「2%物価目標」と量的緩和政策
2013/02/26
2%物価目標に対する反対意見
安倍新政権の下で、「2%物価目標」が設定され、日本銀行もその物価目標を受け入れた。2%物価目標について、1月の金融政策決定会合で佐藤健裕委員と木内登英委員が反対を表明した。
「2%は現時点における持続可能な物価の安定と整合的と判断される物価上昇率を大きく上回っていること」、ならびに「その実現にかかる不確実性の高さから、金融政策の信認を毀損したり、市場とのコミュニケーションに支障が生ずる惧れがある」ことがその反対理由であった。
1回目の量的緩和政策の評価
2%物価目標の実現可能性については、2001年3月から2006年3月にかけて実施された1回目の「量的緩和政策」を振り返ってみることが有用であろう。
まず、第一に、郵政改革を始めとする構造改革実施を目指す小泉政権の下で、量的緩和による金融拡大と財政政策発動には慎重な組み合わせが選択された。財政政策は、自動安定化効果を可能な限り活用し、10年後に財政の基礎収支をゼロとする中長期の財政健全化目標を達成しようとする慎重なスタンスが採られた。
変動レート制度の下で金融拡大は為替レートを減価させ、経済拡大に効果があるが、財政政策は為替レートを増価させるため経済拡大効果は弱いとする「マンデル=フレミングの定理」通りの政策の組み合わせであった。
現実にこの金融財政政策の組み合わせの下で、円レートは大幅に減価した。名目実効為替レートは、2000年春から2007年の夏にかけて約4割減価した。為替レートの減価は、輸出と設備投資を刺激した。
第二に、小泉政権の下で、日本経済は明治維新以来最長の景気拡大を享受した。2002年第1四半期から2008年第1四半期にかけての景気拡大期に、平均成長率は1.8%を記録した。しかし、名目賃金の伸びが弱かったこともあり、個人消費は力強さを欠いていた。
同時に注目すべきことは、米ドルの名目実効為替レートも2002年春以降緩やかに低下し、2011年秋にはその減価幅が55%に達したことだ。この間の主要通貨の調整弁となったのは、ユーロであった。ユーロは一時1ユーロ=170円をつけるまで上昇した。しかし、ドイツの実質実効為替レートはこの時点でも驚異的に安定していた。他方、南欧諸国にとっては、基礎的な要因で決定される為替レートの水準をはるかに上回るユーロ高であった。過度のユーロ高は、域内の経常収支不均衡を拡大したばかりではなく、リーマン・ショック以降、南欧諸国の実物経済面での調整をより困難にした。
第三に、物価上昇率に大きな影響を与えるGDPギャップの変動幅は、2002年のボトムのマイナス4%から2006年末にはプラス1%に改善し、およそ5%であった(図1)。ここでのGDPギャップは現在の時点で観測されているものであり、リアルタイムの数字とは異なる可能性がある。リアルタイムに観察されていた数字をたどることができたとしても、この間のGDPギャップの変動幅はおよそ5%程度であったと推測される。
第四に、2000年基準の生鮮食品を除く消費者物価指数は、量的緩和が始まった時期のマイナス0.9%から量的緩和政策を解除した2006年3月にはプラス0.5%に転じていた(図2)。物価上昇率の変動幅はおよそ1.5%であり、1%のGDPギャップの変動に対する消費者物価の感応度は、事後的に観察する限り0.3程度であったとみてよいであろう。
同時に留意すべきことは、5年毎の基準年の改定により2007年7月には消費者物価上昇率が0.4%下方修正され、物価の変動幅は1%強になったことだ。結果的には、消費者物価のGDPギャップに対する反応度は0.2に近かったということになる。今回の場合には、2%の物価目標を達成するために必要とされるGDPギャップの変動幅は5%より大きなものとなり、短期間での2%目標の達成を難しくしよう。
第五に、日経株価指数は、量的緩和開始時の8000円程度から上昇し、一時的に1万8000円のピークをつけた。今回は8000円台半ばから1万2000円近くまで上昇している。
第六に、長期金利は、2003年7月のVARショック(銀行部門が類似したリスク管理手法を採用していたこともあって、国債の売りが集中し、金利の大幅な変動が発生した)時に大きく下げ、直ちに上昇した後は、安定的に推移し、トレンドとして緩やかに低下した。
近隣窮乏化効果と自国窮乏化効果
過去の量的緩和政策の結果を見る限り、「2%物価目標」の達成は、決して不可能ではないが、容易ではない。企業経営者の期待物価上昇率の変化や需給変動に対する価格の感応度の有意な変化が求められる。
まず、今回の場合、円の名目実効為替レートは、2013年1月に2012年中のピークと比べて、17%減価している。
円安は、輸出および設備投資にはプラスであるが、円安による物価上昇が、交易条件を悪化させる場合には、実体経済にマイナスの効果が及ぶ。
国際会議の場では、「通貨戦争」を巡る議論が活発であり、金融拡大策による「近隣窮乏化効果」が問題になっているが、輸出価格と輸入価格の比率である交易条件の悪化がある閾値を超える場合には、「自国窮乏化効果」が発生しうる。
変動レート制度の下での金融拡大は、世界の実質金利を低下させ、他国の交易条件を改善させることを通じて貿易相手国の経済厚生を高めることができる。しかし、自国の交易条件の悪化が国内経済に悪影響を与える可能性がある。
私は、リーマン・ショックが発生する前の2007年12月に生じた米国の景気後退は、ガソリン価格が1ガロン=4ドルを超えたことによる個人消費の収縮によって引き起こされたものではないかと考えている。基軸通貨国である米国が強い金融緩和政策を採用する場合には、2005年以来「金融資産化」したコモディティ、とりわけ原油の価格が高騰する。この結果、金融拡大が国内経済を刺激する前に、原油価格高騰が、米国経済を後退に陥らせた可能性がある。
自国通貨プライシングと現地通貨プライシング
同様のリスクは、日本経済にも存在する。2008年2月に始まる景気後退は、賃金の伸びの弱さに加えて、第二次石油危機にも匹敵する交易条件悪化によるところが大きい。過度の円高は、輸出関連製造業の国内での操業を困難にするという上限がある一方で、過度の円安にも交易条件悪化を通じる輸入関連製造業の収益圧迫による下限も存在する。
とりわけ、円安と原油高騰の組み合わせには注意がいる。日本企業の場合、自国通貨建てで輸出価格を決定している米国企業(「自国通貨プライシング」)と異なり、現地通貨建てで輸出価格を決定している企業も多く(「現地通貨プライシング」)、為替レートの変動を輸出価格に連動させる度合いが低い。日本企業の半分程度は、円高による輸出価格への転嫁率がほぼ50%程度であって、半分程度の企業は現地通貨での価格付けを行なっていると推測される。
企業による価格付けは、取引通貨として自国通貨を採用するかどうかという「ヴィークル・カレンシー」の選択とも関連している。「現地通貨プライシング」を採用する輸出企業の場合、仮に10%円安になったとしても、ドル建ての輸出価格を低下させることなく据え置くために(この時、円建て輸出価格は上昇する)、輸出企業の収益は大幅に改善する。逆に、円高の場合には、輸出価格への転嫁がないために、輸出企業の企業収益は大幅に悪化する。
輸入価格は、貿易相手国が「自国通貨プライシング」を採用している場合や輸入財がドルで決定されている場合、円安の分だけ上昇する。日本の場合、輸入におけるドル建て比率が7割以上と高いこともあって、10%の円安は輸入価格をそのまま10%近く上昇させる。この結果、短期的には、Jカーブ効果により貿易収支赤字はむしろ悪化する。
他方で、日本の貿易相手国が「現地通貨プライシング」を実施している場合には、円安によって日本の円建て輸入価格は変化しないので日本の交易条件は、円安により改善する。この結果、貿易相手国の交易条件が悪化し、近隣窮乏化効果が発生する可能性が残る。
変動レート制度と固定レート制度の選択
仮に世界の企業がすべて「現地通貨プライシング」を採用する場合には、為替レート変動は、企業収益の変動によって吸収され、国内経済の支出転換効果をもたらしにくくなる。この結果、変動レート制度は最適な通貨制度とはいえず、固定レート制度の方が望ましいということになる。
他方で、すべての企業が「自国通貨プライシング」を採用する場合には、変動レート制度の下で「近隣窮乏化効果」は、発生せず、変動レート制度が最適な通貨システムとなる。この場合、注意を要するのはむしろ「自国窮乏化効果」だ。
日本は半分程度の企業が「現地通貨プライシング」を行なっていると推測されるが、交易条件はトレンドとして悪化しており、円安を通じて貿易相手国の交易条件を悪化させ、貿易相手国の経済厚生を低下させた可能性は低い。
シェールオイル・ガスの効果
以上の結果、過度の円高が輸出関連産業の企業収益を圧迫すると同時に、過度の円安は、輸入関連産業、とりわけ、エネルギー依存の高い産業にとって企業収益圧迫要因になる。原油などコモディティ価格が高騰する場合には、円安による企業収益圧迫はより厳しいものになる。
ただし、今回明るいニュースは、米国におけるシェールオイル・ガスの生産拡大だ。世界の原油市場の価格の高騰を抑制する効果も期待できるからだ。米国の貿易収支赤字を半減するばかりでなく、石油化学産業、インフラ関連も含めれば、100万人を超える雇用拡大を期待する向きもある。
前回の量的緩和政策実施期間中に円の名目実効為替レートは、4割と大きく減価したが、ドルに対する減価幅はそれよりも小さく、かつ緩やかであった。
前回のコラムで紹介した通り、交易条件を実物経済面でのファンダメンタルズ要因とみなす場合は、2012年における円の均衡レートからの乖離は15-30%程度である。仮に円・ドルレートに換算すれば、均衡レートは、90-100円(その中間値は95円)のレンジにある。より長期的には、交易条件の変化によって均衡レートは変化しうるので、今回の場合も、結果的には、均衡レートと整合的な範囲であっても、より大幅な名目実効為替レートの減価となる可能性も残されている。
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