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岩田一政の万理一空

「債務上限引き上げ」と「金貨発行」提案

 

2013/01/24

「財政の崖」から「債務上限引き上げ問題」へ

 米国の「財政の崖」については、2012年末に民主党と共和党の間で富裕層に対する減税の廃止と給与税減税の廃止について合意がなされた。この結果、1750億ドル程度の増収が見込まれることになった。この合意形成によって、個人消費はマイナスの影響を受けるものの、「財政の崖」は、経済にとって打撃の少ない「財政の坂」になったとも言える。

 しかし、2023年までに4兆ドル累積赤字を減少させる予定になっているにもかかわらず、これまで決定された赤字削減幅は2.5兆ドル程度に過ぎない。仮に政府歳出の一律強制削減によって1.2兆ドルが削減されても、なお3000億ドルの削減が求められる。政府歳出の一律強制削減は、3月1日にその発動期限がくることになっている。

 他方、債務上限については、すでに昨年末に16.4兆ドルの上限に接近し、財務省は、連邦政府職員年金基金から2000億ドルの資金を融通することによって、政府が歳出の支払い不能に陥る事態を何とか回避した。しかし、その措置は、時間稼ぎに過ぎない。1月23日に下院は3カ月間、5月19日まで債務上限を引き上げるという法案を可決した。この法案では4月15日までに予算決議案を可決することになっており、可決されるまで議員給与は凍結されることになる。

債務上限引き上げ問題

 そもそも連邦債務の上限は、第一次大戦期の1917年に、米国政府が戦時国債を発行する際に設定されたものである。議会は、市民の経済安全保障を維持するために、連邦政府の債務上限を「第二次自由国債法」で定めることにした。議会による財政政策の監督権限と情報公開を進める機会を与える効果があると期待されたのである。

 しかし、実際には、議会の野党が債務上限引き上げを、政府の政策に対する反対姿勢を誇示し、政治的な駆け引きに利用する手段になりがちであった。議会と政府の間のチェック・アンド・バランスに寄与するよう機能しているとはとても言えない。これまで、米国議会は、1962年以来74回上限引き上げを実施してきた。

 日本において「特例公債法」が、野党による政治の駆け引きに利用されるのと類似した役割を米国では債務上限引き上げ問題が果たしてきた。

 債務上限引き上げが実行されないと、政府はデフォルトし、社会保障給付や政府職員の給料支払いが行なわれず、政府サービスはストップする。米国政府がデフォルトすれば、米国の景気回復が頓挫するばかりでなく、世界経済の成長率を1%引き下げる程の大きなマイナス効果があるとの試算もある。

金貨鋳造提案

 この状況の下で、政府には、1997年の法律により財務長官には記念金貨を発行することが認められているので、財務省が1兆ドルの印字が刻まれた金貨鋳造を行い、それを連邦準備制度の財務省預金勘定に振り込むことによって、政府の歳出を可能にすればよいという奇策が共和党の議員から提起され、経済学者の間でも議論の俎上に上った。

 連邦準備制度は、受け取った金貨1兆ドルの範囲内で紙幣を印刷し、政府支出をファイナンスすることになる。ポイントは、連邦政府は借入れを増やすことなく、歳出を実行することが可能になることにある。債務上限の引き上げがなされれば、金貨を再び溶かして元に戻せばよいというのである。ポール・クルーグマン・プリンストン大学教授は「どんなにおかしな提案であったとしても、債務上限引き上げ問題を打開するために、大統領は、金貨鋳造を実施すべきだ」と論じている。

 この提案は、政府が、中央銀行の保有する通貨発行益を一定期間にわたり一部借用するものと解釈できる。政府の保有する資産(金)を担保に中央銀行に紙幣増刷を迫るものだからである。

通貨発行益とは

 例えば、日本銀行が1万円札を印刷するためにかかる直接的な経費は17円であり、1万円と17円の差は通貨発行益と呼ばれる。印刷経費を無視することにすれば、通貨発行益の大きさは、基礎貨幣の増分で測ることができる。もう一つの通貨発行益の定義は、中央銀行が基礎貨幣を発行することから得られる資産の収益によって定義される。この定義による通貨発行益は、「中央銀行収入」とも呼ばれることがある。

 かつて、共和党のロン・ポール議員は、連邦準備制度が「大規模な債券買取りプログラム」によって蓄積した米国債を燃やしてしまえば、政府債務は大幅に削減できると提案したことがある。この提案を実施すれば、連邦準備制度は、国債保有による利子収入(通貨発行益の一部)を失うことになり、債務が資産を大幅に上回る債務超過の金融機関となる。ロン・ポール議員は、かねてより金本位制度への復帰論者として知られており、連邦準備制度の廃止を唱えている。ロン・ポール提案は、事実上、「中央銀行制度の死」を意味していよう。

政府紙幣の発行と造幣益の配分

 2003年4月に開催された関税・外国為替等審議会主催によるセミナーで、スティグリッツ・コロンビア大学教授は、日本政府は政府紙幣発行によって歳出をファイナンスし、雇用拡大を図るべきだと論じたことがある。この提案は、中央銀行による通貨発行益を政府に直接移すことを意味している。

 現実には、中央銀行によって発行される紙幣と政府紙幣のいずれが正貨であるかを巡って混乱が生じ、通貨の信頼性が失われることになる。アルゼンチンでは、経済危機による税収不足とカレンシー・ボード制度(恒久的なドル・ペッグ制度)を支える外貨準備の不足から、2000年以降、中央政府と地方政府が擬似通貨(連邦債、州債)を発行するようになった。国際通貨基金(IMF)は、擬似通貨の廃止と財政赤字削減がなければ融資に応じられないと主張した。

 日本も中央銀行制度の確立前には、各種の政府紙幣が発行されたが、インフレ高騰を抑制することができなかった。日本銀行が発足してからも、政府紙幣が発行されたことがあったが、最終的には日本銀行に回収され、日本銀行券に置き換えられた。

 以上の事例を考慮すると、市場は、1兆ドルの金貨鋳造提案について、財政規律の緩んだ政府による中央銀行の通貨発行益を利用するインフレ促進策であると解釈することになろう。

 幸いなことに、米財務省は、2013年1月中旬に「財務省ならびに連邦準備制度は、債務上限引き上げを回避するための金貨鋳造を行なうことができるとか、行なうべきであるとは考えていない」との声明を出した。実際に金貨鋳造提案が実行された場合には、米国の株式、債券に対して悪影響が及ぶに止まらず、基軸通貨であるドルの信認も傷つけることになったであろう。