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医療

菅義偉政権の規制改革、医療界への衝撃

中央大学教授 真野俊樹

2020/10/14

菅義偉政権の規制改革、医療界への衝撃

 政府は、行政や民間の手続きで書面や対面の対応を義務付けている規制について、デジタル化で代替できるものは規制の撤廃を検討するという報道があった。【1】 政府は工程表を作成し、その工程表に即して該当する手続きについて、①押印廃止②書面・対面対応の撤廃③常駐廃止④支払いの電子決済化――の順に規制を撤廃していく方針だという。

 安倍政権は、経済政策として「3本の矢」を掲げていた。第1の矢は金融政策、第2の矢は財政政策、第3の矢は規制改革であった。日本経済をどうやって活性化するかについては議論があり、小泉政権では構造改革、すなわち第3の矢に重点が置かれた。一方、安倍政権は金融政策、財政政策に重点を置き、規制改革を実行するとは言ったものの、目立った取り組みはなかった。

 一方、「仕事人内閣」を標榜する菅義偉政権は規制改革に重点を置き、内閣府に設置した規制改革会議で議論、検討を進めると明言している。そして規制改革の第1段階として押印廃止を挙げる。押印廃止は、印鑑中心の日本文化に対する挑戦とも言え、シンボリックな取り組みである。一方、第2段階から第4段階を見ると、医療界にインパクトのある規制改革が3つ、組み込まれていることがわかる。

 この規制改革が実施された場合、医療界に何が起きるかを考えてみたい。まず第2段階の「書面・対面対応の撤廃」に位置付けられたオンライン診療をみる。現行、オンラインによる初診診療は、人と人の接触機会を削減する新型コロナ感染対策として期間を限定して認められている。これが恒久的な規制改革として解禁されることは大きなポイントになる。

 オンライン診療は対面による触診や聴診、血液検査などの臨床検査を伴わない診療になるので、その信憑性は薄いとされる。したがって、すぐに多くの患者がオンライン診療を利用するようになるかどうかはわからないが、例えば、一定の医学知識を備えた人が、「風邪だから大したことはない」といった自分の判断を確認するために、オンライン診療を利用するケースは増えるだろう。

 さらに驚いたのは、第3段階に置かれた産業医と調剤薬局における薬剤師の常駐廃止である。まず産業医の常駐廃止をみてみる。産業医の常駐廃止の背景には、地方の医師不足に加えて、健康診断対応やストレスチェック対応、過重労働者の面談など、産業医の業務の多くはオンライン化が可能であり、事業所に常駐する必要性は乏しいという経済界の指摘があるという。【2】

 この規制改革が実現すれば、現行、常駐産業医1人以上の専任が義務付けられている従業員1000人以上の事業所についても、従業員50人以上1000人未満の事業所と同じように、常駐産業医を置かなくてもよいことになる。【3】企業側からすれば、高額な人件費のかかる常駐産業医を非常勤の嘱託産業医に置き換えることができれば、大きなコストカットにもなるだろう。

 これは非常勤の嘱託産業医にも言えることだが、産業医の業務が全てオンライン化されるようになれば、従業員が働いている現場を訪問したことがない産業医も出てくる。近年、日本においてはメンタルヘルス不調による従業員の休業・退職といった問題が深刻になっており、産業医の役割は大きくなっている。それだけに、産業医と職場のかかわりを少なくする常駐廃止は果たしてよいのかという疑問もある。

 これには、産業医の側にも問題がある。経済界が産業医の業務をオンライン化すれば良いと判断した理由を考えると、おそらく産業医の業務が定型的で一方的なものと考えたからではないか。産業医科大学(北九州市)のように産業医養成を目的とした医科大学がつくられ、その重要性が意識される半面、企業、労働者の視点をもった産業医はまだまだ少数と言わざるを得ない。

 産業医は、医学的見地から従業員の健康問題を解決するために指導・助言する医師である。産業医選任の意図からすれば、産業医は従業員の労働環境や労働状況を把握し、従業員にとってより近い存在になることが求められる。そのためには、医師が一従業員として勤務したり、医学だけでなく、経営学を学んだりすることを通じて、産業医の専門性をどう深めていくかという問題にも繋がるだろう。

 一方、薬剤師の常駐廃止はどうか。調剤薬局の主な業務は薬剤情報の提供と医薬品の物流にあるとはいえ、薬剤情報の提供については医師の関与も大きい。薬剤情報は薬剤師からしか得られないと考える人は少ないだろう。オンライン診療が普及すれば、厚生労働省が推進してきた患者の薬歴を知る「かかりつけ薬局」とは異なり、患者にとって利便性の高い調剤薬局が主流になっていくと思われる。

 もっとも、オンライン診療が普及した社会になるとすれば、いかなる調剤薬局が主流になるのか現時点では分からない。患者のニーズは、医薬品を24時間、受け取れる利便性にあるのか。それとも、医薬品をできるだけ早く受け取れる利便性にあるのか。または、少しでも安くという経済性なのか。いずれにせよ、薬剤師が常駐しない調剤薬局が増えれば、薬剤師の仕事は失われていく可能性が高い。

 産業医と調剤薬局における薬剤師の常駐廃止は、いずれも国内消費への影響も少なくないものと思われる。このような規制改革が起きれば、仕事が失われていく産業医や調剤薬局の薬剤師だけでなく、「明日は我が身」と考える医師や薬剤師が現れても不思議ではない。一般的に高給取りと考えられてきた医師や薬剤師の財布の紐も必然的に硬くなっていくだろう。

 規制改革による医療職の職場喪失の問題を難しくするのは、専門職であるがゆえに業態転換が難しいことだ。筆者は、現在も産業医をしているが、臨床現場からは3年前に離れた。これは、患者の診察・治療よりも医療経営学などの研究に、より重点を置くようになったということであるが、最先端の医学についていくための時間が割けなくなったということでもある。

 専門職は、通常考えられているよりも、最先端の知識や技術のキャッチアップに時間がかかる。法科大学院ができた時期には法曹資格を取って弁護士に転身しようとする医師も現れたが、一般的には医師や薬剤師が他業種へすぐに転職するというわけにはいかない。それらの業態転換の難しさもあり、常駐廃止の規制改革には新型コロナ感染症と闘う医療職の不安を相当程度、増やすインパクトがある。

 

 まの・としき 1961年、愛知県生まれ。名古屋大学医学部卒。米国コーネル大学医学部研究員、昭和大学医学部講師、多摩大学医療リスクマネジメント研究所教授を経て、中央大学大学院戦略経営研究科教授。内科専門医。京大博士(経済学)。

 

【1】日本経済新聞朝刊2020年10月9日付

【2】日本経済団体連合会、ソサエティ5.0の実現に向けた規制制度改革に対する提言、2020年3月17日、改訂 Society 5.0の実現に向けた規制・制度改革に関する提言、2020年10月13日

【3】従業員50人未満の事業所は常駐産業医の選任義務はない。

 

(写真:AFP/アフロ)

 

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