エマニュエル・トッド「問題は英国ではない、EUなのだ」を読む-「グローバリゼーション・ファティーグ」を打開できるか
2016/10/12
英国のEU離脱通告と「市場からの警告」
10月2日、英国のメイ首相が、EUに対する離脱通告を来年3月末までに行うと表明すると、ポンドが急落した。これまで英国の金融市場は、為替・株式とも比較的平穏だったが、離脱交渉をめぐる事態がこう着状態にあるため、様子眺めをしていたにすぎないことが明らかになった。ポンド安を受け英国株式が上昇しても、市場の懸念が続けば、株式を含む英国からの全般的な資金流出に至らざるを得ない。
それでは、メイ首相はなぜこのタイミングで、離脱通告の時期を明言したのか。一般には、英保守党内の意見がまとまらない状況が続き、EUから早期の交渉開始を要求され、追い詰められたと理解されている。その延長線上で保守党内の強硬派が主張する「移民制限のためには、単一市場からの撤退も辞さない」とする「強硬離脱(ハード・ブレクジット)」のシナリオが浮上したことが、ポンドの急落につながった。
しかし、メイ首相の頭の中にあるシナリオは、党内穏健派の主張に近く、「移民流入を抑制しながら、単一市場のアクセスをできるだけ確保する」というものだ。元々、保守党の強硬派と穏健派の主張は相容れない内容であり、両者が妥協ないし和解することを交渉開始の条件とする訳にはいかない。
メイ首相としては、国内的には強硬派の主張が英国に大きなマイナスをもたらすことを知らしめる一方、対EUでは、「移民か単一市場か」という二者択一の選択肢を述べるにとどまるEU大統領やEU委員会ではなく、メルケル首相に代表される実権者との政治交渉に持ち込みたい狙いがあるのではないか。
エマニュエル・トッド氏の新著
以上のように事態が徐々に動き始めている一方、6月の英国国民投票の結果を受けた分析や論考が、相次いで発表され始めた(注)。その中でも特に注目されるのが、フランスの 歴史人口学者エマニュエル・トッド氏による新著『問題は英国ではない、EUなのだ』(2016年9月、堀茂樹訳、文春新書)である。同氏がユーロ危機時に発表した『「ドイツ帝国」が世界を破滅させる』については、かつて本レポートでも紹介した(2015年9月8日付本レポート)。
本書の内容は、トッド氏の研究の軌跡や現在の世界情勢全般を含み、多岐に亘っているが、以下、英国のEU離脱問題に関連する内容を、3つのポイントに絞ってまとめた。
ポイント①:「独・仏枢軸」から「英・仏枢軸」へ
先ず、本書のユニークな点は、従来EUにおいて中心的な役割を果たしたドイツとフランスの盟友関係(独・仏枢軸)は、英国のEU離脱決定を契機として、英国とフランスの盟友関係に取って代わられるべきである、という主張にある。
同氏によれば、英国とフランスは、歴史的・社会的に両国の共通性は多く、現在、人の交流も進んでいる。現状、経済力でみれば傑出しているドイツに対し、英国とフランスは協力し、国家(ネーション)を主体とした「諸国民のヨーロッパ」像を建設していくべきである。
この主張については、著者自身が本書で認めている通り、自身の経歴などから英国に親近感を持っていることが影響している。また、現在のフランスには、国の進むべき方向を決める政治的な指導力が欠けていることも認めている。それにもかかわらず、フランス人の著者としては、フランスが英国との盟友関係を強化することが最善の選択であると主張している。
ポイント②:「グローバリゼーション・ファティーグ」と移民・難民の流入
それでは何故、英国は、EUではなく自ら国家の力に頼る決断をしたのか。トッド氏はここで、「グローバリゼーション・ファティーグ」、即ちグローバル化に対する疲れないしグローバル化の限界、という考え方を提起している。
特に欧州では、世界的なグローバル化の進展に加え、EU内のグローバル化が進展し、その中では経済力で圧倒するドイツの一国支配が行われてきた。今回の英国のEU離脱決定は、欧州における「二重のグローバル化」による重圧に対する英国民の「目覚め」だった。
このようなグローバル化の重圧は、言うまでもなく、移民の流入という形で最も顕著に表れた。注目すべきことに、ドイツにおいても、実はトルコ系住民などの同化政策は成功しているとは言えない。トッド氏は、ドイツにおけるトルコ系移民の家族構成・結婚相手を調査し、この点を論証している。さらに、現在ドイツが受け入れているシリア難民についても、同様の問題があると指摘している。
ポイント③:国家(ネーション)への回帰
「グローバリゼーション・ファティーグ」に対し、英国が国家(ネーション)への回帰を図った動きがEU離脱の決定であることは既に述べた。
さらにトッド氏は、現在のドイツが一国家として強力な存在でありながら欧州内外で実質的にグローバル化を推進していること、その背景としてドイツが他の欧州に先駆けて、1990年の東西ドイツ統一以降、国家への回帰を進めてきたことを挙げている。
今後は、英国にオランダ・北欧諸国などが「国家の再興」に取り組むことになるだろう。
以上のようなトッド氏の主張は、欧州・EUが長期的にどのような制度の再構築を進めていくかを考える上で、非常に興味深い。
一方、短期的に見れば、欧州各国が、第一に財政規律の維持を軸とした自立した経済運営を行うこと、第二に、本レポートの冒頭、英国について述べたように、グローバル化の表れといえる金融市場の圧力に耐えられることが必要になるだろう。これらの点について、今後、トッド氏による更なる論考が期待される。
(注)今月刊行の『EUは危機を超えられるか 統合と分裂の相克』(岡部直明編著、NTT出版)で、筆者は第5章「ユーロ危機は終わったか―新たな制度構築の可能性」など二章を分担執筆している。ご高覧頂ければ幸いである。
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