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刀祢館久雄のエコノポリティクス

緒方貞子さんとポスト冷戦の30年

 

2019/11/18

 東西冷戦の象徴だったベルリンの壁が崩壊してから30年が過ぎた。平成とほぼ重なるこのポスト冷戦期の世界を語るうえで、先ごろ亡くなった緒方貞子さんは欠かせない人物として記憶されるに違いない。グローバル化が進む国際社会がなすべきことを鋭く問いかけ、実践した行動の人としてだ。

難民保護の常識覆す

 日本の女性として初めて国連機関(国連難民高等弁務官事務所=UNHCR)のトップに就いた緒方さんは、世界の各地で次々と発生する難民や避難民を保護するため、それまでの常識を覆すこともいとわない果断な行動力で注目を集めた。UNHCR本部のあるスイスのジュネーブに筆者が記者として駐在した4年間、その存在感は国際機関の長の中で間違いなくトップクラスだった。

 上智大学で教鞭をとっていた緒方さんが難民高等弁務官になった1991年2月は、イラクのクウェート侵攻に端を発した湾岸戦争(第1次)が終えんを迎えた月だった。着任早々、重大な試練に直面する。米国率いる多国籍軍に敗れたイラクから多数のクルド人が国外脱出を目指したが、隣国のトルコが受け入れを拒んだためイラク側の国境地帯に数十万人が滞留する事態となったのだ。

「我々がやらなければ、だれが」

 国外に脱出した難民であればUNHCRが保護するが、自国内にいる人々は難民と呼ばれず、支援対象でないというのが当時の考え方だった。だが放置すれば危険なのは目に見えている。保護の対象とすべきか否か、部内でも意見が分かれる中、緒方氏が下した決断は「やるべし」だった。このときの判断について、のちに筆者のインタビューでこう語っている。

 「国境というのは線ではなく、地域と考えたらどうかと思いついたのです。国境を線と考えると、越えたか越えないかが大きな問題になるが、国境を地域と考えると、国境地域にあって難民化した人を助けることの方が重要だということになるだろうと考えたわけです」(注1)。

 こうした理屈は目的を達成するための便法だったのかもしれない。それでも構わなかったのだろうと思う。根底にあるのは、そこに助けるべき人がいるから助ける、というシンプルで力強い考え方だ。「我々がやらなければ、何十万という人をだれがどうやって救うのか、という問題が起きる。人命救助が一番大事だから現実的対応をしようということになったのです」(緒方さん)。

 以後、国内の避難民であっても保護の対象になりうるというのが新たなスタンダードになった。これは「レボルーショナル(革命的)な変化」だったと緒方さんは呼んだ。難民への国際社会の対応の大きな転機となる決断だった。

援助の政治利用に激怒

 クルド避難民の件から2年後、さらに度肝を抜くような行動を取ってみせる。旧ユーゴスラビアで突如援助停止に踏み切った事件だ。

 UNHCRは冷戦終結後に民族紛争に陥ったボスニア・ヘルツェゴビナで援助活動を展開していたが、セルビア人勢力の圧迫を受けたイスラム教徒側が、窮状を国際的にアピールするため首都サラエボでの援助物資配布をボイコットするという挙に出た。激怒した緒方さんは、全勢力の政治指導者を非難するとともに、セルビア人勢力支配地域とサラエボでの援助活動を停止すると発表した。「人道援助を(ボイコットで)政治化されることに我慢できなかった」と振り返っている。

 この件は上司であるガリ国連事務総長とのあつれきも生んだ。事前に相談がなかったことへの不満もあったガリ氏は決定を覆し援助再開を指示したが、国際社会に強い印象を残したのは緒方さんの信念にもとづく毅然とした態度だった。

冷戦後の変化

 ポスト冷戦の30年間は、おおざっぱに10年ずつ3つの時期に分けることができる。ベルリンの壁崩壊後の1990年代には、東西冷戦の敗者となったソ連が消えて米国が唯一の超大国に押し上げられるかたわら、人や物の流れのグローバル化が進んだ。一方で、地域紛争が世界各地で多発し、難民が大量発生するなど、冷戦後の世界が平和と安定にほど遠いことを国際社会は思い知らされた。

 次の2000年代には、イラク戦争(03年)と米国発の金融危機(08年)という2つの失着で米国のパワーと指導的地位に陰りが鮮明になった。新興国が経済力を背景に台頭し、G20の枠組みができたが、それは新たな国際秩序の到来というより、有力なプレーヤーが増えて混とんとする時代に入ったことを意味した。

 そして2010年代は、米欧でポピュリスト的な政治家が台頭し、格差や社会の分断が問題になる一方、中国が新興国グループから抜きん出て、米中2大国による競争(あるいは覇権争い)の時代を予感させる時期となった。ポスト冷戦の過渡期から次の時代に移ろうとしているのかもしれない。

人間の安全保障という考え方

 緒方さんの足跡から見ると、ポスト冷戦の最初の10年がUNHCRのトップとして難民問題と格闘した期間とほぼ重なる。高い評価を得て在任は91年2月から2000年末までに及んだ。このときの経験を踏まえ、UNHCR退任後から次の10年を超えて取り組んだのが、いま企業社会で注目されているSDGs(持続可能な開発目標)にもつながる「人間の安全保障」という考え方の推進だ。

 2001年に設置された「人間の安全保障委員会」をノーベル経済学賞受賞者のアマルティア・セン氏とともに共同議長として率いて提言を取りまとめ、03年から12年までは日本の国際協力機構(JICA)理事長として開発援助の現場でこの概念の実践に力を注いだ。JICAはいまも人間の安全保障をミッションに掲げている。

日本政府も重視

 人間の安全保障とは少々わかりにくい言葉だが、人間一人ひとりに光をあて、紛争や環境破壊、貧困などに苦しむことのないように保護したり、それぞれが持つ可能性を実現するために能力を強化(エンパワーメント)したりして、持続可能な個人の自立と社会づくりをめざす考え方だ。「だれひとり取り残さない」というSDGsの理念を思い浮かべれば理解しやすいかもしれない。

 日本政府は早くからこの考え方を唱道しており、人間の安全保障委員会の創設も日本の呼びかけによるものだった。2015 年の「開発協力大綱」では「人間の安全保障の考え方は,我が国の開発協力の根本にある指導理念」と位置付けている。2019年度の「経済財政運営と改革の基本方針」(骨太の方針)では「人間の安全保障の理念に基づき、SDGsの力強い担い手たる日本の姿を国際社会に示す」とSDGsと関連付けて言及した。

企業活動とSDGs

 緒方さんは、難民問題など緊急の人道支援から中長期に及ぶ開発援助まで、人間の安全保障として包括的に取り組む必要があると考えていた(注2)。ただ、人間の安全保障という言葉は必ずしも広く一般に普及しているとは言えない。ポスト冷戦時代の難題に向き合った緒方さんが現場重視の活動の中で考え、訴え続けたこの人間重視の取り組みを、どう継承していくかは将来に向けた重要な課題だ。

 企業のビジネス活動を持続可能な社会の実現につなげる触媒として、日本でも急速に注目が高まりつつあるSDGsは、緒方さんの思想を実現するうえでの有力な枠組みになるだろう。途上国の開発問題にポスト冷戦時代のグローバルな課題を包括的に加え、懸案を抱えた当事者として先進国や企業にも取り組みを求めるSDGsの考え方は、人間一人ひとりを重視する発想そのものだ。

自国優先主義の時代に

 リーダーとしての緒方さんにも触れておきたい。ジュネーブ時代の緒方さんは、凛とした威厳と人懐こい温かさを兼ね備え、会うひとたちを魅了していた。筆者が過去にインタビューした世界のリーダーで同じ空気感をまとっていたと感じるのは、南アフリカの民主化の象徴であるネルソン・マンデラ元大統領だ。

 「私はたまたま日本人だった。それだけ」(I happen to be Japanese, that’all)。英紙フィナンシャル・タイムズは追悼記事で緒方さんがたびたびそう口にしていたと書いた。胸の内では日本のありように強い思いを抱いていたのは間違いないが、国際機関の長としてはグローバルな視点に徹し、それがごく自然に見えた。

 日本政府は国際的評価が抜群の緒方さんに外相就任を打診したことがあるが、辞退されたという。惜しむ声があるが、それよりむしろ日本の枠を超えた舞台での活躍をもっと見たかった気がする。例えば初の女性国連事務総長として世界の首脳と渡り合えばどんなだっただろうか。

 自国優先主義や権威主義がはびこり、国連も多国間主義もそこのけという政治リーダーが幅を利かせる時代ともなれば、なおさらそんな緒方さんの姿を想像してみたくなる。もっとも、「女性初の」などと言えば、さらりとこう切り返したかもしれない。「私はたまたま女性だっただけ」。

(注1)『難民救済の「聖女」緒方貞子氏』日経ビジネス1995年1月9日号

(注2)「聞き書 緒方貞子回顧録」(野林健、納家政嗣編)

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