欧州中銀・利下げの意図は何か-ユーロ圏はデフレではない-
2019/09/10
本レポートでは、ユーロ圏経済の現状をどう考えるか、ECBの金融政策変更の動機は何か、今後のリスク要因は何か、という三点について、現地の議論をもとに展望したい。
ユーロ圏経済はデフレ状態にはない
欧州中銀(ECB)は現在、2020年前半まで政策金利を引き上げないこと、即ちゼロないしマイナス圏にとどめることについてコミットしている。
その上で、今般、9月12日の政策理事会では、政策金利(預金金利)を0.1%程度引き下げるという市場の見方が支配的になっている。
しかしECBによる利下げは、ユーロ圏がデフレ状態にあるためではない、という議論が欧州にある。
そう考える最大の理由は、ユーロ圏の雇用情勢がひっ迫し、賃金が上昇していることにある。即ち、ユーロ圏の失業率は、かつてのユーロ危機時に12%台まで上昇したが、直近では7%台まで持続的に低下している。そのため、一人当たり賃金は年率2%台まで上昇基調にある。
それではなぜ、ユーロ圏がデフレ状態に見えるのか。これはインフレ率が低位安定状態にあるためである。ユーロ圏のコアインフレ率は年率1%台前半で推移している。しかしその理由は企業の価格支配力(Pricing Power)が低下していることにある。
即ち、ユーロ圏では、賃金の上昇にもかかわらず、企業の価格支配力の低下により、インフレ率が低位安定して推移するという状態が続いている。
尚、以上と同様の議論が、日本国内でも提起されている。渡辺努東京大学教授は、日本企業の価格支配力が低下しているため、価格据え置きが常態化していると述べた(1)。
渡辺氏の主張は、直接には金融政策目標を、インフレ率から「賃金上昇率ターゲティング」とすれば、顧客から値上げについて理解が得られ、デフレ克服の方法につながるという政策論に及んでいる。即ち、ここでは日本がデフレ状態にあるという前提がある。
それでは、ユーロ圏と日本の違いは何処にあるのだろうか。ここでは、賃金上昇の度合いが問題になる。即ち、現在、ユーロ圏を含む世界全体の失業率は低下傾向・賃金は上昇傾向にあるが、日本では賃金の上昇は、より小幅で安定的である。その主因は、高齢者・女性が労働市場に参入していることにある(2)。
以上のように考えると、ユーロ圏・日本で共に企業の価格支配力低下が問題となり、賃金の上昇度合いに注目する議論が提起されている点は興味深い。
利下げの目的はユーロ反転の抑制
話を元に戻すと、ECBが今回利下げを実施するとすれば、その真の意図は何だろうか。
第一に、前月の本レポートで述べたように、ユーロ圏経済は、ドイツを中心に今後減速傾向が強まると予想される。
第二に、これも本レポートで触れてきたことだが、これまで1ユーロ=1.1ドル前後まで下落してきたユーロの底打ち傾向が今後強まっていくと予想される。
第一点について、米中の貿易交渉が進展をみせず、世界的な貿易取引の鈍化が輸出大国ドイツを始めとするユーロ圏経済に悪影響を与える。
さらに第二点について、米連邦準備制度(FRB)が7月17-18日のFOMCで追加利下げを実施する可能性が高まっている以上、ユーロの反転上昇を食い止めなければ、ユーロ圏各国の輸出にも一段と悪影響を与えることになる。
以上のように、ECBの政策目標は建前としては物価安定だが、ECBにとって現在最も重要な政策課題は、市場のユーロ高への反転期待を抑制することにある。そのための「アナウンスメント効果」を最大にするための決定がなされることになるだろう。
ブレグジットの迷走をどう考えるか
最後に、現状の不確実なリスク要因として、ブレグジットの今後について付言したい。
ボリス・ジョンソンという特異な政治家の人間像は、メイ前首相と比較すると鮮明になってくる。
第一に、両者の共通点は、(これも以前、本レポートで述べたことだが)英国の政治家である以上、首相として自分の功績を後世に残したいと考えているはずだ、という点にある。
言い換えれば、自分のミッションを果たすことが不可能になった時には、自ら辞任の道を選ぶはずだ。
第二に、それでは両者のミッションは何か。メイ首相の場合は「国民投票で民意とされた離脱決定を、できるかぎり英国の国益となる形で実現すること」だったはずだ。そのためには、EUとの困難な交渉を厭わなかった。
これに対し、ジョンソン氏が考える自らのミッションは、「離脱を実現する」という結果の一点に絞られる。そもそも遡れば、キャメロン元首相がブレグジットの国民投票に備え、EUから「特別な地位」を得たと交渉の成果を誇示した翌日、ジョンソン氏は離脱支持を明らかにした(3)。
その日から「EU離脱」はジョンソン氏にとって欠かせない政争の手段となり、事実それによって首相の座に就いた。したがって、EU離脱が困難になったと判断すれば、早々に自ら首相の座を降りる道を選ぶことになるだろう。
第三に、それでは、EUはどのような姿勢で臨んでいるか。メイ氏に対しては、その国内基盤の弱さを認識しつつも、交渉には応じてきた。しかしジョンソン氏については、そもそも本人が「離脱ありき」の姿勢でありEUと本気で交渉する気がないことをEUも承知しており、同氏に対し何らかの妥協をする余地はないはずだ。
ジョンソン氏が「議会の閉鎖」といった非民主的手段まで示しても辞さない姿勢を示し「合意なき離脱」の現実性が高まった局面もあった。しかし議会の反発により10月末を超える延期となった現在、(離脱の経済的デメリットが国民の間でより現実的に意識されることなどによって)野党が有利と考えるタイミングで総選挙が実施され、最終的にジョンソン氏は行き詰まり辞任に追い込まれざるを得ないだろう。
それまで、10月末を超える延期は認めても、EUは交渉上、何ら譲歩はしない。合意なき離脱の「現実性」が高まった場合に英ポンドが下落する局面はあっても、市場がこのように先の展開を見越せば、混乱は収束の方向に向かうだろう。ECBも英ポンドの下落がユーロ上昇につながるリスクを注視するが、「対処可能な範囲」と考えるのではないか。
(1)渡辺努「物価目標政策の意義と課題」(「証券アナリストジャーナル」2019年8月号)。尚、本文献については小峰隆夫・当センター研究顧問から教示頂いた。
(2)日本経済研究センター「2019年8月 四半期経済予測」(図表9)・(図表33)・(参考図表11)を参照。
(3)クレイグ・オリヴァ―「ブレグジット秘録」(江口泰子訳、光文社、2017年9月)
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