
日本病院会が2018年6月、全国の会員病院に対して経営状況についてアンケートしたところ、全国1111病院のうち598病院の経常損益が赤字だった。経常赤字の病院は全体の54%。調査を通じて、病院経営の厳しい実態が改めて明らかになった。
経常赤字の病院は、「人件費や設備投資の負担が重く、患者数が多くても経営は厳しくなっている」という。筆者は病院経営が厳しい現状に、日本の医療機関ならではのジレンマを感じる。
商品、サービスの売り上げをどう伸ばすかを考えるマーケティングの世界では、「Product」(商品)、「Price」(価格決定)、「Place」(流通)、「Promotion」(販売促進)の4つのPが重要と考えられている。
これは米国の経営学者、エドモンド・マッカーシー元ミシガン州立大学教授が1960年代に提唱したマーケティングの古典的理論だが、シカゴ大学のコトラー教授がこれに言及し、近年、医療界でも注目されている。日本の医療機関の場合、マッカーシー教授が挙げる4Pのうち、最も重要と言える「Price」(価格決定)を自らの判断で決定できないのである。
日本では1958年、医療サービスに全国一律の公定価格が導入され、1961年に国民が医療機関を安価に受診できる国民皆保険制度が確立した。公定価格の導入や国民皆保険制度が確立する以前は、医療機関は敷居の高い存在だった。
往時を彷彿とさせるエピソードがある。
「往診に行きますと、患者のお腹が膨れてしまって、肝臓がんなのか、胃がんなのか、あるいは腎臓が悪くてお腹が膨れているのか分からないということがよくありました。『これはもう手術できません』というと、『ありがとうございました』といって一同、喜ぶわけです。隣の部屋に案内されると『先生、まあ一杯』とお酒が出る。病院から医者を呼んできたというだけで、本人も家族も満足するわけです」(新村拓『国民皆保険制度50周年』法政大学出版局)
公定価格、国民皆保険制度の導入により、敷居が高かった医療機関、医師が身近な存在になり、「病気になった」「体調が悪くなった」というと、安心して医療機関を受診できるようになった。半面、医療の価格は国が決める公定価格になり、医療者からすると、技量や評判に関係なく、価格が決まるようになったのである。
医療機関からすれば、これは人件費や材料費など医療サービスを提供するためのコストが増えたとしても価格に転嫁できないことを意味する。この公定価格、国民皆保険制度の負の側面こそ日本の医療機関が抱えるジレンマの要因だろう。
公定価格、国民皆保険制度にはもう一つ問題がある。日本の医療機関は公定価格のもと経営をどう改善するかを目標とするあまり、対症療法ではない「体調を整える」「不要な延命治療を施さない」といった本当の意味での患者のニーズを見失いがちなことである。
厚生労働省が日本の医療サービス全体の戦略を考え、国民皆保険制度という公平を第一とした制度のもと、全国の医療機関を護送船団のようにリードすることが可能な時代は問題ではなかった。しかし、今、医療機関を巡る状況は変わりつつある。
まず市場原理で病院が市場から退出を余儀なくされるケースが増えてきた。これは企業と同じ倒産である。本業不振による倒産の増加は、これまでのような公定価格による護送船団の医療経営が通用しなくなったことを示す証左であろう。
東京商工リサーチの調べによれば、2017年の医療福祉事業の倒産は前年比10.6%増の250件、負債総額は18.7%増の364億100万円という。その内訳は、負債10億円以上の大型倒産が9件、負債1億円未満の小規模倒産が212件となり、小規模事業者の経営が苦しい状況が窺える。
さらに、厚生労働省は2019年10月、全国の病院の29.1%にあたる424病院が地域医療構想を踏まえた再編統合の対象であるとして、病院名の公表に踏み切った。厚生労働省のリストには自治体が設置者になっている公立病院が多く含まれており、地域行政の観点から設置されている公立病院をなぜリストに入れたのかよく分からない部分もある。ただ、赤字の公立病院も多く、赤字分を税金で補填する現在の病院経営のあり方に厚生労働省が改善を求めているという見方もできる。
日本の医療費は2018年度で42.6兆円(概算)と10年前に比べて22%増えている。10年後の2028年度にはさらに増えるとの試算もある。国もこれまでのやり方では、やっていけないのである、
このような窮状を打破する方法はなかったのであろうか。厚生労働省が戦略を決めるとしても、毎日のオペレーションを効率化することにより経常赤字を黒字にした病院経営者はいる。山形県立中央病院(山形県)や松阪市民病院(三重県)、坂出市立病院(香川県)の経営改善の取り組みは、医療者の間で知られる成功例である。【1】
しかしながら、今後、全国の病院の経営改善を図っていくためには、従来からのオペレーションの効率化では難しいだろう。大きな流れとしては患者の本当のニーズを汲み取り、地域社会のニーズへ適合していくことを実行できる病院が求められるのではないだろうか。そうした患者個人、地域社会のニーズの中には、保険診療のみならず、患者の利便性を提供する、ICTやAIを活用した医療サービスが多く含まれるだろうというのが、筆者の見解である。
まの・としき 1961年、愛知県生まれ。名古屋大学医学部卒。米国コーネル大学医学部研究員、昭和大学医学部講師、多摩大学医療リスクマネジメント研究所教授を経て、中央大学大学院戦略経営研究科教授。内科専門医。京大博士(経済学)。
【1】病院経営者による経営改善の取り組みについては、世古口務『松阪市民病院 経営改善の検証』(日本医学出版)、後藤敏和『大変だ!! 地方中核病院長 奮闘記 病院経営の可能性を探った4年間の記録』(ロギカ書房)、塩谷泰一『もっと病院変わらなきゃマニュアル』(日総研出版)に詳しい。
(写真:AFP/アフロ)
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