りの自動車が六本木の裏通りを進み、一見何の建物か分からない古びた和風の屋敷の前で止まった。目立った表札もない、やや正体不明の建物だ。降りてきたのは内閣外政審議室の室長、審議官たち(私もその一人)である。これから忘年会が始まるのだ。

 外政審議室には、9つの省庁から審議官が出向してきており、これに数名の事務局が付くという構成だ。外政室の審議官は課長クラスだから、かなり頭でっかちの組織である。寄合世帯なので、宴会の場所などは、各審議官が回り持ちで準備する。大体どの省庁も所管する事業団、基金などが、宴会ができるような施設を持っており、それを交代で使う。今回は○○省が所管している○○事業団の施設を使うのだ。審議官たちは「なるほど、なかなか趣のあるところですな」「○○省の含み資産だね」などと言いながら中に入っていく。

 宴会もたけなわとなった頃、T室長が審議官の間を回りながら私の横に座った。室長は、「今年もご苦労様でした」「お世話になりました」といった型通りの挨拶を交わした後、「小峰さんには1月に経済企画庁に戻っていただくことになりました。内国調査課長(正確には内国調査第一課長だが、以下本稿では、伝統的名称である内国調査課長を使う)という要職につかれることになるという連絡がありました。良いお話なので早めにお教えします。おめでとうございます。」と言った。

 私は茫然として、その後どんな話をしたのか覚えていないほどであった。「ついに来たか」という感じであった。そしてこの日から、私の人生のハイライトとも言うべき2年間が始まったのである。

内国調査課長への道

 私は、経済企画庁で仕事をする中で、いつの日か内国調査課長になって経済白書を書きたいと思うようになった。人生最大の目標だったといってもいいだろう。でき得れば歴史に残る名白書を書きたい。そうすれば、私自身がこの世から姿を消した後も、その白書は永遠に参照され続けることになる。こんな素晴らしいことはない。

 しかし、内国調査課長というものは、希望してなれるものではない。私に出来ることはただ一つ、「内国調査課長にふさわしい」と認められる人物になることだ。これまた簡単なことではないのだが、私は、既に内国調査課勤務を2回経験しており、課長補佐時代には経済白書の原案を執筆している。歴代の内国調査課長がキャリアの一環とすることの多かった日本経済研究センターの主任研究員にもなった。本も既に6〜7冊は書いており、庁内でもかなり名の知られた存在になっていた。これで駄目だったら、運が悪かったと諦めるしかない。

 こうして、私は、近い将来、相当の確率で内国調査課長になれるだろうとは感じていたのだが、それにしてもT室長から話を聞いたときは相当に驚いた。驚いた理由は2つある。

 1つは、室長の発言が明らかにフライングだったことだ。通常、異動の内示は一週間前というのが慣例である。それを室長は、私がさぞ喜ぶだろうと思って早めに教えてくれたのだ。

 もう1つ、内国調査課長が交代するタイミングとしても異例であった。通常、内国調査課長は、経済白書が完成した後、交代するのが慣例である。白書は7〜8月に公表され、その直後に課長が交代する。新課長は半年ほど構想を練って、翌年の年初から新白書の議論を始める、というのが通常のサイクルであった。また、内国調査課長は白書を2回書くというのも慣例であった。私の前任の小島さんは、私の2年先輩で、91年に就任、92年の白書を書いている。もう一度93年の白書を書いて、93年の秋ごろ交代というのが普通のサイクルである。

 こうした事情を踏まえて、私は、自分が内国調査課長になるとすれば93年の夏以降だろうと考えていた。それが突然、半年前倒しで就任することになったのだから驚いたのだ。しかし驚いてばかりもいられない。次第に落ち着きを取り戻した私は、「よしやるぞ!」と無茶苦茶に張り切った。

白書ができるまでの手順

 私は、新人時代と、課長補佐時代の2回内国調査課を経験しているので、白書を作る手順は誰よりもよく分かっていた。簡単に説明しておこう。

 第1段階は、スケルトンを固めることである。白書の議論は年明け早々から始まる。1月中には、課長が、自らの問題意識をまとめたペーパーを示し、課内での議論を経てスケルトンをまとめる。これを、局内の議論にかけ、さらに企画庁幹部を含む庁内の議論にかけて最終決定される。

 第2段階は、課内での分析作業である。スケルトンに従って、各担当グループ(班と呼ばれる)がデータを集め、計量的な分析を行い、それを大量の図表にまとめる。

 第3段階は、執筆である。まず、3〜4人の課長補佐クラスのスタッフが分担して原案を書く。その原案を基に課長が白書全体をまとめる。こうして経済白書の原案が完成する。

 白書はここからが結構大変である。第4段階として、調整がある。原案を庁内に配布して意見を求め、必要があれば折衝して修正する。これが終わると企画庁の幹部会に諮る。これで経済白書の企画庁案が完成する。作業はまだ終わらない。今度は企画庁案を全省庁に配布して意見を求める。山のようにコメントが来る。一度数えたことがあるのだが、おおよそ千件程度のコメントが来る。これを全て調整して、ようやく経済白書が完成する。

 まだ終わらない。第5段階としてPRがある。正式発表の前にプレスに配布してレクチャーする。特に、社説を書くことになる論説委員に対しては丁寧に説明する。せっかくなら好意的な社説を書いてもらいたいからだ。

 私は、就任早々、この第1段階に突入することになったのだ。

内国調査課長を支える人々

 内国調査課長の醍醐味の一つは、大部隊を構成している優秀なスタッフを意のままに指揮できることだ。内国調査課には35人前後の課員がいて、5〜6の班に分かれている。その中核が3人の課長補佐で、これに調査官(課長と課長補佐の間)が加わることがある。この中核メンバーが白書の原案を書くことになるからその責任は重大である。責任が重いだけに、役所もこのポストを重視しており、選りすぐりの人間を配置する。

 一例として、私が就任した後、1回目の白書原案を書くことになる人々を紹介しよう。まず調査官として齋藤潤氏がいた。齋藤氏はその後、日経センター→内国調査課長(正式には「経済分析担当参事官」だが、伝統的呼称を使う)→調査局長(正式には「政策統括官」だが、伝統的呼称を使う)などを経て、現在は国際基督教大学教授で、日経センターの研究顧問でもあり、センターでは私の隣に部屋がある。

 課長補佐は3人。筆頭補佐が梅溪健児氏。梅溪氏も、その後、内国調査課長→調査局長→経済社会総合研究所長などを経て、今年の4月から私の後任として法政大学教授となった。次席の課長補佐が鶴光太郎氏。鶴氏は現在慶応大学教授で、日経新聞の経済教室にもしばしば登場するトップエコノミストとなって大活躍している。もう一人の補佐は、代々、日本銀行からの出向者が就いている。私が就任した時は、土田浩氏で、現在はぶぎん地域経済研究所専務取締役である。

 これら私を支えてくれた人々のその後の歩みを見ても、いかに私が優秀なスタッフに囲まれていたかが分かるだろう。

 私は、早めに教えてもらったので、正月休みをじっくり準備期間とすることができた。私は手始めに、過去2年の経済白書、年間回顧(毎年年末に出される調査局の分析レポートで、いわば次の白書の予行演習のような文書)を読み、自分の白書に対する基本姿勢を述べた上で、30問程度の質問項目をリストアップした。これを就任直後に課内に配布し、質問に対する解答を求めた。課の人々は、業務説明も始まらないうちに、いきなり山のように難しい質問を浴びせられてさぞ驚いたことだったろう。

 その後もこんな調子で厳しく仕事を進めていったので、課内では不満も出たようだ。当時内国調査課にいたベテランの女性職員のIさんは、私が課長補佐の頃から内国調査課に在席していた人だったのだが、彼女がある日「小峰さん。課内では、今度の課長はえらく厳しい人だと不満を漏らす人が出ていますよ」と教えてくれた。私の評判が必ずしも良くないので、心配して、すこし手加減してはどうかとアドバイスしてくれたのだ。しかし私は全く意に介さなかった。私の使命は「良い課長」になることではなく「良い白書を書くこと」だと思いを定めていたからだ。

 さて、このコラムの主題はバブルの分析なのだが、そこに辿り着く前に紙数が尽きてしまった。予告的に言っておくと、この時の93年白書で私はバブルの総決算をしようと決めていた。当初私が課内に配布した文書には「バブルの発生と崩壊のプロセスやその経済的諸影響を明らかにすることは、歴史的なバブルを身近に経験してきた我々に課せられた大きな責務だ」という言葉がある。私は本気で、バブルを分析することは自分の歴史的使命だと考えていたのだ。(続く)

(2017年5月22日)


(日本経済研究センター 研究顧問)


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