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齋藤潤の経済バーズアイ

2015年12月17日 構造政策としての最低賃金引き上げ

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日本経済研究センター研究顧問 齋藤潤
【賃金の大幅引き上げ方針】

 安倍首相は、11月24日に最低賃金の引き上げを表明しました。現在(2015年10月以降)の最低賃金は、加重平均値で798円ですが、これを毎年3%ずつ引き上げ、1000円を目指そうというものです。これによって、賃金全体の引き上げを促し、民間消費を刺激することによって、新三本の矢の目標の一つである名目GDP600兆円を実現することが期待されています。

 確かに、我が国の最低賃金の水準は、諸外国と比べても低く、その意味では引き上げる余地がありそうです。図表1で見てもわかるように、2014年価格で評価した各国の最低賃金水準を購買力平価(PPP)でドル換算したもので比べてみますと、日本は、オランダ、フランス、英国、カナダより低い水準に止まっています。米国とはほぼ同水準ですが、ご承知の通り、オバマ大統領が最低賃金の引き上げを主張しており、それを受けて、州や市独自で連邦を上回る最低賃金を決定する動きが強まっています。現在の連邦最低賃金が時間当たり7.25ドルであるのに対して、例えば、サンフランシスコ市は、2018年7月1日から最低賃金を時間当たり15ドルまで引き上げることを既に決定しています。



 もっとも、いくら最低賃金を引き上げても、それが低すぎれば、その影響を受ける雇用者はいません。最低賃金の引き上げによって実際に賃金が引き上げられることになる雇用者が存在しなければ、そもそも意味がないわけです。しかし、実態を見ると、最低賃金で雇用されている雇用者の数はかなりに上るものと考えられます。2014年度について内閣府が試算した結果を見ると、当時の最低賃金である780円と同じ水準の賃金をもらっている雇用者は190万人、それに20円を加えた800円以下の賃金で雇用されている雇用者は340万人いるとのことです。

【貧困対策としての限界】

 最低賃金が引き上げられると、新たな最低賃金以下で雇用されていた雇用者は、少なくとも最低賃金の水準までは賃金が引き上げられることが期待できます。それによって、低所得を背景にした貧困問題に対しても、ある程度の改善効果が期待できるはずです。これも最低賃金の大きな目的の一つだと考えられます。

 しかし、これについては、次の二つの点に注意する必要があります。

 第1に、最低賃金で雇用されている雇用者は、必ずしも貧困世帯に属しているとは限らないということです。ある実証研究によると、そうした雇用者の約半数は、年収が500万円以上世帯の世帯主の配偶者や子どもが多いとのことです(川口・森、2009)。仮にそうだとすると、最低賃金の引き上げの恩恵は、貧困状態に苦しんでいる雇用者ばかりでなく、貧困状態にあるわけでは必ずしもない雇用者にも及ぶことになります。こうしたことから、最低賃金を引き上げる政策は、貧困対策としては非効率的であると考えられています。

【雇用・利益への負の影響】

 第2に、最低賃金にはコストも伴うということです。最低賃金引き上げ後も雇用され続ける場合には、確かにそれまでの最低賃金水準で雇用されていた雇用者の賃金は上昇することになります。しかし、当然それは、雇い主からすると人件費の増嵩を意味します。そのため、賃金が強制的に引き上げられることに伴って、(労働需要曲線に沿って)雇用者数が削減されるはずです。実際、我が国に関する実証研究によれば(米国などでは逆に雇用者数が増加したとする結果も存在しますが)、最低賃金は雇用にとってはマイナスの影響があるとのことです。

 また、失業という点で言うと、このように雇用が削減されたことに伴って生じる失業の他に、上昇した賃金に伴って(労働供給曲線に沿って)新たに労働市場に参入してくる労働者がいることにも注意が必要です。そうした労働者は、すぐには雇用の場がみつからないために、失業者になってしまうことになります。

 コストを負担するのは、何も雇用者だけではありません。企業にもコストがかかります。本来、利潤を最大化するはずの生産水準からますます離れていきますので、それだけ利益が減少することになるのです。つまり、最低賃金の引き上げによって、雇用者だけでなく、雇い主側もコストを負担しなければならなくなるわけです。最低賃金の引き上げは、得てしてそう思われがちではありますが、決してコストのかからない「安上がりの政策」ではないのです。

【最低賃金の負の影響を吸収しやすい現在の経済情勢】

 ただし、以上のようなコストも、現在のような経済情勢の下では、実は吸収しやすくなっています。

 なぜなら、例えば最新(2015年10月)の失業率が(循環的な失業率がゼロになっているのにほぼ等しいと考えられる水準である)3.1%であることでも分かるように、労働市場は非常にタイトになっています。したがって、既に人手不足に陥っている企業も多く、過剰人員が生じにくい状況にあります。このため、そもそも失業が生じにくいし、仮に失業したとしても、次の職場が見つけやすいと考えられます。また、企業収益面で見ても、企業部門全体として既往最高の経常利益を記録しており、企業収益へのマイナスの影響を吸収しやすい状況にあるものと考えられます。

 このように考えてくると、現在の経済情勢は、最低賃金のコストを受け入れやすい環境を提供しているということが言えるのです。

【非効率的な企業への影響】

 以上のような、貧困対策としての限界や、マクロ経済へのマイナスの影響にもかかわらず、最低賃金の引き上げを積極的に推進すべきと考える理由があります。それは構造政策として最低賃金引き上げを捉え直したときに明らかになります。具体的に言いますと、それが効率的な企業と非効率的な企業の峻別に貢献し、非効率的な企業の構造転換ないしは退出につながる場合です。

 図表2は、損失を計上しているために法人税を払っていない法人の割合を示していますが、これを見ると、欠損法人の割合は全法人数の約7割を占め、しかもそのような高水準が恒常的に存在していることが分かります。これは、我が国に、数多くの非効率的な企業が存在していることを示しています。バブル崩壊後の1990年代には、そうした企業は「ゾンビ企業」と呼ばれたこともありますが、それは決して一時的な現象ではなく、構造的な問題として存在しているのです。このように、多数の非効率的な企業が存在しているために、我が国産業の収益性も極めて低い水準にとどまっているとも考えられます。



 もし最低賃金の引き上げが、こうした非効率的な企業の構造転換や退出につながるとすれば、我が国産業の収益性も上昇し、新たにより効率的な企業の参入を促すことになるかもしれません。そうなれば、これまでのような開業率、廃業率が極めて低い経済構造と決別し、新陳代謝が活発で生産性の高い新たな経済構造に転換する契機になるかもしれません。

 もちろん、最低賃金の引き上げによってこうした非効率的な企業が影響を受けるようになると、政府に対して、そうした企業を救済するように求める圧力が高まることが予想されます。しかし、そのようなときでも、非効率的な企業を単純に保護するのではなく、そうした企業の構造転換や退出を支援するような政策、廃業に伴って困難に直面する事業者に対するセーフティネットを整備するような政策こそがとられるべきだと考えられます。そうでないと、最低賃金引き上げが有する折角の構造転換効果が、失われてしまうことになるからです。

【最低賃金引き上げの構造政策としての側面】

 これまで、最低賃金引き上げは、需要サイドの効果を期待して提案されることが多かったように思います。最低賃金引き上げがもたらす所得増加効果、消費喚起効果に期待しての提案です。また、最低賃金引き上げは、貧困対策として貢献するものとも考えられてきました。

 しかし、現在の日本経済の現状を考えると、最低賃金引き上げの効果は、供給サイドにこそ期待できるように思えます。最低賃金の引き上げによって、生産性を引き上げ、日本経済の成長能力を高めることが期待できるからです。

 最低賃金引き上げは、構造政策の一環として評価すべきではないでしょうか。

(2015年12月17日)


(日本経済研究センター研究顧問)

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