
マクロ経済スライドは、 年金給付の改定率を賃金上昇率より低く抑えて、年金財政を長期的に均衡させる仕組みだ。2016年の年金法改正の主な目的は、その効果を強化することだったが、 マクロ経済スライドは2004年の制度導入以来、1回しか発動されていない。
日本の公的年金の主な財源は加入者が払う保険料、国庫負担、積立金運用益の三つである。加入者が払う保険料は定率に固定されており、現役世代の人口が減少したり、平均余命が伸びたりすれば、年金給付を引き下げなくてはならない。
保険料率を固定することは、国内総生産(GDP)の一定割合を年金財源としてあらかじめ占有することを意味する。マクロ経済スライドの発動を遅らせれば遅らせるほど、先の世代に負担が集中することになる。逆にマクロ経済スライドが早期に発動されれば、保険料率を固定することによる負担を広い世代に分散することができる。
マクロ経済スライドが導入されているにもかかわらず、制度導入以来、1回しか発動してこなかったのは、物価や賃金が低下しても年金給付を引き下げないという措置があるためだ。この背景には、 デフレが一時的な現象で物価や賃金は上昇するものと考えられていたという事情があるが、デフレで物価や賃金が下落する中で年金給付の名目額を維持すれば、 年金給付の所得代替率は上昇する。
厚生労働省「平成26年財政検証レポート―国民年金及び厚生年金にかかる財政の現状及び見通し」(以下、「2014年財政検証」)によれば、民間企業に勤めた年金受給者の所得代替率は、2009年から2014年にかけて62.3%から64.1%へ上昇している。賃金や物価が下がりながら、マクロ経済スライドが発動されないことに対する懸念は、社会保障審議会年金数理部会「平成21年財政検証・財政再計算に基づく公的年金制度の財政検証」でも示されている。
試算の前提が異なるので単純な比較はできないが、 厚生労働省年金局数理課「厚生年金・国民年金 平成16年財政再計算結果」(以下、 「2004年財政再計算」)と「平成21年財政検証結果レポート―国民年金及び厚生年金に係る財政の現況及び見通し(詳細版)」(以下、 「2009年財政検証」)それぞれの標準的な推計である「基準ケース」と「経済中位のケース」 【1】 を比較すると、厚生年金の財政を健全化する調整期間は2023年から2019年に短くなったが、国民年金は逆に2023年から2038年に長くなった。
調整期間終了時の所得代替率も、厚生年金は21.8%から23.4%へ上昇するが、国民年金は配偶者への給付との合計値が28.4%から26.8%へ低下する。「2014年財政検証」でもこの傾向は続き、過去の推計と比較されるケースCでは、厚生年金の調整期間は2019年から2018年へとさらに短くなり、年金の所得代替率は23.4%から25.0%へ上昇する。半面、国民年金の調整期間は2038年から2043年まで長くなり、所得代替率は26.8%から26.0%へ低下する.
賃金や物価が下落する中でマクロ経済スライドを発動すると、年金財政にどのような影響があるのかを検証するため、「2014年財政検証 」では従来からの経済変動がないことを前提にした基本ケースに加えて、新たに2つのパターンの試算を行っている。
1つは、景気が周期的に変動する状況下でマクロ経済スライドを発動しないケース(以下、景気変動ケース) である。もう1つは、景気が周期的に変動する状況下でマクロ経済スライドを発動するケース(以下、発動ケース) である。
推計結果によれば、ケースCの景気変動ケースでは、 厚生年金の調整期間は2018年、所得代替率は25.0%となり、国民年金の調整期間は2043年、所得代替率は25.8%になった。 一方、発動ケースでは、厚生年金の調整期間は2018年、所得代替率は25.0%となり、国民年金の調整期間は2043年、所得代替率は26.2%になった。
景気後退を前提にしたケースGではマクロ経済スライドを発動するかしないかによる影響はさらに顕著になる。景気変動ケースでは、 厚生年金の調整期間は2033年、所得代替率は21.7%となり、国民年金の調整期間は2072年、所得代替率は17.8%になる。 これに対して発動ケースでは、 厚生年金の調整期間は2030年、所得代替率は22.1%になり、国民年金の調整期間は2050年、所得代替率は22.4%になる。
これらの試算から、マクロ経済スライドは景気後退期には、給付水準引き下げの影響を緩和する効果が大きいことがわかる。公的年金が現在の枠組みにある限り、物価や賃金が下落する状況で年金の給付水準を維持することは、将来の給付財源を先食いすることに他ならない。
保険料の水準を維持したまま、将来の給付水準を維持するためには、 年金財源を増やすことが必要であり、その方法が賃金上昇、加入者対受給者の比率の改善、積立金の運用益改善であることは明らかである。
賃金が上昇すれば保険料収入も増え、給付を維持するための年金財源は自動的に増加する。そして、賃金上昇率を改定率とする限り、賃金上昇による保険料収入の増加分をそのまま消費することになる。加入者対受給者の比率が悪化している状況では、給付改定率を賃金上昇率より低く設定しなければ、将来の給付水準を維持することはできない。
加入者対受給者の比率については、一定の比率を維持できるか否かがカギになる。これは、現在の保険料拠出が将来の年金給付に直結しているからであり、たとえ低い水準であっても一定の比率を維持できれば、保険料率を引き上げることなく給付水準を維持することができる。
現在のように加入者対受給者の比率が悪化している状況では、その悪化を食い止めることが重要である。働く意欲がある人が働くことができないという状況は解消しなければならない。
積立金の運用益改善は、 最も直接的に年金財源が増加する方法である。 賃金上昇や加入者対受給者の比率の改善と異なり、積立金の運用が改善しても年金給付は増えないからだ。積立金の運用益改善で重要なのは、運用利回りと賃金上昇率の差 (スプレッド) である。
日本では年金財政の健全性を積立度合で評価しているので、積立度合を維持するために必要な金額を差し引いた残額は、保険料収入が年金給付を下回らない限り、年金財政の改善に利用できる。【2】
将来に一定の不確実性がある以上、我々にできることは、様々なシナリオの将来見通しを作成するとともに、シナリオを見直す際のルールをつくること、そして、より良いシナリオを実現するための政策を実行することである。年金制度をどのように設計しても経済動向に著しく左右される。年金給付の維持にはより良い経済環境を実現することが、必要である。
よこやま・ひろかず 1978年、愛知県生まれ。関西学院大学経済学部、同大学院経済学研究科修了。愛知大学経営学部助教を経て、下関市立大学経済学部准教授。関西学院大博士(経済学)。

【1】 「2004年財政再計算」および「2009年財政検証」では、標準的なケースの推計と経済成長率が高いケースの推計、経済成長率が低いケースの推計を行っている。
【2】 積立度合は、積立金の当期首残高を当該期の年金給付額で除して算出する。
(写真:AFP/アフロ)
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