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林秀毅の欧州経済・金融リポート

なぜ欧州中銀の量的緩和拡大は小幅だったのか―難民流入・同時多発テロに揺れる欧州

 

2015/12/10

 今年夏から秋にかけ、欧州はシリアからの大量の難民流入、パリの同時多発テロに揺れた。これを受け12月に入ると、地方選が実施されたフランスでは極右勢力が台頭しており、この流れはドイツや英国の現政権の基盤にも影響を及ぼしそうだ。

 元々低迷傾向を強める欧州経済は、このような欧州政治・社会におけるリスクの高まりから、どのような形で影響を受けるのか。本レポートでは、先ず直近のECBによる政策決定内容を確認した上で、今後想定される難民・テロの経済面への影響について検討することにしたい。

ドラギはなぜ妥協したのか

 12月3日、欧州中央銀行(ECB)の政策理事会は、量的緩和策の拡大を決定した。第一に毎月600億ユーロと決められた国債などの資産買い取り枠(APP)の期限を、現行の2016年9月から少なくとも2017年3月まで半年間延長すること、第二にユーロ圏の銀行がECBに資金を預ける際のマイナス金利を▲0.2%から▲0.3%に拡大することなどを内容としている。

 但し、資産買い取り枠の期間延長については、少なくとも2017年9月として上で、必要であればさらに延長もあり得る(or further, if any)としていることに注意が必要だ。

 筆者も前回の本リポートで、ドラギ総裁は無期限の量的緩和に移行することにより、市場の期待を上回ろうとするだろうと述べた。この点について、今回、政策理事会後の記者会見では、一旦期限を設定した上で延長もあり得るというのは、実質的に無期限と変わらないのではないか、という質問が飛んでいた。

 これに対しドラギ総裁は、期限毎にインフレ目標に収束しているかどうかを見極めることが必要といった、建前に近い回答をしている。一方、「今回の決定は全会一致だったのか」という別の質問に対し、「全回一致ではなかったが、非常に大きな過半数(very large majority)だった」と述べ、ドイツが唯一の反対者だったことを言外に示している。

 しかし、今回、大幅な緩和拡大に至らなかった理由を考えるうえで、もう一つ、あまり注目されていないが興味深い質疑内容がある。それは、ECBの量的緩和が、スイス、デンマーク、スウェーデンなど、非ユーロ圏周辺国の金融政策に与える影響についての議論だ。この点ドラギ総裁は、非常に重要な質問だとした上で、ECBの金融政策は、ユーロ圏のインフレ目標達成のため行われるが、外部への波及効果も考慮しなければならないと述べた。

 その真意は、量的緩和を押し進めることによりユーロ安が進み、経済的に関係の密接な近隣諸国が苦境に陥ってはならないということだろう。言いかえれば、「大幅な量的緩和に踏み込む」という前月までのドラギ発言によってユーロ安が進んだ段階で、既に量的緩和拡大の期待による短期的なプラスの効果は実現していた。

 同時に、今年末にかけては、ほぼ確実視される米国の利上げにより、ユーロ高方向への反転リスクは限定的だ。今になってみれば、ドラギ総裁は、この点まで読んだ上で、11月の時点であえて市場の期待を誘導する踏み込んだ発言をしたことが十分想定できる。

 一方、来年以降、米国が連続利上げを実施する可能性が低いとすれば、ECBとしては、今回について小幅の拡大としておき、今後に向けた量的緩和を拡大する手段、いわばフリーハンドを確保しておきたいのではないか。

 尚、マイナス金利の効果については、12月7日に、東京で開催されたパリユーロプラス会議で、欧州のエコノミストからの質問に対し、欧州側の当局者は、ユーロ圏の場合には、各国中銀に積み上がってしまう資金を掃き出す必要もあると回答していた。一方、日銀の黒田総裁は、マイナス金利は政策目標ではなく、あくまで市場で実現した結果に過ぎないとして、導入の是非をめぐる議論に入ることを慎重に避けている、という印象を受けた。

難民流入の影響

 今回のドラギ総裁による記者会見では、シリアなどからの難民の大量流入に触れているのは一か所のみだ。ユーロ圏のマクロ経済動向を述べる部分で、ユーロ圏のいくつかの地域では、難民の流入に対処するための財政支出が今後、増加せざるを得ないと述べている。

 これは言うまでもなく、ドイツが過去の歴史への反省から、憲法上、政治的に迫害された難民を保護するという強い規定があることによっている。

 同時に、欧州連合(EU)では、域外から難民が流入しようとした時、最初に入ってきた国が難民かどうかを認定する責任を負う。しかし今回シリアからの難民の多くが、最初にギリシャとハンガリーに流入したが、これらの国々は難民認定を正しく行う能力を持ち合わせていなかった。そのため多くの難民が素通りし、直接ドイツなどに押し寄せたという国境管理上の問題が指摘されている。

 以上のように考えると、欧州への難民流入は、少なくとも短期的には、前向きな受け入れ姿勢を示しているドイツなどの経済的な負担増につながることは間違いない。そのため今後、国民の反発が高まり、ドイツ政府が一旦、難民流入を制限したり、国境管理を満足に実施できないギリシャなどへの非難につながる可能性があるだろう。

 一方、受け入れるドイツからみれば、現在シリアからの難民は反政府の立場を取る比較的教育水準の高い層であるため、少子高齢化が進む同国の労働力として活用しようという意向があるとも指摘されている。このように長期的な観点からみれば、難民の受け入れは必ずしもマイナス面ばかりではないとも言えるだろう。

パリ同時多発テロの影響

 一方、11月半ばに発生したパリ同時多発テロの経済的な影響について、今回ドラギ総裁は、今後の地政学リスクの高まりに関わることであり、率直に言ってわからないと述べている。

 但し、短期的に見れば、テロの不確実なリスクに備えるための様々な予防措置など、経済活動を行う上で追加的なコストが発生する。産業別にみれば、域外からの観光や出張のキャンセルや、事故のリスクを引き受けている欧州の保険業への打撃もみられるだろう。

 個人消費への影響について、現状では「テロに立ち向かう」という意思表示のため敢えて外出する、という行動もみられるようだ。しかしこのような緊張した期間が続くと、消費者の間には徐々に疲れが見られるようになるのではないか。

 また、テロリストの活動を制限しようとするため欧州域内の自由な移動を制限することは、当面の経済活動を制約する。さらに移動の自由を認めた欧州域内の各国間の協定をこれから変更することは、手続的にも容易なことではない。

 最後に、国際的に権利を保障された難民と、各国内で一定の権利を持って生活している移民とは、本来別の存在だ。しかし英国などを含む各国民のレベルでは二つの問題が同一視され、移民に対する社会給付の削減要求が、今後一段と強まることにならざるをえない。