欧州のワクチン戦略- イノベーションか、途上国支援か-
2021/07/12
欧州域内のジレンマ:EUと加盟国の難しい関係
7月に入り、欧州各国の新型コロナ感染状況が再び増加に転じている。その主因は感染力の強い変異株が急速に広がっていることにある。
現地のメディアによれば、フランス・ドイツなど主要国では既にデルタ株が大半を占め、「第4波」の懸念が高まっている。
一方、この時期、欧州では夏のバカンスを待ち望む一般市民、これを受け入れる観光産業の双方にとって自由な移動は必須だ。
そこで、7月1日から、少しでも安全な移動を確保する「ワクチンパスポート」が導入された。これは正式には「デジタルCOVID証明書」と呼ばれ、欧州委員会により進められてきた。
その内容は、ワクチンを接種済みであること、検査結果が陰性であることなどを証明するものだ。この証明書により、市民は互いに安全で自由な域内の移動が可能になる。
この証明書については各国が発行する証明書を相互認証するための仕組みづくりに加え、個人情報保護、差別につながらないための方策など、いくつかのハードルがあった。それにもかかわらずこの制度が実現したことは、欧州では夏のバカンスが如何に大切かを物語っている、と言えるだろう。
新型コロナ対応に限らず、EU・欧州委員会は、加盟国にとって有益な共通政策を常に提案していないと自らの存在意義を問われることになりやすい。
その一方で、政策の実現にあたっては加盟国に頼らざるを得ない、というジレンマを抱えている。いわばEUと加盟国は、域内の共通政策をめぐって、一種の緊張関係にある。
元々このような関係にある中、国毎に状況の違う新型コロナ対応に迅速に取り組む必要のある加盟国に対し、欧州委員会が意味のある横断的な政策を打ち出すことは容易ではなかった。この意味で「デジタルCOVID証明書」は数少ない成功事例になるのではないか。
一方、域内向けワクチンの確保については、 欧州委員会がEU加盟国を代表して一括し、個別のワクチンメーカーと「事前購入契約」を結ぶという仕組みになっている。
しかし今年初、この仕組みによる供給がスムーズに行われず、加盟国の間で不満が高まった。この時に作られたEUからのワクチン輸出の承認制度は、3か月毎に延長され、現在は今年9月末まで適用される予定である。
変異株による感染が拡大する中、ワクチンの確保をめぐるEUと加盟国の難しい関係が続いていることを示唆するものだ。
域外支援:ワクチンの特許権放棄とWTO
一方、EUのワクチン戦略の対外的な側面はどうか。欧州委員会は「EUのワクチン戦略」と題する政策ウェブサイトの中に「グローバル協力」という項目を設け、途上国向けのワクチン供給支援を行うとしている。
ここで現在問題になっているのがワクチンを製造するための特許権だ。知的財産権の1つである特許権は、最初に発明した企業や個人の利益を守るためのものだが、発明が一旦特許として認められると、発明者は「独占的な生産者」になる(1)。つまり、競争と独占は裏腹の関係にあるといえる。
この点が新型コロナワクチンの特許権放棄問題として浮上した。昨年秋以降、インドと南アフリカが、新型コロナワクチンを製造する製薬会社は、ワクチンの特許を一時的に放棄すべきであると主張した。
さらに今年5月には米国が、事態の緊急性を重視し、特許権の一時的な放棄を支持する考えを表明していた。
これに対しEUは、6月上旬、国際貿易機関(WTO)に意見書を提出した。そこでは製薬会社が低中所得国に対し利益なしでワクチンを供給していると述べた上で、ライセンスの供与は当事者間の自由な意思によるべきであり、例外的にWTOの協定による場合には可能な対価を支払うべきなどと主張した(2)。
ここで言うWTOの協定とは、「知的財産権の貿易関連の側面に関する協定」(TRIPS協定)を指す。ワクチンのライセンス供与を可能な対価により強制的に実施できるとした点が問題になる。特許権放棄との違いは、ライセンスの供与に対し、「支払い可能」という条件が付くにしても対価が伴う点にある。
以上のようなEUの主張は、単に域内企業の利益を守るだけでなく、緊急事態下であっても、ワクチンを開発した特許権を持つ企業とワクチンの供給を受ける途上国との利害のバランスを取るべきである、という考え方によるものだろう。
但し、このようなWTOの取り決めを尊重するEUの姿勢は、WTOの現状を考えると注意が必要かもしれない。米国が危惧するように、組織の弱体化した現在のWTOでは、結論が出るまでかなり時間がかかると予想されるためだ。
それでは何処に支援を行うべきか
最後に、EUは、新型コロナの対外支援策のもうひとつの柱として「COVAXファシリティ」への資金協力を挙げている。
COVAXファシリティとは、世界保健機関(WHO)を中心とした国際的な連携により、先進国から資金提供を受け、ワクチンを購入し途上国に対し必要に応じて無償で提供する枠組みだ。
COVAXファシリティの最新のワクチン支援計画によれば、2020年中に 18.65億回分、2021年には56.4億回分のワクチンを供給する計画である(3)。
ここで注目されるのは、アフリカ向けのワクチン支援が2020年中に 5.2億回分、2021年には17.75億回分に達し、全体の1/3近くを占めていることだ。
アフリカでは従来、爆発的な感染拡大は南アフリカを除けば起きておらず、そのためワクチン接種率も低かった。しかし、アフリカにはこれから冬を迎える南半球の国も多く、足許では変異種による新規感染者数が急激に増えている。
一方、 欧州から見るとアフリカは歴史的に関係の深い地域だ。話は遡るが、EC(当時)は、1975年、旧植民地時代からの深い関係により、アフリカを中心とした途上国に対し関税と貿易制限を撤廃した。
さらに、これらの国々の主な輸出品である一次産品を激しい価格変動から守る「輸出所得安定化制度」を設けた。しかしこのような手厚い経済支援が、かえって途上国が自助努力を怠ることにつながった、という反省も生まれた。
今回EUは、アフリカを重点支援地域としつつも、世界の各地域のバランスを考える国際的な枠組みであるCOVAXに対する資金支援を途上国向けワクチン支援策の中心に置き、効果的な支援を目指しているように見える。
そうであれば、この点は、特許権を放棄するのではなく、特許権を持つ企業とワクチンの供給を受ける途上国との間で利害のバランスを取るべき、とした先述の考え方にも通じるといえるではないか。
(注1)齋藤 誠「教養としてのグローバル経済」(有斐閣、2021年5月)
(注2)European Commission, ’EU proposes a strong multilateral trade response to the COVID-19 Pandemic’(2021年6月)
(注3)COVAX, ’ Global Supply Forecast’(2021年6月)
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