トップ » 大竹文雄の経済脳を鍛える

大竹文雄の経済脳を鍛える

2012年7月24日 行動経済学の成果を教育に活かす

  • Tweet this articl

日本経済研究センター研究顧問 大竹文雄

人はインセンティブで動く

 経済学は、人間のインセンティブを考える学問である。人々は誰でも幸福になりたいという意欲をもっている。ゆったりと余暇を楽しみたいという望みと同時に、様々なモノやサービスを購入して楽しい消費生活を送りたいという望みももっている。様々なものを購入するには、お金が必要だ。お金を手に入れるには、余暇の時間を削って働く必要がある。

 人は賃金が高ければ、余暇時間を削って働く時間を長くして、モノやサービスをより多く購入できるようにするか、少なく働いてより長時間の余暇を楽しむことになる。前者のタイプの人を雇用している企業なら、より一生懸命働いてもらうために高い賃金を提示するだろう。真面目に働いているかどうかがわかりにくいのに、固定賃金を払う契約をしているなら、労働者は仕事の手を抜いて実質的に余暇時間を長くしようとするだろう。

 固定賃金だと労働意欲が減ってしまう労働者には、成果主義賃金や出来高給を用いて対応することになる。ただし、出来高給や成果主義だと、自分の努力とは無関係な理由で出来高や成果が変動してしまった場合も、給料が変動してしまう。それなら、少し給料を下げてもらってでも賃金に固定的な要素を増やしてもらいたいとリスクをきらう人なら思うはずだ。

 労働のインセンティブを高めるためには、成果給の割合を高くすべきだが、労働者の賃金変動リスクを減らして固定給に近づければそれだけ賃金費用を節約することができる。つまり、賃金設計には、リスクとインセンティブのトレードオフという問題がある。成果給の程度を高めた効果の方が、固定給比率を高めることによる費用節約効果よりも大きい職場なら、企業は成果主義的な給与を採用するだろう。逆のタイプの職場も存在するはずだ。これがインセンティブを利用した賃金設計だ。

インセンティブはスポーツでも使われている

 インセンティブを用いた仕組みは、私たち仕事だけではなく、様々な場面で見られる。典型的なのは、プロスポーツの賞金体系だ。例えば、プロゴルフの優勝賞金は、賞金総額18〜20%に設定されてきており、2位と3位の賞金差よりも1位と2位の賞金差の方が大きく設定されている。例えば、 アメリカの PGA(プロゴルフ協会)では、各順位別の賞金額は、賞金総額の比率として設定されており、1位は18.0%、2位は10.8%、3位は6.8%というようになっている。 上位になるほど大きな賞金差を設けるのは、選手が優勝を目指して最善の努力をするようにインセンティブが付けられているのである。

 でも、それなら優勝者にだけ賞金を出せば、選手たちは優勝を目指して最善の努力をしそうなものである。どうして、2位や3位など優勝できなかった選手にも賞金をだすのだろうか。同じ事は、オリンピックの銀メダルや銅メダル、そして8位以内入賞という名誉がなぜ存在するのか、ということについても当てはまる。

 これは、トーナメント参加者の間に実力差が存在する場合に、能力がある人にもヤル気を出させる仕組みなのである。もし、1位しか優勝賞金がないか、金メダルしか存在しなかったとしよう。そして、もし選手の間に能力差があり、1位になりそうな人とその次のグループで実力差があったとしよう。実際、ちょっとした実力差でも、試合の流れで1位と2位以下のグループの間に差が生じることはよくある。そうした場合、1位しか賞金がない状況だとすれば、2位以下の可能性が高い選手はやる気をなくしてしまう。2位以下の可能性が高い選手がやる気をなくせば、1位の可能性が高い選手も全力を尽くさなくても、1位が確保できる可能性が高くなる。つまり、1位しか報酬を受け取れないような制度だと、2位以下にしかなれそうにない選手たちのやる気を失わせ、1位の人のやる気も失わせてしまうのだ。プロスポーツの試合にしてもオリンピックにしても、観客が望むものは、選手たちが全力を出して戦う姿である。仮に、選手の間に実力差があった場合には、1位狙いは諦めるとしても、2位や3位狙いをするインセンティブを高めるような制度設計が必要なのである。2位や3位狙いを目指して、選手が頑張れば、たとえ実力差があったとしても1位の選手もあまり手を抜くわけにはいかない。このように考えて見れば、プロゴルフの順位別の賞金額にしてもオリンピックの金・銀・銅メダルにしても、選手のインセンティブを引き出すための報酬制度として、うまく考えられているのである。

教育におけるインセンティブ

 私たちの身近にある問題で、インセンティブが非常に重要な分野としては教育がある。学校教育の場で、生徒や学生は、遊ぶ時間と勉強時間のバランスをとっているが、勉強をするためのインセンティブにはどのようなものがあるだろうか。生徒の中には、勉強することそれ自体が楽しくてインセンティブになっているというものもいるだろう。成績があがることをインセンティブにしている生徒や先生や親にほめられることがインセンティブになっている生徒もいるだろう。成績上位者が学校内で公表されることが名誉で、その中に入ることがインセンティブになっている生徒もいる。中には、いい成績をとれば、将来いい学校に進学できて、いい学校を卒業すれば所得が高くなるという、将来の所得上昇をインセンティブにしている生徒もいるかもしれない。

 いずれにしても、特に日本の学校では、成績があがったら金銭的報酬がもらえるといったタイプのインセンティブ制度をとっているところはないだろう。一方、家庭の中では、テストの成績がよければお小遣いを増やしてあげるというような取り決めをすることもあるかもしれない。

 では、このような教育におけるインセンティブというのは本当に有効なのだろうか。お金を報酬にしてしまうと、お金というインセンティブがないと勉強をしなくなる危険はないのだろうか。人はお金だけではなく、非金銭的なインセンティブでも動くことはよく知られている。教育現場は、金銭的インセンティブよりも非金銭的インセンティブが用いられることが多いけれど、それは本当に有効なのだろうか。

 最近の行動経済学の知見によれば、同じ額の報酬をもらう場合でも、人はプラスの報酬をもらう場合のうれしさよりも、その額を失うときの悲しさの方が大きいという損失回避という現象が知られている。さらに、人は将来もらえる報酬を大きく割り引いてしまうという双曲割引という現在バイアスの特性をもっていることも知られている。教育の報酬は、しばしばずいぶん遠い将来で受け取ることが多い。それだと、生徒たちは、教育を受けるインセンティブが小さくなりすぎてしまうかもしれない。

 こうした教育現場におけるインセンティブの問題は、大切なことであるが、なかなか確認されてこなかった。最近、Steven D. Levitt とJohn A. Listらの4人の経済学者が、シカゴの小学校と中学・高校で6500人の生徒を対象に金銭的報酬と非金銭的報酬がテストの点数にどのような影響を与えるかを実験した。

 前回のテストの成績よりも成績がよければ、金銭的な報酬や非金銭的報酬をもらえるという設定でテストをしているのだ。彼らの研究結果は、教育においても金銭的インセンティブが与えられると生徒のテスト成績が向上することを明らかにしている。その上、小学生ではトロフィーという非金銭的報酬がインセンティブを引き出すのに有効であることが示されている。

 特に興味深いのは、行動経済学的なインセンティブの与え方の実験結果である。金銭的報酬を与える場合に、テストの直前にその報酬額を生徒に渡しておいて、テストの成績が前回よりも悪ければ、その報酬金額分を没収するというインセンティブの与え方をしたのである。標準的なインセンティブの与え方は、テストの成績が前回を上回れば金銭的報酬を与えるというものである。実質的には両者は同じものであるが、先にもらったものが取り上げられるという損失という枠組みにすることで、生徒のインセンティブは高まるはずだというのが行動経済学の予想である。同じことは、報酬をトロフィーにした場合でも行われた。結果は、行動経済学の予想通り、先に報酬を与えて、基準に達しなかった場合に没収するというインセンティブの際に、生徒たちの成績が一番向上していた。

 さらに、(非)金銭的報酬を受取るタイミングをテスト終了直後ではなく、テストが終了してから1カ月後にした場合には、報酬の存在によるテスト成績向上が観察されなかった。これは、生徒たちの時間割引率が大きく、彼らが将来の報酬を大きく割り引いていることが理由だ。この点は、教育においては非常に重要だ。通常、教育における報酬を受取るのは、数カ月以上かかり、時には何十年後にもなる。多くの生徒は、そのような非常に遠い将来に得られる報酬にはほとんど価値を置かない。その結果、生徒たちの教育を受けるというインセンティブが非常に小さくなっている可能性が高い。教育における真の成果は、非常に長期のものであったとしても、教育を受ける側のインセンティブを高めるためには、即座に報酬が得られるような工夫をする必要がある。

 日本の教育現場でも、レビットらの研究結果に近いものは、既に塾では相当うまく取り入れられているのだと想像できる。学校教育の現場でも参考にできないものだろうか。

文献
Steven D. Levitt, John A. List, Susanne Neckermann and Sally Sado (2012) “ The Behavioralist Goes to School: Leveraging Behavioral Economics to Improve Educational Performance” Discussion Paper No. 12-038

(2012年7月24日)


(日本経済研究センター 研究顧問)

△このページのトップへ