揺れる国際秩序とポスト安倍外交
2020/09/02
憲政史上最長の在任記録を持つ安倍晋三首相の退陣は、日本が再び「トップの影が薄い国」として存在感を失うリスクをもたらす。次の首相には、広い視野で世界をとらえ、理念と現実主義を賢く組み合わせるダイナミックな外交手腕と発信力が欠かせない。
メルケル独首相は安倍首相の辞任表明を受けて「多国間主義、自由貿易、平和的紛争解決、ルールに基づく秩序の推進に向けた私たちの共通の努力において、常に建設的かつ信頼のおけるパートナー」だったと振り返った(駐日ドイツ大使館ホームページより)。
長期政権で対外的に存在感
安倍外交の評価はさまざまだろうが、長期政権の間に各国に顔を売り、日米同盟を最重視しながらも欧州やインドなどの有力国に近づき、目的意識を持った新たな関係を構築した点は功績として残るものだった。中国の急激な台頭を前に、日本はアジアの有力プレーヤーとして頼りになるという認識を広げることが大切だと考えていたのだろう。時代感覚とバランス感覚がいい線をいっていたのだと思う。
米中2大国の確執が深まり、第2次大戦後の国際秩序が揺らぎを見せている。2か月後に迫った米大統領選挙の結果は、戦後秩序の変質を決定的にしかねない。ポスト安倍の次期政権はいきなり世界の荒波にさらされる。
次に向けた日本の課題を考えるために、少し長い視点で国際秩序を主導し支えてきた米国と欧州が歩んできた道を概観し、それぞれが描く「物語」の行方を展望したい。
大統領選控え唐突感強まる米外交
米大統領選挙はいよいよモア・トランプかノーモア・トランプかを争点とする終盤戦に入る。新型コロナ危機への対応のまずさなどから苦戦するトランプ大統領だが、それでも民主党のバイデン候補の楽勝ムードにならないのは、この国の分断の深さゆえだろう。大統領選を意識するトランプ政権の焦りを背景とした対中強硬策は、中国側の態度硬化の連鎖を招き、選挙が終わってもノーサイドにはならないところまで来ている。
このコラムで前に指摘したように、米国の中国に対する厳しい認識は根深く、バイデン政権になったとしても継続するのは間違いない。ただ、認識に大差はなくても政策として何をやるかの違いは大きい。トランプ政権は貿易交渉でポイントを得ることを最も重視していたが、この春以降、戦線を多方面に拡大し、中国の共産党体制を厳しく批判するようにもなった。イデオロギーや体制の是非になれば、対話や交渉は成り立たない。
対中だけではない。イスラエルとアラブ首長国連邦(UAE)の国交回復を仲介したのも唐突感が強い。関係改善は一見朗報のようだが、パレスチナ問題の解決を一段と遠のかせ、イランの孤立も進むとあっては、中東地域の安定に資するのかおおいに疑問だ。共和党の支持基盤で親イスラエルのキリスト教福音派などの票をあてこんだ選挙対策の気配は濃い。ロシアとの新戦略兵器削減条約(新START)延長に向けた交渉に前向きな姿勢を示し始めたのも、大統領選前に何らかの成果を得たい気持ちの表れだろう。
多国間体制のアップデートを放置
堅調な経済を売り物に政権2期目を狙ったトランプ氏の目算は、コロナ危機で崩れた。黒人差別問題への対応も批判され、反動で対外政策にむやみと力が入っている印象が強い。イランとの国際的な核合意から米国が一方的に離脱しておきながら、国連の対イラン制裁復活を求めたことも、リーダーとしての威信を傷つける行為となった。
終戦の年に創設された国連は10月で75周年の節目を迎える。国連と国際通貨基金(IMF)や世界貿易機関(WTO)などの国際機関をベースとする多国間体制は、戦後に米国が主導してきたものだ。中国の経済発展もこの国際秩序の恩恵を存分に受けてのものだった。
しかし、トランプ政権の自国第一主義と米中対立のあおりで、多国間体制を時代にあったものにアップデートし、活性化しようという動きはほとんど見られない。かつて活発に議論された国連の安保理改革も動きが止まったままだ。
米の「大きな物語」は交代するのか
米国はソ連との東西冷戦を勝ち残り、1990年代には「米の一極時代」とも言われた。だが、イラク戦争(2003年)の失敗と金融危機(リーマン・ショック、08年)で勢いに大きなブレーキがかかる。オバマ前政権は国際協調に前向きだったものの多国間体制を立て直すには至らず、トランプ政権になって内向き志向と自国優先の政策路線が一気に強まった。
米国は戦後システムのアップデートに手をつけないまま中国の台頭と向き合うことになった。再構築どころか、トランプ政権は国連と多国間体制を弱体化させる行動を繰り返す。米国主導の国際秩序をどう維持し発展させていくか、という大きな物語はいまや、覇権国家としての米国が新興勢力の中国にどう立ち向かうか、という国家間の争いの物語に取って代わられつつあるようだ。
歴史の分岐点問う大統領選に
独善的な主張と行動を強める中国の責任も当然大きい。ビデオの早送りを見せられているような米中対立の展開の速さは異常というほかない。
もし大統領選でトランプ氏続投となれば、米中対立という物語への移行は決定的に進むだろう。戦後75年続いてきた国際秩序を再構築する意思を米国は持つのか、それとも放棄してしまうのか。11月に米国の有権者が選ぶのは、そんな歴史の分かれ道となる。
EUは復興基金で立て直しの道へ
第2次大戦後の大きな物語として、欧州の歩んでいる道についても見てみたい。欧州の平和と安定をめざして始まった地域統合を軸とするストーリーだ。この夏、転機になるかもしれない動きがあった。7月に欧州連合(EU)首脳会議で合意したコロナ対応の復興基金創設だ。
7500億ユーロにのぼる復興基金は、コロナ禍で大きな打撃を受けた南欧諸国などへの支援が主目的だが、意味合いはそれだけではない。まず、EUの弱点だった財政統合の不在を補い、加盟国全体で市場から調達する資金を一部の国に供与するという債務の共有化と財政移転のメカニズムを実施することがある。
2つ目に、独仏の連携プレーをもとに域内の対立を克服し、EUとしての結束をアピールできたこと、そして3つ目に、復興基金を含むEUの中期予算案で、環境とデジタルの2分野に力を入れて経済成長に取り組む姿勢をみせたことが目を引く。復興基金がうまく機能すれば、このところ停滞していたEUの求心力を一定程度取り戻し、欧州統合のプロジェクトを立て直す契機になる可能性がある。
停滞していた欧州統合
第2次大戦後に始まった欧州統合は、巨大な単一市場の完成から通貨ユーロの導入へと着実に進んだ。さらに東西冷戦の終結で自由になった中・東欧諸国を04年から加盟国として迎え入れ、統合は深まりと広がりの両面で未踏の領域に入った。
しかし、ここまで来て局面は変わる。市民の間に、統合が行き過ぎることへの不安や、EUの官僚に差配されることへの不満が台頭してきたのだ。05年には「欧州憲法条約」という名の新しいEUの条約案がフランスとオランダの国民投票で否決された。
このころを境に欧州統合は停滞期に入り、2010年以降、ユーロ危機、中東からの難民危機、ポピュリズム的政治勢力の伸長、そしてブレグジット(英国のEU離脱)と、EUは相次いで危機に見舞われた。
物語を頓挫させない意思示す
だが、ユーロもEUも崩壊することなく生き残り、英国のほかにEUを離脱しそうな国も現れていない。欧州市民の多くは、統合やEUそのものを否定するのでなく、ほどよいバランスと距離感を求めていることがはっきりしてきた。ポピュリズムやナショナリズムも足元で一段落した観があり、昨年12月に発足した欧州委員会の新体制は環境とデジタルを軸にEUの再活性化に取り組もうとしていた。
コロナ危機が起きたのはそんな矢先だった。対応を誤れば、「EUは頼りにならない」という失望感が広がりかねない。復興基金の成否は、EUの今後を分けるといって過言でない重みを持つ問題になっていた。
コロナ禍はまだ出口が見えないし、域内の南北問題に加え、一部東欧諸国が強権的な政治でEUと対立するなどなお懸案は多い。だが、域内の対立を乗り越えての復興基金合意によって、EUは欧州統合という戦後の大きな物語を頓挫させない意思を明示したといえるだろう。
日本の物語をどう描くか
では日本の物語は何か。戦後の長い間、日本は米国との同盟関係を基軸に安定した安全保障環境を維持し、経済成長にまい進する道を歩いてきた。イラク戦争で米国支持に回ったのも、この戦争の是非を考えてというより、米国に寄り添う姿勢を示すことが第一の目的だった。明快な米国優先路線だった。
しかし、中国の台頭で状況は複雑になった。中国を抑止し、アジアでの力のバランスを保つために米国の重要性は一段と増している。だが、米中の対立がエスカレートしてアジアが戦場になるのはもってのほかだし、逆に将来、米国が一転して対中宥和路線を選びアジアから撤退する日が来るのも困る。同盟国として「巻き込まれるリスク」と「見捨てられるリスク」のどちらも避けなければならない。日米同盟を軸とする国家戦略を堅持したうえで、それを補完し強化するために多角的な発想で動くことが必要だ。
TPPでのリーダーシップに評価
そこで重要になっているのが、米国に働きかけるとともに、共通の利益を追求する仲間を増やす外交だ。安倍政権下での「自由で開かれたインド太平洋」構想や、米が離脱しても残る11か国でまとめた環太平洋経済連携協定(TPP)、EUとのEPA(経済連携協定)はその代表例といえる。
TPPについては米国が抜けても日本がリーダーシップを取った点への評価がアジアや欧州で高い。日本はトランプ大統領と安倍首相の緊密な関係をアピールする一方で、時として独自の外交で主導権を発揮することをTPPで示すことができた。これは各国の目に新鮮に映り日本にプラスになった。
高い期待値をチャンスに
新たな世界の現実を踏まえ、日本に必要なのは安定した国際秩序をどう構築するかというビジョンだ。流動的な要素が多い中で、大風呂敷を広げることはない。守るべき価値観やルールを示し、その実現に向けて調整のイニシアチブを取ることだ。「物語」を自ら構想し実行に移す覚悟が求められる。
次の政権は、日本への期待値が高いところからスタートすることができる。影の薄い国に逆戻りする愚は避け、このチャンスをうまく生かしたい。
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