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小峰隆夫の私が見てきた日本経済史

2018年2月19日 むすびを書く−経済白書ができるまで(5)

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日本経済研究センター研究顧問 小峰隆夫

 白書の執筆は順調に進み、ついに「むすび」を書くところまで進んできた。むすびは誰も原案を書いてくれないから、最初から自力で書くしかない。白書に限らず、本にしても報告書にしても「むすび」はとても重要である。忙しい人はむすびだけ読んで済まそうという人もいるし、最後がきっちりまとまれば全体の印象は格段に良くなる。

バブルとは何だったのか

 むすびは、各章の要約から始まる。私は、第1章の景気問題、第2章のバブルの生成と崩壊、第3章の経常収支黒字問題、第4章の構造問題についての記述を読み返しながらそのエッセンスをまとめていった。ここまでは簡単だ。問題は、むすびのさらに最後の部分(むすびのむすび)である。

 93年白書の最も大きなテーマは、バブルの総決算である。したがって、むすびのむすびも「バブルとは何だったのか」を示すことにした。このむすびが出来るまでには、やや長い話がある。

 93年の1月に私が内国調査第一課長になってしばらくしたころ、大蔵省印刷局の人が私のところにやってきた。印刷局が出している「政府刊行物新聞」の「万華鏡」というコラムに匿名で何か書いて欲しいという依頼であった。

 このコラムは、「霞ヶ関ペンの会」の会員が交代で執筆するという形を取っていた。霞ヶ関ペンの会というのは、政府の役人である傍ら執筆活動も積極的に行っている人達の集まりである。政府の役人の中には、結構書くことが好きな人がいる。私は当時までに10冊以上本を出していたので、その代表選手的存在だったのだが、私よりたくさんの本を出している人もいたし、小説を書いた人もいた。世の中には、結構書くのが好きな人が多いのである。ただし、「ペンの会」といっても、会合などを開くわけではなく、匿名にするための架空の存在である。

 私は、基本的には「注文には応える」という姿勢を貫いているので、このエッセイの執筆を快諾した。材料としては、ちょうど「バブルとは何だったのか」ということを考えていたので、この点を分かりやすく整理してみようと思った。

 私は改めて考えてみた。80年代後半のバブルの時は、みんなが豊かになったような気になっていた。気になっていただけでなく、実際に所得は増え、経済は繁栄した。しかも、そのために誰かが困ったということもなかった。その限りでは、バブルは良いことばかりであった。問題はそれが長続きしなかったことだ。こう考えてくると、「経済が繁栄する」というプロセスを評価するには二つの尺度がありそうだ。一つは、「誰かが豊かになったときに、それが他人の犠牲の上に実現したのかどうか」であり、もう一つは、「そのプロセスが長続きするかどうか」である。経済の言葉で表現すれば、前者は「プラス・サムかゼロ・サムか」であり、後者は「サステナブルかどうか」である。経済の繁栄は、できるだけ「プラス・サム」で、かつ「サステナブル」であることが望ましい。バブルは、「プラス・サム」ではあったが、「サステナブル」でなかったことが問題だったのだ。

 このように考えてきて、結局、私は次のようなものを書いた。まず、経済が成長し、所得を増やすには、@資産価格の上昇(バブル)、A交易条件の改善(例えば、OPECの石油価格の引き上げ)、B生産性の向上という三つの手段がある。しかし、バブルは「プラス・サム」ではあっても「サステナブル」ではない。交易条件の改善は「サステナブル」ではあっても「プラス・サム」ではない。「プラス・サム」でかつ「サステナブル」なのは、生産性の向上しかない。つまり、経済を構成する人たちがより効率的に働くようになることが唯一の経済発展の道である。

 それからしばらくして、経済白書を執筆していった時、私は第2章のバブルの分析の最後に、「バブルとは何だったのか」を書き、このエッセイの内容をそのまま使ったのである。ところがその草稿を読んだ土志田局長(元日本経済研究センター理事長、故人)が、「これは第2章の結びではなく、白書全体の結びに使ったらどうか」と言い出した。私も「なるほどそれは名案だ」と賛成した。かくして、この部分は、経済白書の本文に登用されたばかりでなく、白書全体のむすびへと更に出世したのであった。

 話はわき道に逸れるが、当時はこうして現職の公務員が外部の雑誌に原稿を書いたり、本を出したりすることは全く問題とされなかった。しかし、行き過ぎた接待、贈与などが明らかになったことから、99年に国家公務員倫理法が出来て、公務員の対外活動は大きく制約されることになった。

 私は、自分自身が対外的な活動を通じて能力を鍛えてきたという経験があるので、政府内でエコノミストを育てていくためには、かつてのように対外活動を自由化すべきだと考えている。政府は、17年12月に「新しい経済政策パッケージ」を閣議決定した。この中には「労働者が一つの企業に依存することなく主体的に自身のキャリアを形成することを支援する観点から、副業・兼業を促進する」という一項がある。最近、民間企業で副業・兼業を積極的に推進しようという動きが出ているのは、個々の社員が持つ多様な能力を発揮させる場を広げることが、その社員の力を伸ばすことになり、ひいてはそれが所属する企業にとってもプラスになると考えるようになったからだ。であれば、公務員についても、本務が損なわれない限りにおいて、兼業・副業を認めるべきだと思う。

 さて、93年白書の結びには、この後にもう一つ別の言葉が出てくるのだが、これにも経緯があった。

桃源郷の不可能性定理

 私はこれまでに本をたくさん出し、雑誌にもたくさん原稿を書いてきた。これには四つのメリットがある。第1が、「原稿を書くために勉強するから賢くなる」ということであり、第2が、「知名度が上がるから、さらに仕事が回ってくる」ということであり、第3が、「原稿料をもらえるから、家人にお小遣いをねだらないで済む」ということである。ここまでは誰でも分かる。もう一つは何だか分かるだろうか?それは「本や雑誌をただでもらえる」ということだ。

 私の場合、本が出来ると、関係者(親戚、友人、先輩、同僚、議論の相手になってくれたエコノミスト、経済学者など)に配る。これはコストもかかるが、思わぬ見返りがある。それは、私が著書を送った人たちが本を書いたときに、私に著書を送ってきてくれるようになったことだ。物々交換ですね。これによって、私は年間20〜30冊は最新の経済書を手に入れている。自分が苦労して書いているだけに、他人の本も人ごととは思えないという意識があり、頂いた本は必ず目を通すことになる。これは大変勉強になる。ありがたいことである。

 次に雑誌だが、自分が書いた雑誌をもらえることはもちろんだが、いくつかの雑誌は、何回も寄稿しているうちに、毎号定期的に送ってきてくれるようになった。その中の一つが「経済セミナー」(日本評論社刊)である。この雑誌には1年間の連載を2回執筆したことがあるので、毎号もらえるようになった。そうなってからもう30年以上になるが、毎号隅から隅まで目を通している。これまた大変得るところが大きい。

 さて、内国調査課長になった93年には、すでに経済セミナーを毎号愛読していたわけだが、ある日この雑誌を眺めていたら、生産関数についての解説が出ていた。生産量は、資本と労働と技術の関数だという議論だが、その中で、生産関数は「資本も労働も投入がゼロであれば、生産もゼロ」という原則を満たす必要があり、これを「There is no land of Cockaigne」の定理というのだと書いてあった。このCockaigneという言葉は、生まれて初めて目にする単語である。読み方さえ分からない。解説ではこれを「桃源郷の不可能性定理」と訳している。辞書を引いてみると、「厳しい労役なしに、贅沢や歓楽がいつでもすぐに手に入る中世の神話上の土地」と解説されている。これは確かに「桃源郷」だ。

 しかし「こんな当たり前のことが定理になるのか」と笑いながら読んでいるうちに、私は、これは案外深遠な真理を現しているのではないかと考え始めた。経済では資本や労働を使わないと生産は出来ない。つまり、汗を流さないと成果は得られないということだ。ところがバブルの時代には、資本も労働も投入せずに誰もが儲かった。つまりみんなが遊んで暮らせる「桃源郷」が出現したわけだ。しかしこれは生産関数の基本定理に反するものであり、いわば経済原則に背くものだった。バブルが崩壊するのも当然だったと言える。

 こう考えてみると、この言葉は「バブルの総決算」としての今回の経済白書の結びにふさわしいと思われた。こうして、「バブルの経験は『ただの昼飯はない』『この世に桃源郷はない』ということを教えたのだった」という93年白書のむすびのむすびの一文が生まれた。「ただの昼飯はない」というのは「There is no free lunch」として良く知られている。

 「桃源郷」という言葉を使ったのは、私のちょっとした自慢で、「多分誰も知らない言葉だろう」とやや気分が良かった。私は、「これはどういう意味か」という質問がたくさん寄せられるであろうと踏んでいた。質問されたら、「あのね、これは生産関数の議論に出てくるThere is no land of Cockaigneのことなんですよ」と答えてやろうと、手ぐすね引いて待っていた。ところがである、私の原案は、課内、局内、省内、政府内と進んでいき、延べ何百人もの人が目を通したはずなのに、「この『桃源郷はない』という言葉はどこからきたのですか?」と質問する人はただの一人も現れず、私の原案は全くの無傷で最後まで通過してしまったのである。この原則をそれほど多くの人が知っていたとは思えないから、私の回りの人は「こんなことを聞いたら笑われそうだ」と思って質問しなかったのだろう。そして、原案を読んだ政府内の関係者は「あまり聞いたことのない言葉だが、わが省の利害とは無関係だから放っておこう」と考えたのだと思う。それとも私が知らなかっただけで、意外に多くの人が知っていたのかもしれない。この点は今に至るまで謎である。

(2018年2月19日)


(日本経済研究センター 研究顧問)


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