コロナは人口の地域間移動にどのような影響を及ぼしているか

【減少を続ける日本の総人口】

 日本の総人口(日本人と外国人の合計)は2008年をピークに減少を続けています。最新の推計値によると、2020年11月1日時点の総人口は1億2577万人、前年同月比0.31%の減少となっています。その主因は、合計特殊出生率が依然として1.4%前後で推移しており、人口の自然減(出生数を死亡者数が上回っていること)が続いていることにあります。

 しかし、近年は、海外からの入国者が増加していることから社会増(入国者数が出国者数を上回っていること)が見られ、総人口の減少をある程度緩和してもいます。社会増は2013年以降見られ、それによって例えば2019年における自然減による人口減少の約4割を相殺してきているのです。こうした傾向は、いうまでもなく、近年における外国人労働者の急増によるところが大きいものと考えられます。

【コロナの下で入国者数も出国者数も急減】

 こうした傾向は、コロナの影響で大きく変わってきています。第1図が示しているように、コロナの感染を恐れて外国旅行が見合わされたり政府による入国制限が実施されたりしたことなどが重なって、4月から日本への入国者数も出国者数もともに減少しています。

【かつて若年層は首都圏に転入しそのまま居住し続けていた】

 日本全体としての社会増減は外国からの入国者数と出国者数の差によって決まってきますが、地域ごとの社会増減となると、これに地域間の転入者数と転出者数の差が加わってきます。実は、コロナ下では、この地域間の転出入でも大きな変化がみられているのです。

 2019年までは、東京を中心とする首都圏に向けて、それ以外の地域から転入が続くという傾向がみられてきました。例えば2019年10月時点でみると、第2図のような状況がみられました。

 このような傾向は、首都圏が働く場としても、学ぶ場としても、さらには楽しむ場としても大きな魅力があったことを反映しています。第3図にみられるように、転入超過が特に顕著だったのは20歳代の若年層であり、それ以降の年齢層では、定年前後の年齢層を除くと、転入と転出とがほぼバランスしている状況が続いていました。

【コロナ下で30歳代以降が転出傾向にある】

 コロナ下で、こうした傾向に大きな変化がみられています。例えば2020年10月の状況を示している第4図を見ると、東京からの転出が顕著になっていることが分かります。東京以外の首都圏では全体として転入超過数の増加がみられることから、東京からの転出者の行き先はこうした地域であることがうかがわれます。

 第5図で東京からの転出入の動向を年齢階層別にみてみると、50歳代以降だけでなく30歳代や40歳代層でも大幅な転出超過になっていることが分かります。この背景には、テレワークの拡大などによって働き方が変化し、通勤の必要性も低下してきたので、より大きな居住空間とより豊かな居住環境を求めて東京からの転出が増加したことがあると考えられます。

 ここで転出者が日本人であるか外国人であるかを見ておく必要があります。なぜかというと外国人は以前から東京からの転出傾向を示していたからです。もしかしたら、日本人で変化はなく、外国人の転出ペースが増加しただけかもしれないのです。しかし、第6図を見ると、やはり日本人が転入超過から転出超過に変化していることが確認できます。

【コロナは出生率にも影響を及ぼしているか】

 以上のように、コロナは日本の地域間の人の移動に大きな変化をもたらしていることが分かりました。最後に、コロナが出生率にも影響を及ぼしている可能性があることも指摘しておきましょう。

 例えば、第7図で厚生労働省が発表した妊娠の届出数をみると、2020年5月以降の妊娠数は大きく減少しています。

 妊娠の届出数の減少は、もしかしたら非常事態宣言の発出の影響で妊娠はしたが報告だけを先送りしただけかもしれません。そうであれば、これが将来における出産数の減少を示していることにはなりません。しかし、もしこれが先行き不透明な中で、実際に出産を見送ったことを示しているとすると、近い将来、出生数が実際に減少することになります。

 コロナの人口への影響については、地域間の転出入だけでなく、出生率にも注意をして見ていく必要があります。

かつて経済計画という仕組みがあった(上)

 経済企画庁が内閣府に再編された時のことを題材に、本連載の82回では官庁エコノミストについて、83回では省庁再編について書いた。今回は経済審議会と経済計画について述べてみたい。

 自分で何度も言うのは気が引けるが、私の著書「平成の経済」(日本経済新聞出版社、2019年)は第21回読売・吉野作造賞を受けた。7月13日にその授賞式があったのだが、この授賞式では、後半に簡単なお茶の会があり、何人かの経済学者、ジャーナリストの方々と懇談する機会があった。この時、何人かの方が、省庁の再編に際して、経済審議会や経済計画がなくなったのは残念なことだったという意見を述べられていた。

 私もこの点については残念だと思っていたのだが、私がそれを言うと「経済企画庁に在籍していたからそう思うのだろう」と受け取られそうなので、自分からはあまり発言して来なかった。だから、この時の有識者の方々の発言を聞いて、「そうか経済企画庁の利害関係経験者でなくてもそう思っていたのか」と、大変意を強くしたものだ。そうなのだ、日本にはかつて「経済審議会」という組織があり、「経済計画」という仕組みが存在していたのだ。

 この経済審議会、経済計画を所管していたのが経済企画庁の総合計画局であり、私は、この総合計画局に2回勤務したことがある。最初は総括課長補佐として、次は審議官(課長と局長の中間)としてだった。課長補佐の時は、1983年8月に策定された10回目の経済計画「1980年代経済社会の展望と指針」に作業の最初から最後まで携わった。以下の記述に出てくる私の思い出は、この課長補佐当時のものである。

経済計画の歴史

 経済計画の歩みを簡単に振り返ってみよう。日本では戦後14の経済計画が作成されている。内閣府のホームページにその一覧が出ている(https://www5.cao.go.jp/98/e/keikaku/keizaikeikaku.html) 。この一覧表を見ると、経済の発展段階、経済環境の変化に応じて、重点の置き方、内容が異なってきていることが分かる。

 いくつかの代表的な経済計画の例を示そう。正式な経済計画として閣議決定されたものには含まれていないが、1948年5月の「経済復興計画第1次試案」で示された「傾斜生産方式」は、戦後経済史の中でしばしば登場する有名な戦略である。これは、生産の減退と激しいインフレーションという経済的混乱の中で、経済復興に必要な石炭、鉄などの基礎的物資の生産回復を目指して、まずはこれらの部門に資金、人材、資材などを集中的に投入しようというものだった。

 1955年頃までの計画は、各産業の生産計画や資金計画を含んだいわば物資動員的な性格のものだった。ちなみに、この頃の経済計画の参考付表には、国民経済計算は言うまでもなく、石炭、銑鉄等主要物資、米麦等主要農産物の生産目標、産業毎の設備資金需給表等が添付されている。こうした当時の経済計画を見ていると、日本が自由な市場主義ではなく計画経済の国であるかのような印象を受ける。

 経済計画の歴史の中で最も有名なのが、1960年に策定された「所得倍増計画」である。この計画では、10年間で国民経済の規模を2倍にするという目標が示された。多くの人はかなり過大な目標だと受け止めていたようだが、日本経済はこの意欲的な経済計画の目標をさらに上回る高度成長を実現したのだった。

 この所得倍増計画については、その高度成長をリードした先見の明が賞賛される。しかし、この計画の優れたところはそれだけではなかった。私は、総合計画局在任中にこの計画の全文を読んでみたのだが、この計画には、「人的能力の向上」「企業の独占的行動への対応」「低開発諸国への経済協力」「輸入自由化の推進」「社会保障の充実」「公害問題への対応」「社会資本の充実」といった視点が含まれている。現在の眼で見れば至極妥当な項目ばかりだが、1960年の段階でこうした点を織り込んでいたのは実に先進的だったと思う。

 こうした経済計画については、私は本や記録で知っているだけなのだが、私が実際にエコノミストとして活動してからの経済計画の中では、宮澤内閣の下で1992年に策定された「生活大国5か年計画」が印象深い。この計画で具体的な数値目標の一つとして掲げられたのが「大都市圏においても良質な住宅を勤労者世帯の平均年収の5倍程度で取得できるようにすること」であった。この目標は、宮澤総理自身もたびたび言及し、この計画の象徴的存在となった。当時はバブルの高地価が依然として残っており、大都市圏で暮らす多くの人々は「これでは一生都内に住宅を持てない」とがっかりしていたから、この「年収の5倍で住宅を取得できるようにする」という目標はかなり説得力を持ったのである。

 当時私は公務員宿舎に住んでおり、いずれは住宅を取得しようと考えていたのだが、私も「かなりの郊外で、長時間通勤を覚悟しなければ住宅は手に入らない」とがっかりしていたから、この経済計画を見て「本当にそうなればいいのだが」と考えたものだ。

 ただしこれは個人的な側面からの評価であり、経済のロジックとしては「年収の5倍の住宅」という目標には違和感を覚えていた。というのは、こうした政策目標を掲げていると、「地価は低ければ低いほど、住宅が手に入りやすくなる」という風潮を生み、当時下落し始めていた地価をさらに引き下げるべきだという議論を招くと考えたからだ。

経済計画策定の手順

 私が実際に携わった「1980年代経済社会の展望と指針(以下、展望と指針)」を材料に、経済計画がどのようにして作られるのかを具体的に説明しよう。

 第1のステップは、政府から経済審議会への諮問である。政府が審議会に経済計画の作成を依頼する手続きである。この依頼そのものは、内容的に細かい注文を出すわけではなく、計画の期間と大雑把な計画の狙いを示すだけである。

 展望と指針の場合は、「内外諸情勢の変化に対応して、国際経済社会の発展への貢献を図りつつ、活力ある経済社会と充実した国民生活を実現するための長期経済計画いかん」というものだった。

 第2のステップは、経済審議会の場での計画案の審議である。この経済審議会は、政府の審議会の中でも最も知名度が高く、多くの人から注目される審議会だった。この審議会には25~30人の委員が任命される。民間企業、労働組合、学者、官界OB、消費者団体などからそれぞれの分野の代表的な人物が選ばれる。

 さらにいざ経済計画を作るということになると、審議事項がきわめて多岐にわたるため、200~300人の臨時委員が任命され、主要事項ごとに分科会、小委員会、研究会などが設けられる。

 私もその任命手続きに携わったことがあるのだが、まず事務方が委員の候補者をリストアップし、最終的には大臣まで相談して候補者を決めて行く。その後、本人に就任依頼に行くのだが、私が知る限り、経済審議会の委員を依頼されて断られたという話は聞いたことがない。この点は私が大学で教鞭をとるようになってから、若い学生諸君に「働くとはどういうことか」を話す時にたとえ話としてよく使うことである。講義口調で言うと次のようになる。

 「働くということについて考えてみましょう。そもそも私たちはなぜ働くのでしょうか?そう、働いてお金を稼がないと暮らしていけないからですね。では、皆さんが一生困らないだけの遺産を得たとすると、皆さんは働かないで一生遊んで暮らしますか?そう、一生遊んで暮らしたいという人は案外少ないものなのです(ここでしばしば『先生、私は一生遊んで暮らします』という学生が出てくるのだが、少数意見として無視する)。働くということは『自分が社会とつながっている』『自分のやっていることがどこかで社会を構成する人の誰かを幸せにしている』という実感を得る手段でもあるのです。私は役人時代に経済審議会の事務局を務めたことがあるのですが、ほとんど無報酬であるにもかかわらず、高い地位にある経営者や学者に就任を依頼しに行って断られたことは皆無です。これは、だれもが潜在的に、自分の力を社会のために役立てたいと考えているからだと思います。」

 このように就任を依頼する時は、事務局としての苦労は全くない。問題は退任を求める時なのである。多くの委員は退任したくないのだ。そこで事務局では、委員に退任を求める時、誰が行くかでもめることがある。辞める人も辞めたくないのだから、辞めてくださいと言いに行く人も行きたくないのだ。

 ある時こんなことがあった。ある財界人に委員を退いてもらうことになり、A審議官がそれを伝えに行くことになった。A審議官は私にその財界人のアポを取ってくれと依頼してきた。そこで私はその財界人に連絡を取ろうとするのだが、なかなか連絡が取れない。秘書の方に連絡しても「不在です」と言われるし、折り返し連絡を頼んでも連絡が来ない。困った私はA審議官にその話をすると、A審議官は「小峰さん。どうしてアポが取れないのか分かりますか」というではないか。「いや分かりません。何か理由があるのですか」と私が言うと、A審議官は「それはね、彼も経済審議会の事務局から審議官がアポをもとめていますといわれれば、『退任を求められるのだろう』ということが分かるんですよ。それで逃げ回っているんですよ」と解説してくれた。私は「逃げ回ってもいつかは捕まるのだから無駄な抵抗だ」と思い、にわかには信じられなかったのだが、とにかく誰もが辞めたくないというのは、その通りなのだろうと思ったものだ。

 話を元に戻すと、こうして任命された委員、臨時委員が議論を繰り返し、議論の結果を計画案としてまとめて答申することになる。

 第3のステップは、政府による計画の決定である。経済審議会は政府ではないから、審議会の答申がそのまま政府としての決定になるわけではない。答申の内容を政府が閣議決定して初めて政府の決定となるのである。

 というのがロジカルな説明である。ところが、経済計画の場合は、経済審議会の答申が一字一句そのまま政府の閣議決定となるのである。実はこれがなぜそうなるのかは結構難しい問題なのである。日本ではこの点を疑問視する人は皆無だったのだが、海外から見るとこの点は疑問だったようだ。私は、総合計画局で勤務している時に、海外からの訪問者に日本の経済計画の仕組みについて説明する機会があったのだが、この「有識者の集まりである審議会の答申が、なぜそのまま政府の決定になるのか」という質問をしばしば受けた。

 確かにロジカルに考えて行くと、審議会の答申がそのまま閣議決定になる理由は二つしか考えられない。一つは、政府が閣議決定する内容を審議会が答申するというものだ。だとすると、審議会は政府の意思決定の隠れ蓑に過ぎないということになる。もう一つは、審議会の力が強力なので、政府がどう考えようと審議会の答申を閣議決定するというものだ。この場合は、国民に選ばれたわけではない審議会が、政府以上の権限を持っていいのかというレジティマシー(正統性)の議論が出るはずだ。どちらに転んでも、答申がそのまま閣議決定になるのは変だということになる。

 しかし私に言わせれば、そのどちらの理由でもない。答申がそのまま閣議決定されるのは、審議会事務局(つまり総合計画局)がそうなるように調整するからなのだ。事務局は審議会の議論をまとめるのだが、この時、同時に政府の各省にも相談する。各省から「そういう内容だと閣議決定できない」という意見が出ると、審議会の委員にその旨伝えて、「審議会の考えを反映しつつ、各省も納得するような落としどころ」を探る。こうした調整を繰り返す結果、審議会の答申が最終的にまとまった時には、同時にその内容は閣議決定できるようなものになっているのである。

 これは、お互いに相手の考えを考慮しながら妥協点を探っていくという、いかにも日本的な調整である。これを海外の人々に説明するのは結構難しいが、日本の関係者は何も説明しなくても「大体そんなところだろう」と思っているので、何の疑問も持たないということなのであろう。

 こうして経済計画は完成するわけだが、私が担当した「1980年代経済社会の展望と指針」は、なかなかスムースに作業が進まず大いに苦労した。恐らく私の役人生活の中で最も心労の多い苦難の時となった。紙数が尽きてきたのでこの話は次回に回すことにしよう。



※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。