日米の金融政策のズレと円高修正
2012/03/21
1%のインフレ目標(ゴール)の設定
バーナンキ議長(米連邦準備制度理事会)は、最近の議会証言でQE3の実施について明言することはなかった。QE3の実行を予想していた市場の一部参加者は失望し、市場金利に上昇圧力が加わった。
他方で、日本銀行は、2月14日の金融政策決定会合で物価上昇率の目途(ゴール)を1%と明確化し、10兆円の国債購入を言明した。物価安定の目標として、ゼロ%近傍の方が望ましいと考える伝統的なセントラルバンカーやエコノミストもいることを考慮すると、日本銀行が1%以下の物価上昇率は、目途となりえないということを明確化した点で、大きな前進といえる。
日米の中央銀行の金融政策スタンスの微妙なズレは、円高トレンドを円安方向へと大きく転換させるトリガー(引き金)となった。
かつて、2006年3月に日本銀行は1回目の量的緩和政策を解除し、「中長期の物価安定の理解」を公表した。公表以前の時点においても、今回の決定と同様に、日本銀行内部では、望ましい物価上昇率の表現を巡って、物価安定の数値定義、目途または目安(ヤードスティック)、目標(ターゲット)とするかを巡りいくつかの案が俎上にのぼった。結果的には、各ボードメンバーが理解する物価安定の数値を公表するという意味で、「中長期の物価安定の理解」とした経緯がある。
物価安定の理解と目途
私が、日本銀行に加わった2003年春の時点では、ボードメンバーの間では、望ましい物価上昇率は何%なのかについて、内部向け発言であっても意見を表明することに躊躇する向きもあった。さらに、インフレ目標政策については、望ましい物価上昇率を公表しても、それは、「おまじない」に過ぎないので、百害あって一利なしとする意見もあった。
私は、インフレ目標政策を採用する、採用しないという論争を別にしても、中央銀行が最終目標とする物価安定を数値で示すことは、当然の義務であると考えていた。最終目標を決めないで金融政策運営を行うことは、「目的地を決めずに自動車を運転するようなもの」だからだ。また、予測に基づかずに足元の統計数字のみを見て金融政策運営を行うことは、「バックミラーを見て運転するようなもの」である。いずれも危険極まりない行為だ。
また、理論的によく整理された「予測に基づくインフレ目標政策」を実行する上では、「目安」、「目途」のいずれの用語を採用してもよいと考えていたが、その英語表現を「ゴール」とすることまでは流石に考えが及ばなかった。
強固な「インフレ・ターゲット」論者であるバーナンキ議長でさえも、望ましい物価上昇率について「ターゲット」の用語を用いず、「オブジェクティブ」と言ったりしていた。インフレ目標政策に強固に反対するボードメンバーが存在することを考えれば、「柔軟な予測に基づくインフレ目標政策」を実行する上で支障をきたすことがなければ、用語で争うのは愚かなことだ。日本銀行が、目途を「ヤードスティック」と直訳せず、連邦準備制度理事会と同じ「ゴール」を採用したことは、市場へのインパクトを大きくしたように思う。
ゴール引き上げと動態的物価安定目標政策
2003年3月に日本銀行副総裁に就任する前日に国会(財政金融委員会)で所信表明を求められた。その際、私は、量的緩和の解除条件として、物価上昇率が0%以上になることを日本銀行がコミットしていることは、物価上昇率として0%以上が望ましいと考えていることを暗黙のうちに示しているが、上限がない。物価安定目標として2%の上限を設定すべきであると述べた。
デフレに陥るリスクに対する糊代が1%、消費者物価指数に残る歪みが0.5%あることを考慮して、1%から2%の物価安定目標を設定することが望ましいと、私は考えていた。なお、消費者物価指数として、5年ごとに基準年が変化し、物価上昇率に大きな差をもたらすラスパイレス型指数ではなく、連鎖指数系列を用いる方が望ましいことは自明である。にもかかわらず、政府、日本銀行ともラスパイレス型指数を使用し続けているのは、愚行であるとしか思えない。
さらに、物価上昇率が足元で安定的に0%以上になっても、デフレに戻らないためには、「先行き1%の物価上昇率が見込める」ことを量的緩和政策解除の条件にする「動態的な物価安定目標政策」を展開すべきであると考えていた(2003年10月時点の解除条件の明確化)。
首尾一貫したデフレ脱却策
2005年夏のジャクソンホールの国際会議でも、パネリストとしてこの意見を表明した。ウッドフォード・コロンビア大学教授の推奨する「物価水準目標政策」に対抗して、日本では「動態的な物価安定目標政策」を実施すべきだと述べた。「物価水準目標政策」は、理論的には最も整合的なデフレ脱却策であるが、問題は、何年間か3-4%の物価上昇率を実現する必要があるので、長期金利に与えるインパクトが大き過ぎることだ。もう1つの問題は、財政政策運営について沈黙を守っていることだ。
国債残高が小さな経済では、この効果を無視してよいであろうが、日本のように国債残高が大きくなりすぎた経済では無視することは危険だ。不安定な「政府債務ダイナミックス」が起動し始めた場合、それを抑制する措置は限られている。
「動態的な物価安定目標政策」は、時間の経過とともに目標とする物価上昇率が変化するので「時間整合性」がない。しかし、デフレ脱却の戦略としては「首尾一貫した」(コーヒアレント)戦略であると述べた。この「首尾一貫した」という用語は、日本銀行金融研究所の顧問をしていたマッカラム・ロチェスター大学教授の論稿から借りたものであった。
現在、日本銀行の1%の物価上昇率の目途を2%まで引き上げるかどうかが政策運営の焦点になっている。私は、「動態的な物価安定目標政策」に基づき、1%の物価上昇率が予測されるようになった時点で1%から2%まで、または、2%まで目途(ゴール)を引き上げるべきであると考えている。
付言すれば、政府の成長戦略における実質成長率2%、名目成長率3%目標は、1%のGDPデフレータ上昇を意味している。過去の実績をみるとGDPデフレータの方が、消費者物価指数の上昇率よりも0.5%から1%程度低い。このことは、成長戦略目標と整合的な消費者物価上昇率が、1.5%ないしは2%であることを意味している。
アメリカの不胎化されたQE3
バーナンキ議長は、QE3の実施を明示することはなかったが、市場にはQE3の実施を望む声は過半を占めている。市場で予想されているQE3は、住宅市場に的を絞った政策であり、しかも不胎化を伴ったものであるとされている。不胎化するとは、市場からモーゲージ担保証券(MBS)を購入した場合、市場に放出される資金を回収することである。この不胎化には3つの方法がある。
第1は、リバース・オペによる資金吸収である。日本銀行にとって、1回目の量的緩和政策の実行に当たって、目標とする当座預金残高を維持する上で、リバースオペは不可欠の手法であった。
第2に、ターム物(期日物)預金証書を連邦準備制度理事会が発行し、市場から資金を吸収する方法である。
第3に、財務省が短期証券を発行して、資金を吸収する方法である。
いずれの方法であっても、グロスでみた連邦準備制度理事会のバランスシートは大きくなる。政府のバランス・シートも第3の方法では拡大する。いずれの方法であっても、MBSを中心とする市場の長期の流動性を改善する一方で、不胎化しない場合に比べ、短期の流動性を減少させるように作用しよう。その懸念もあって、アメリカの2年物金利に上昇圧力がかかっており、円高修正に寄与している。
自国窮乏化効果とは?
ではQE3では、何故不胎化が必要とされるのか。その理由は、超拡大的な金融政策の発動が、「自国窮乏化効果」を与えるリスクがあるからだ。通常の議論では、拡大的な金融政策は、他国に悪影響を与えるとする「近隣窮乏化効果」が有名だ。ブラジルのマンテガ財務大臣も、先進国の異例な拡大的金融政策が、新興国の為替レート増価を通じて、近隣窮乏化効果を及ぼしていると批判している。
しかし、1930年代の拡大的な金融政策は、必ずしも近隣国を窮乏化させたわけではなかった。世界の実質金利を低下させることを通じて需要不足に悩む国の経済活動を活発化させる効果を与えたからだ。かりに、近隣国の為替レートを増価させたとしても、交易条件改善効果を伴っている限り、近隣国の経済厚生を高めるはずである。
アメリカドルは基軸通貨であり、金や1次産品との代替性が高い。アメリカの超拡大的な金融政策の発動は、国内の雇用を改善させる以前に原油など1次産品価格を高騰させる。原油価格が高騰するとガソリン価格も上昇する。1ガロン当たり4ドルは、アメリカ経済が失速するかどうかの目安とされている。もっとも、今回の場合は、シェールオイル・ガスの生産拡大もあって、ガソリン価格高騰が消費を萎縮させる効果は、過去の場合よりも弱い可能性もある。
2002年第1四半期から2011年第3四半期にかけてドルの名目実効為替レートは55%低下した。交易条件は12%も悪化した。2005年以降の原油価格の急騰は、交易条件の悪化を通じて、2007年12月の景気後退をもたらす要因になった。
アメリカにおける超拡大的な金融政策の実施は、自国の為替レートを減価させ、輸出を促進するだけでなく、1次産品価格を高騰させる。交易条件の悪化幅が一定の大きさを超えると、国内の需要拡大効果を相殺するばかりでなく、経済厚生を悪化させるリスクがある。これが「自国窮乏化効果」だ。
2011年年初にアメリカで景気後退リスクが高まったのは、財政拡大政策の息切れ懸念のほかにガソリン価格の高騰があったからだ。先物市場における2回の証拠金引き上げや原油の緊急備蓄取り崩しなどの措置を講ずることで、アメリカは、自国窮乏化効果を抑制したとみることも可能だ。
不胎化されたQE3と円高修正
仮に不胎化されたQE3が発動された場合、円レートはどのような影響を受けるであろうか。答えのヒントは2つある。
第1のヒントは、過去のアメリカのQE1・QE2は、ドルを5%減価させ、円を12%増価させた(IMFのスピルオーバー効果に関する研究)。過去と同じタイプの(不胎化を伴わない)QE3が発動されれば、円高修正を逆転させる効果があろう。
第2のヒントは、不胎化されたQE3の報道に対する市場の反応にある。不胎化を通じ短期の市場流動性を減少させ、短期の市場金利を高める限り、円高修正を逆転させる効果を持たないであろう。
連邦準備制度理事会は、自国窮乏化効果を回避する上でも、不胎化されたQE3を採用しよう。その帰結は明快だ。円高修正の流れを逆転する力はないであろう。
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