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大竹文雄の経済脳を鍛える

2013年11月20日 賃上げと政労使協議の意味

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日本経済研究センター研究顧問 大竹文雄
議論すべきは名目賃金

 政府、企業経営者、労働組合の3者が雇用や賃金環境を話し合う「政労使協議」が2013年9月20日から始まっている。アベノミクスで目標としている金融緩和からデフレ脱却・2%というインフレ目標を達成し、賃金上昇を発生させ、持続的な経済成長につなげたいというのが政府の意図である。これに対して、「賃金決定は労使自治が原則だから、政府が入るのはよくない」、という考え方も十分ある。また、賃金は労働市場の需要と供給で決まるのだから、政府が介入しようとしてもうまくいかない、という批判ももっともらしい。こうした議論は、物価の影響を取り除いた実質賃金の決定については正しい。しかし、政労使協議で議論すべきことは名目賃金の上昇である。どちらも似ているかもしれないが、経済学的には大きな違いがある。信頼にたる物価上昇率の予測ができれば、労使はその情報に基づいて名目賃金の上昇率を決めて、実質賃金の望ましい変率を決めることができる。難しいのは、労使で物価上昇率の予想を一致させることである。両者の予想を一致させることこそが政府の役割なのである。

実質賃金の動き

 実質賃金の動きを政策によって変えることは難しいし、必ずしも望ましくない。それに、労働分配率や実質賃金が伸び並んでいるのは日本だけの現象ではない。2013年11月2日号のEconomist誌でも指摘されているように、先進国では労働分配率が低下傾向にあるのだ。こうした労働者への分配が減少している背景には、技術革新やグローバル化の影響があると言われている。コンピューターを中心とした技術革新は、今までヒトが行っていた仕事の多くを代替してきている。そういうことが発生すると、労働需要が低下するため、賃金が低下することになる。技術革新は、すべての労働に対して一様に影響を与えるわけではない。コンピューターやIT技術の発達によって、そうした技術に代替されやすい仕事と代替されにくいどころか補完的な仕事がある。

 ホワイトカラーの仕事のうち定型的な仕事は、コンピューターに代替されてしまった。インターネットの発達で、企業と消費者が直接取引できるようになり、品目によっては小売業のあり方が大きく変わった。今までは、機械やロボットではできないと考えられていた仕事もどんどん機械に置き換えられている。

 一方で、コンピューターが苦手としている仕事もまだ多い。ビジネスのアイデアを考えること、きめ細やかなサービスを行うことなどは典型だ。同時に、機械でも可能だが、人間なら多くの人が行える仕事は低賃金労働として存在している。掃除や配達サービスはその例であろう。技術革新は、機械に置き換えられてしまう人の賃金を低下させ、機械を所有している人の所得をあげる。

 話はここで終わらない、機械を所有している人たちの所得があがったら、彼らは、なんらかの消費をするはずだ。彼らが消費をするものが増えれば、それらを作るための労働者の所得もあがることになる。機械だけで物やサービスが作れるのであれば、消費需要の増大は、労働者の賃金増に結びつかないが、機械と補完的な仕事があれば、そういう人たちの賃金は上昇するはずだ。機械と補完的な技能を身につけた人の賃金はあがるけれど、そうでない人の賃金は下落していく、というのが現在発生している技術革新の特徴だ。この流れはしばらく続くはずだ。

 もう一つの動きは、グローバル化だ。賃金は比較的安い新興国で製品が作られ、それらの製品が先進国に輸入されるようになると、新興国と同じような製品を作っていた先進国の労働者に対する需要は低下し、賃金が減少することになる。

 これらの動きは、基本的に変わらないため、日本の労働者の実質賃金を上げていくためには、日本の労働者の技能をコンピューターや機械と補完的なものにして、より希少性を高めるしかない。

政府介入の意味

 企業側にしても労働側にしても、実質賃金がこのようなメカニズムで決まっていることはよく知っているはずだ。では、政労使協議で政府が介入することに意味はないのだろうか。実質賃金には影響を与えられなくても、名目賃金には影響を与えられる可能性がある。物価が1%上昇しているなかで名目賃金が1%上昇しても、実質賃金には変化がない。しかし、名目賃金の1%上昇が発生すれば、次の年の物価も1%上昇し、その次の年の賃金も1%上昇するという循環が続くようになるかもしれない。

 実質賃金には影響がなくても、名目賃金が上昇すれば、経済は今より効率的に動くようになるかもしれない。例えば、名目賃金を引き下げると人々の労働意欲が低下してしまうというのであれば、名目賃金を引き下げにくい。特に、デフレ時には名目賃金を引き下げないと実質賃金を下げることができないので、賃金調整が難しくなる。インフレ時の方が名目賃金の引き下げを伴わないで、実質賃金の引き下げが可能になる。インフレ率が高ければ、実質金利もマイナスにすることが可能になる。賃金や金利といった価格調整メカニズムがより働きやすくなる。

政府への信頼がカギ

 今まで、春闘の賃上げ率の平均は、過去の企業業績、失業率、物価上昇率でおおよそ予測できた。これは、労使の春闘の決定では、これらの要素が重視されていたことを反映している。こうした春闘の決定方式は、労使双方に共通の情報から成り立っているので、労使の間で意見の相違が発生しにくい。情報が共有されていれば、相手が嘘の情報を言っている可能性を確認するために、様々な交渉戦術を使う必要もなくなる。労使の間で情報を共有していくプロセスが日本の春闘であり、そのために、日本では労使紛争が少ないのである。

 この決定方式によれば、2013年の8月と9月の消費者物価指数の対前年伸び率は約1%となるため、このまま物価上昇が推移すれば、ある程度の名目賃金の上昇は期待できる。その意味では、政治が労使交渉に入らなくても、物価上昇を反映して名目賃金の上昇は可能である。政治が入ってくる理由は、来年度の物価上昇を織り込んだ形で来年の賃金を上昇させたいということが理由だろう。来年の予想をもとに、労使交渉をすることはきわめて難しい。労働側は高めの物価上昇を予想し、企業側は低めの物価上昇を期待することで、なかなか交渉はまとまらない。そこに、政府が両者の期待を一致させるような役割で介入することができれば、インフレ期待を反映した賃金上昇の決定ということが可能になる。うまくいけば、インフレへの転換を早くすることが可能になり、フォワードルッキング型の賃金決定という経済学の合理的期待形成で想定されているような枠組みを作ることになる。問題は、政府が労使の物価上昇率の期待形成を一致させることができるだけの信頼をもつことができるか、ということである。物価予想というふわふわしたものだけではなく、何かリアルなものを政策手段として使う必要もあるのではないか。反発は多いだろうが、公務員給与、最低賃金、生活保護水準などを期待物価上昇率にあわせて先に動かすくらいのことをすれば、民間の賃金決定も大きな影響を受けるかもしれない。右側通行か左側通行か、を決めるのは人々の慣習だろう。しかし、左側通行から右側通行に慣習を変えるときには、政府が介入しないと難しい。
 

(2013年11月20日)


(日本経済研究センター 研究顧問)

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