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新井淳一の先を読む

2012年1月18日 TPPが日本を変える

国家経済にとって4本かそれ以上の支柱を持つ枠組みの方が好ましい。2本足に頼るのは良くない。そしてもっと悪いのは1本足に頼ることである。
(ポール・ケネディ 世界の運命 中公新書)


 みなさんも推察するように、このくだりは英国の偉大な政治風刺家ジョージ・オーウェルの小説「動物農場」を下敷きにしている。小説では豚たちが「4本足は良い、2本足は悪い」と、他の動物をそそのかし、人間に反乱を起こす。ケネデ゙ィ氏は動物にとっての2本足より国家にとってはもっと悪いものがある。それが1本足経済だというのである。

 「日本経済は1本足だ」というと、「そんなはずはない」とお叱りを被るだろう。しかし、国際競争力があり外貨を稼げる産業がごく限られた業種という意味では、どう見ても1本足だ。GDP(国内総生産)で2割のウエートしかない製造業が日本に入る外貨のほとんどを稼ぎ出す一方、7割のウエートのサービス業は、国内中心で国際競争力は十分でない。しかも、一口に製造業といっても、稼ぎの多いのは自動車、機械、電子部品、素材、化学など指折り数えられるぐらい。1本足といっても過言ではないのである。

 環太平洋経済連携協定(TPP)の参加交渉がこれから始まる。TPPの本質は比較優位を持つ部門に大きな利益をもたらす半面、比較劣位部門に集中的な調整コストを発生させるというものだ。強いものはより強く、弱いものはより弱く、つまりは、1本足経済の特色が一段と強まる可能性が大なのである。

一本足経済のリスク

 1本足経済の弱点は為替の問題を見れば分かる。円安になれば勢いがつくが、円高では勢いを失う。円高を享受し力強く拡大する別の支柱があれば、国全体としてはバランスがとれるが、現実は理屈通りには動いていない。むろん、円高は対外直接投資やM&Aに有利で、その面から1本足経済を支えるが、これも行き過ぎると国全体で産業の空洞化、雇用の喪失に悩む。TPP交渉開始と平行して日本経済の支柱をできるだけ多くする工夫が必要ということだ。

 1本足のリスクについて、諏訪中央病院名誉院長の鎌田實さんは、お医者さんらしい切り口で説明している。鎌田さんによると、日本経済の骨格は、上半身が世界で猛烈な競争をしている産業群、下半身がそれを支える福祉、医療、教育といった国内産業群である。下半身の充実だけに力を入れると社会主義になるが、半面、小泉構造改革のように上半身だけを鍛えようとするのも間違いというのである。結論は上半身と下半身のバランスのとれた経済、「ウエットな資本主義」というのだが、日本がTPPに参加するならこの視点を欠くわけにはいかない。

日本は変わるから、売らない。恐らく今後5年の間に日本への投資は現在よりずっと大きくなるだろう。
(ノルウエー中銀インベストメント・マネジメント I・シュリングスタCEO 日経ビジネス 特集「日本株、買いの条件」、11年6月11日号)


 TPP参加をめぐる論争は、推進・反対に分かれ、文字通り国論を二分している。しかし、考えてみると、日本にとって通商・通貨問題をめぐる国論の分裂は、過去に遡れば珍しい光景ではない。1960年代のガット(関税・貿易一般協定)、IMF(国際通貨基金)加盟、70年代の円切り上げ、80年代の日米経済摩擦、90年代のウルグアイ・ラウンドとそれぞれの局面で開放派と開放反対派が激しく争った。TPPは単なる関税・非関税障壁の撤廃ではなく、投資や知的財産権、政府調達などを含む幅広い政策合意を目指すものではある。それだけにこれまでの「開放」と質が違うという言い方も可能だが、国をひらくことの良し悪し論争という意味ならば、見慣れたものといって差し支えが無い。

 しかも、過去の経験から見れば、日本という国は「開放」を選択したほうが結果としてよかったという結論が出ている。例外なくすべてのケースでそれは言える。資源・エネルギー・食料といった基本材を他国に頼っている日本としては、「開放」が国是となるのは自然なのである。

  具体例をあげよう。山形県のサクランボ。米国産の輸入が解禁されたのは1977年であった。当時もこれで山形産は壊滅するとの声が大きかった。ところが、現在の同県サクランボの生産量は解禁当時の1.3倍に増えている。

 90年代の米国との電気通信市場の自由化を巡る論争。自由化で強力な米国資本が乱入、日本は要の分野で壊滅との見方があったが、結果は競争原理の導入で接続料が下がり、市場規模は5兆円から15兆円へ3倍増。通信事業者数も1万5000を越えた。

 ガット加盟、IMF加盟、ウルグアイ・ラウンド交渉など大きな「開放」は評価の仕様も無いが、日本経済が世界のGDP大国にまで駆け上がったのだから、サクランボや電気通信と同様、大きな「開放」も結果よしだったことはたしかだろう。

TPPにも打つ手はある

 それでもTPPは違うよ、という向きもあるかもしれない。たとえば、米に代表される農業。これまでの「開放」ではだましだましの解決だった。93年決着のウルグアイ・ラウンドでは700%を超える事実上の禁止関税を条件に「開放」が決まった。その代償として70万トンの外国米が輸入されているがこれらの米は市場にほとんど出ることはなく、飼料、加工用、援助米などになり、かなりの部分は廃棄される。

 TPPではこうしたあいまいな解決は許されないだろう。しかし、若年農業者の育成、農地の大規模化、株式会社の導入、輸出市場の開拓など打つ手がないわけではない。財政資金の投与も可能だ。韓国は米国とのFTA締結にあたって農産物の「開放」に14年間で9兆円の資金を投入中だ。農業の生産規模が2倍の日本で同じ規模の対策をすれば20兆円、10年間で実施なら年間2兆円だ。内閣府の試算ではTPP参加で増える年間GDPは2.4〜3.2兆円。お釣りがくる計算だ。要はこのお金が農業の国際競争力強化につなげる工夫が必要なのである。

 TPPへ日本が参加することは、諸外国から見て日本国の使い勝手がよくなることでもある。そのために、ひと・もの・カネのそれぞれの分野で大胆な規制緩和とこれまでにない改革を断行する。「アジアの成長を取り込む」がはやり言葉だが、むしろアジアの人々に日本を使ってもらうべきなのである。

 1本足経済はガラス細工に似て美しいが壊れやすい。円高ひとつでグラグラする。小売、卸売、通信、娯楽、電力、港湾、空港、宣伝、教育、医療、金融。1本足経済からの脱却の受け皿としてのサービス業の中には多様な業種が含まれる。この分野で身を切る努力を前提にして初めてTPP参加が意味を持つ。「日本は変わるから、売らない」と言ったシュリングスタさん、日本への留学経験もあり日本を良く知る。彼の信頼に日本が応えるにはTPP参加に勝るものはない。

(日本経済研究センター会長)

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