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2015年2月18日 ピケティ現象と日本の現実:「分配政治」偏重と成長政策の貧困

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日本経済研究センター参与 小島明
 フランスから飛び出した“ロックスター経済学者”と称されるトマ・ピケティ仏パリ大学教授は、日本でも大旋風を巻き起こしている。話題の著作『21世紀の資本』の日本語訳は出版後数週間で10数万部も売れ、構造的な出版不況に悩む出版界では邦訳書の出版社が羨望の的にもなっている。同書のテーマは「格差」であり、格差拡大をめぐる議論がもともと盛んな日本においては、国会での経済政策論議でも「格差」が争点になっている。

稼げない資本と企業家精神の劣化

 だが、日本の現実はピケティ教授の議論とはだいぶ異なる、日本独自のものではないか。バブル景気崩壊後、つまり1990年代以降に限れば、資本は「稼ぐ力」を劣化させ、かつては輸出の主役であり日本経済のリード役だった電子産業の生産は2000年の26兆円をピークとして下降し続け、現在は11兆円程度しかない。貿易収支はなんと赤字に転落している。日本においては「資本」の「稼ぐ力」の回復こそが問題である。産業全体でも「稼ぐ力」の回復、強化が課題である。

 法人税収(国の一般会計分)の推移をみれば、それは明らかである。バブル景気のピーク時、1989年度には16兆円あった法人税収は2014年度には10兆円程度(見込み)でしかない。いろいろ特例措置はあるが、上場企業で法人税を払っている企業は3、4割しかない。
 
 ピケティのいう「資本」は国債、株式、社債など有価証券、銀行預金、および土地や家屋などの不動産も含んだ概念であり、「資本」というより「資産」である。家電メーカーなどには収益確保のために不動産や工場などの資産を売却して数字合わせをしている企業も多いが、そうして得た収益は「資本」が稼いだものではない。

 日本が現在直面している課題は、「資本」が稼ぐ力を回復し、収益率を高めることではないか。また、所得の格差拡大が問題となっているが、最近の格差は正規雇用と非正規雇用の所得格差とその固定化で「雇用の身分化」とも言える状況になっている問題と、世代間の負担の格差、高齢者層のなかで格差の拡大の問題である。どれも日本的な問題だと言える。

 とりわけ非正規雇用の正規雇用との所得の格差は大きい。さらに正規雇用より所得が5割も6割も低い非正規雇用の比率が、金融危機が表面化し企業においてリストラと称する雇用調整が本格的に始まった1998年以降急増したことが所得の格差を拡大させてきた。労働組合も最近まで正規雇用の組合員にだけ関心を向け、非正規雇用の問題にほとんど配慮を示さなかった。

 経済協力開発機構(OECD)は、近年、日本の長期雇用制度が「既得権」化している現状を指摘し、もっと柔軟な雇用制度・慣行に是正する必要があると勧告している。雇用と所得の格差は企業のガバナンスの問題であるとともに労働組合の問題でもある。

 株価はアベノミクスの登場と歩調をあわせて上昇しているが、個人の株式保有は減少傾向にあり2013年には18.7%と20%を下回った。対照的に外国人投資家の保有は5年連続の買い越しで上昇し、30%を超えている。売買取引における外国人投資家の比重は7割にも及んでいる。預金と国債はほとんどゼロ金利で収益率はかつてない低い水準となっている。

 企業に現在求められているのは、企業家精神だろう。政府の「成長戦略」(アベノミクスにおける「3本目の矢」)で企業ガバナンスの重要性が繰り返し強調されているのはこのためである。雇用を減らし、所得が低い非正規雇用の比率を上げて労働コストを引き下げることによって利益を確保するやり方には企業家精神が感じられない。国際通貨基金(IMF)もこの点に関して、日本企業の手元資金(内部留保)の株式時価総額に対する比率が主要先進7カ国(G7)の中で飛び抜けて高いことに注目、「日本企業は手元資金を抱えたままでなく活用せよ」と呼びかけているほどである(IMFによる日本経済審査、2014年7月)。

「分配偏重の政治」と「成長の政治」のバランスを

 戦後の高度経済成長期には、結果として所得格差が縮小した。それには分配の政治が機能して面もある。「均衡ある国土の発展」といった標語を掲げた経済計画が戦後いくつも打ち出された。「均衡ある」とは「格差がない」ということで、「大都市と地方の格差をなくす」という謳い文句で公共事業の地方への傾斜配分などの政策がとられた。政治は「1票の格差」の問題が示唆するように地方優先の分配の政策が行われてきた。

 成長が経済学で軽視されたわけではない。だが、先進国のなかでは日本の経済学界はいまでもマルクス経済学のウエートが高く、分配問題への関心は昔から高かった。実際の政策は、いわゆるキャッチアップ時代には若干、国家資本主義的な色彩をもち資源を中央に集中し効率的に工業化を実現しようとした。このやり方はキャッチアップ時代には有効に機能し、経済成長、産業発展が確保された。その結果、政治が「分配」偏重になっても、成長が犠牲になったわけではない。分配するパイである成長の成果がたっぷりあったので、成長と分配が両立できた面もある。

 しかし、高めの成長を確保しやすいキャッチアップ過程は1980年頃までに終わった。その後、今日にいたるまでポスト・キャッチアップの経済発展モデルは構築できないままでいる。1998年以降のデフレで経済は縮み続けている。分配できるパイはマイナスになっている。

 2013年度の名目の国民総生産(GDP)は前年度より1.8%増えたとはいえ483兆円であり、これは20年前の1993年の水準(489兆円)を下回っている。日本にとって問題とすべき重要な格差の一つは、日本と海外各国の成長率の格差、国際競争力の格差(低下)である。

 1993年を100とした2013年の各国のGDPを比較すると、中国1609.8、韓国447.8、米国の244.2に対して、日本は97.4でしかない。当然、世界経済に占める日本のGDPのシェアは低下した。1990年には13.8%だったものが、2013年には6.6%になっている。

 成長を確保しないまま分配偏重の政策をとれば、行き着くところは「みんな等しく貧乏」の社会である。あるいは格差拡大には歯止めをかけられても社会全体が貧困化するシナリオとなる。

 人口が減少しているからGDP全体でなく1人あたりGDPが重要だという指摘も多い。それはその通りだが、1人あたりGDPも、各国比較ではランキングが大きく低下している。

 IMFの資料によると、日本の1人あたりGDPは2000年には世界3位だったが2010年には16位、2014年には26位にまで落ちた。円安・ドル高はランキングの低下に拍車をかける。

「格差」と「格差感」の格差(ギャップ)

 格差問題を議論する際、現実の格差と格差感を区別することも肝要である。高度経済成長の時代には経済のいわゆる期待成長率も高く、所得増加への期待も大きかった。この期待が企業の積極経営をもたらし、人々の間の「格差感」を弱めた。ひところは「1億総中流化」の感覚を国民が共有した。

 しかし、デフレが長期化し、そのなかで負担を分担(負の分配)が議論され将来への期待が低下するなかで現実の格差以上に格差感が強まる傾向がある。

 なお、格差論議をしている政治家に関しては前述の「1票の格差」のほか、政治家自身の世襲化が問題になっている。政治が国の政治においても地方の政治においてもだんだん「家業化」し「世襲化」している。その結果、新しい人材が参入しにくい状況が生まれている。小選挙区制では世襲政治家が有利になり、ますます世襲化が進む。また小選挙区で当選するため国政レベルの大きな政策問題より地域の住民の問題が政治家にとって優先され、分配偏重の政治がいっそう強まる結果ともなりかねない。

 分配論議、格差論議は民主主義政治のもとで引き続き重要なテーマとして関心を持たれ続けるだろう。しかし、デフレが10数年も続く日本においては成長の政治、成長の政策をより真剣に議論する必要がある。

 成長の政治が軽視され分配偏重の政治が行われた典型的な分野が農業である。それは保護という名のバラマキ政策であり、産業政策ではなく社会政策だった。その結果、産業として競争力、成長力のある農業にはならず、農業における企業家精神が政策(政治)により劣化し続けた。農業生産額はピークの1980年代半ばの12兆円弱から2009年には8兆円にまで落ち込んだ。8兆円といえば、大企業1社分の売り上げでしかない。
いろいろな点で日本の格差問題はピケティの世界とは異なる。

(2015年2月18日)


(日本経済研究センター参与)


※2011年7月に本サイトのコラム名が(旧)「小島明のWEBコラム」から(新)「小島明のGlobal Watch」に変わりました。
本サイト右上のバックナンバーの内、11年5月18日までは、掲載当時に「小島明のWEBコラム」としてご紹介した内容です(WEBコラムは11年5月18日で終了しました)。
(新)「Global Watch」のバックナンバーはこちらのページをご覧ください。


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