主要通貨のクラッシュと円高
2011/11/21
最近の円高と過去の円高の違い
10月末の介入政策発動にもかかわらず、日本の円は再び円高に向かっている。円は、リーマンショック発生以前に、2007年第2四半期を底として急速に増価した。2011年第3四半期までの今回の円高局面で、名目実効為替レートは34%、実質実効為替レートで27%上昇している(表1)。
歴史を振り返ると、円は1990年代前半(1990年第2四半期から95年第2四半期)に大幅に増価した。この時期をマッキノン=大野は、「円高シンドローム」と特徴付けた。当時、名目実効為替レートは45%、実質実効為替レートは38%増価した。日本がGDPデフレータでみてデフレに入ったのは、1994年末からである。急激な円高は、日本経済をデフレ均衡に陥らせた大きな要因の一つであった。
今回の円高は、名目および実質実効為替レートでみて、円の増価幅は前回よりもやや小幅であるが、1990年代前半と比べると、韓国や中国の企業など価格面のみならず質の面でも強力な競争相手がアジアに出現したことにより、日本の国際競争力が侵食される度合いは、より大きくなっている。
リーマンショック以降、円と同様に逃避通貨となっているスイスフランも大きく増価している。しかし、円の増価幅はスイスフランを上回っている。2007年第2四半期から2011年第3四半期にかけて、スイスフランは、名目実効為替レートで30%、実質実効為替レートで25%増価している。
スイス中央銀行は、このスイスフラン高は、ファンダメンタルズから大きく乖離したものであり、デフレのリスク、国際競争力の低下をもたらす、看過すべからざるレート高であるとして、ユーロへの下限ペッグ(1ユーロ=1.2スイスフラン)を開始した。
円高の水準と主要通貨の大幅な減価
なお、今回の円高の水準について、実質実効為替レートでみると、2002、3年の水準に近いので国際競争力の低下を心配する必要はないとする意見がある。しかし、ジョルゲンソン=野村の推計によれば、円の対ドルレートは、2000年、2004年にそれぞれ41%、24%過大評価されている。円の実質実効為替レートの水準が、2002、3年に近い水準にあるからといって安心してはいけない。
今回の円高期の特徴は、ドルのみならずユーロ、ポンドなど主要通貨が大きく減価していることである。アメリカのドルは、2002年第2四半期から2011年第3四半期にかけて名目実効為替レートで55%、実質為替レートで33%減価している(表2)。
ラインハルト=ロゴフは、過去800年の金融危機は、対外的な国家デフォルト、対内的な国家デフォルト、インフレによる国家デフォルトのほかに通貨クラッシュ、または大幅な為替レート切り下げの4つの特徴があると論じている。
通貨クラッシュのリスク
ラインハルト=ロゴフは、1年以内に為替レートが15%以上減価する場合、「通貨クラッシュ」と定義している。ドルが「通貨クラッシュ」を起こしたのは、両氏の見解によると、1969、71、75年の3回である。
なかでも、1971年8月にニクソン大統領の下でのドルと金との交換性停止は、世界経済に大きなショックを与えた。この時、ドルの名目実効為替レートは20%、実質実効為替レートは26%減価した。今回のドル安局面は、低下速度は緩やかであるものの、低下幅の大きさは、この時期のドル減価幅を大きく上回っている。
1980年代後半にも、プラザ合意を契機としてドルは大幅に減価した。この1985年第1四半期から88年第2四半期にかけてのドルの減価幅は、名目実効為替レートでは53%、実質実効為替レートでは45%であった。今回のドル安は、この時期のドル安とほぼ同じ規模である。現在のドルの実効為替レートの水準は、名目であろうが実質実効為替レートであろうが、歴史的な最安値を更新している。
1980年代後半のドル安時期と比べて大きな相違の一つは、主要通貨のなかでもドルのみならずユーロ、ポンドも大幅に減価していることである。名目実効為替レートでみるとユーロは、2009年第3四半期から2011年第3四半期にかけて7.1%、ポンドは、2007年第1四半期から2011年第3四半期にかけて33%減価している(表2)。
ユーロは「通貨クラッシュ」を半分起こしている。欧州の財政金融危機は、イタリアに波及し、さらに深まっている。市場を驚かすような抜本対策が講じられない限り、ユーロ・レートが反転するとは考えにくい。
非伝統的金融緩和政策と交易条件
もう一つの相違は、アメリカの交易条件の悪化幅が、今回の場合は12%と前回1980年代後半の2.2%よりも大幅なことである。
連邦準備制度理事会による量的緩和(QE)第1弾、第2弾など非伝統的な金融緩和政策が、ドルレートを減価させただけではなく、原油など一次産品価格を大きく押し上げたためである。非伝統的な金融緩和政策は、期待インフレ率を安定化させ、デフレ回避に効果はあったが、失業率を引き下げる効果は弱かった。その一つの理由は、ガソリン価格の上昇が個人消費の拡大を抑制したことにある。
実質実効為替レートの変動は、企業の国際競争力に大きな影響を与える。他方で、交易条件の変化は、一国経済のマクロ的なパフォーマンスと経済厚生に大きな影響を与える。交易条件の悪化幅が大きい場合には、一国の金融緩和策が、近隣窮乏化ではなく、自国の経済厚生を低下させるケースすら発生しえる(自国窮乏化)。
日本は、円高局面にあるにもかかわらず、実質実効為替レートが27%増価するなかで、パラドクシカル(逆説的)であるが交易条件が27.5%、石油・石炭・天然ガスを除いた交易条件でみても6%悪化している(表1)。このことは、企業収益が大きく圧縮され、企業の国際競争力が低下した上に、経済厚生も大きく低下したことを意味している。
ドル価値の不安定性
問題は、ドルである。アメリカ政府が、輸出促進の観点から、ドル安持続を望んでおり、連邦準備制度理事会も、失業率がなかなか低下しないので、今後も緩和を一段と強化する可能性が強い。ユーロからの逃避先として対ユーロではドル高になることはあっても、2002年第2四半期以来のドル安傾向は容易に是正されないであろう。
興味深いのは、2002年以降、アメリカ国債の外国居住者保有が急増し、しかも民間保有分は減少し、公的部門の保有が急増していることである。換言すると、アメリカのドルは、日本を含めた海外の公的部門によるドルレート安定化の努力(介入政策)にも拘らず低下を続けているのである。
アメリカの社会保障予算関連の将来債務は、医療、年金などで66兆ドルに上るとの推計がある。議会の与野党議員による赤字削減のための超党派委員会が、財政赤字削減について信頼のおける成果を得ることが出来ない場合、アメリカ国債に対する市場の信頼が揺らぐリスクがある。
外国の公的部門によるアメリカ国債保有のバブル的な増加が、継続困難になった場合に、ドルに「通貨クラッシュ」が発生する。アメリカ通貨当局は、「管理されたドル安」を望んでいるが、それが常に可能というわけにはいかない。ユーロに加えて、ドルに通貨クラッシュが発生した場合には、円高が急進展し、日本経済には壊滅的な影響が発生しよう。主要通貨のクラッシュは、世界市場におけるシステミックリスクを強めよう。
世界の通貨システム移行期の不安定性
世界の通貨システムは、アメリカのドルを中心とするものから中国など新興国の役割が次第に高まってゆく移行期にある。しかし、新興国には、世界通貨システムの安定性に関して責任を分担する準備はできていない。多角的な自由貿易交渉であるWTOドーハ・ラウンドが、戦後初めて挫折する可能性が強いのも同じ理由からである。
日本は、この世界経済システムの移行期に、スタビライザーとして積極的な役割を果たす必要がある。貿易面では、TPP交渉への参加はその具体的な第一歩といえる。
国際金融通貨システムの安定化について、私は、1回目の国家戦略会議で3つの措置を提案した。3つの提案とは、円による外貨建て資産の購入を可能にする50兆円規模の「金融危機予防基金」の設立、IMF融資規模の倍増、システミックリスクを予防するためのIMFにおける「金融危機予防会議」設置である。この3つの対応措置に即時に着手し、通貨クラッシュの発生、金融危機の波及を阻止すべきである。
バックナンバー
- 2023/10/23
-
「デリスキング」に必要な国際秩序
- 2023/08/04
-
妥当性を持つ物価目標の水準
- 2023/05/12
-
金融正常化への険しい道筋
- 2023/02/24
-
金融政策の枠組みを問う
- 2022/11/30
-
中国を直撃する米政権の半導体戦略