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西岡幸一の産業脈診

2012年11月21日 健闘・東芝の「3本の苗木」

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日本経済研究センター研究顧問 西岡幸一
 銀座・教文館の書棚で目にした時は驚いた。『電気事始め―マイケル・ファラデーの生涯』。334ページの分厚いものだが、訳者が佐波正一とある。あの佐波さんが、と思ったがホントにそうだった。2010年に刊行されているので実に91歳の時にものした訳書である。英文原書はもっと厚くて、通読したのち幾分圧縮して訳したという。40年ばかりの産業界の取材経験だが、日本を代表する大企業のトップを務めた経営者が卒寿を超えて、いくら英語が得意としても英書に取り組み、上梓したという前例を知らない。エジソン、ニュートンほどの知名度はないが、業績は科学史に光るマイケル・ファラデーという人物の選択と併せて佐波さんの誠実で篤学の人柄が浮かぶ。日経新聞の「私の履歴書」では推敲の跡が残る直筆の原稿を受け取ったが、この訳書ではパソコン原稿であったろうか。

 周知のようにこの9月に佐波氏は93歳の大往生を遂げた。副社長時代から取材に伺い、聞きたいことを先回りして端的に答える、スマートな頭の回転にいつも打ちのめされて帰った。本コラムを私物化し過ぎるという批判が聞こえてきそうだが、垣間見た同氏とその周辺をほんの少し回想したい。

佐波氏のアニマルスピリット

 本来なら主流財界人として重きをなすはずだったのが暗転したのはいわゆる「東芝ココム違反事件」。日米経済摩擦が燃え盛る1987年、東芝会長の席にあった佐波氏は子会社の東芝機械のココム違反事件の責任と事態の終息を図って渡里杉一郎社長とともに事件発生後2カ月余りで突然辞職した。渡里社長はその座についてまだ1年余りでしかなかった。事件の背景については元共同通信の春名幹男氏の労作『スクリュー音が消えた』などがあるがよくわからない。

 「渡里君一緒に引こう、といったら分かってくれた」とだけ話していた。著名なクリスチャンの家系に育ち、自身も敬虔な信徒であるが、経営者として余りにも厳しい自律、潔さに戸惑う声が産業界には多かった。しかし、トップの出処進退のひとつの規範を示したのは間違いない。IBM産業スパイ事件の日立製作所、防衛庁調達実施本部事件のNECなど重大な危機を招いた業界他社の経営者の挙動と比べるとよくわかる。

 人物論は措いて、佐波氏というと東芝の半導体事業の礎を築いた経営者という評価が多い。生粋の重電畑の技術者だが、清水の舞台から飛び降りるような巨額の設備投資をDRAM事業に断行し、日本の半導体メーカーとしてほぼ一人気を吐く現在の東芝の骨組みを作った。ちなみにこの決断の背景には約30年前の自慢できないエピソードがある。確かにNECなどと比べて劣勢にある半導体事業を何とかしなければならない、という酸素は東芝社内に充満していた。そこにマッチを擦ったのは日経新聞の誤報だ。「DRAMから撤退」という見出しの朝刊1面トップ記事が佐波氏のアニマルスピリットを爆発させた。実行してDRAM事業で歴史的な荒稼ぎをしたのが後に「背中に万札を貼った男」といわれた川西剛元副社長だ。

 80歳代の半ばごろまで佐波氏はほぼ欠かさずエレクトロニクスショー(現在のCEATEC)に足を運んだ。お付も連れずに技術の最先端をその目で確かめていた。LCDやプラズマディスプレーに対抗する新ディスプレーとして、キヤノンと東芝が共同で量産に入る計画だったCEDが脚光を浴びていた2004年のショーのこと。佐波氏はCEDにはあまり目もくれずに東芝の部品コーナーを熱心に見回っていた。技術者の血が騒ぐのか、カーテン状のスピーカー、遮音装置に特に興味をひかれて、孫のような説明員にあれこれと問い質す。20分ほども立ち止って聞いていたろうか。「只者ではないこのおじいさんは何者だ」という困惑した説明員の表情が目に浮かぶ。

「知の渡里、情の青井」

 佐波、渡里両氏の辞職後のバトンを任されたのは渡里氏と同期で16年前に鬼籍に入った青井舒一氏。佐波氏同様生粋の重電畑の技術者で文系の渡里氏とは早くから「知の渡里、情の青井」と称された。それだけに佐波、青井両氏ともトップとして縦横の才を発揮する前に身を引かされた渡里氏の処遇に腐心した。渡里氏はしばらく謹慎の日々を送ったが、さすがに渡里氏の人望や識見を経済界がほっておくわけがなく、日中経済協会会長などで重責を果たした。

 渡里氏に日経新聞の「交遊抄」を依頼すると旧制山形高校時代の旧友を紹介した一文を頂いた。企業トップになった何人かとの交友ぶりを示し、最後に理科の首席は加賀谷誠一藤倉電線(現フジクラ)社長と紹介した。後日、加賀谷氏に確かめると「文科の首席の名前が書かれていなかったろう。あれは渡里ということを示しているんだよ。そこまでを読んだら一人前の記者」と諭された。

 平岩外四経団連会長の後継を巡って、盛田昭夫ソニー会長、関本忠弘NEC会長などが争ったとき、沈着冷静な青井氏を推す声も上がった。経済人仲間とプールで遠泳を楽しんでいる都心のホテルで尋ねると「佐波さんのファーストチョイスは渡里君だ。僕は彼の代行だよ。浮かれて出るほど厚かましくない」。キッとした表情で睨まれた。

 その青井、渡里、佐波の3人が三井物産の八尋俊邦相談役とゆっくりゴルフを満喫するはずの1996年12月末。川奈の富士コースの最初のホールで、ホール手前のバンカーに入れた青井氏が何度叩いてもボールが出ない。「青井君もういいよ、といったら彼が出てきたがその途端に倒れた」。帰らぬ人になった弟分を佐波氏が悔しそうに話していた。

 佐波氏は編集者になった姉、翻訳家になった妹と3人で、互いの人生を回顧した「佐波家の人々」的な自叙伝『3本の苗木』をみすず書房から出版している。3人それぞれの道を歩み斯界で名を成したが、共通の土壌として日本のキリスト教の礎を築いた植村正久を祖父にした一家の教育、信仰や価値観がある。佐波、渡里、青井も東芝の3本の苗木、それも電機産業に燦々と日が差す下で育った苗木という気がする。

(2012年11月21日)


(日本経済研究センター研究顧問)

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