アベノミクスと欧州経済への意味合い
2014/10/22
アベノミクス点検会合
ベルギーのブリュッセルで10月8日に欧州を代表するシンクタンクの一つであるブリューゲル(Bruegel)と神戸大学の共同主催による会議に参加した。会議の目的は、アベノミクスがこれまでどのような成果を挙げたかを点検(たな卸し)すること、および欧州経済にとっての意味を検討することにあった。
マクロ経済政策の有効性を第一の矢と第二の矢について評価する第一セッションでは、筆者とポールシェアード・スタンダード・アンド・プアーズ(S&P)主任エコノミストが報告を行なった。
第二のセッションは、第三の矢である成長戦略について井戸清人国際経済研究所副理事長とアンナ・ブーヒャー・欧州委員会構造改革・競争力課長が、欧州が日本の成果について学ぶ点があるかについて報告した。
第三セッションは、欧州と日本の新たな貿易関係について、木村福成東アジア・ASEAN経済研究センター(ERIA)主任エコノミスト(慶應義塾大学教授)とアンドレ・サピール・ブリューゲル研究員が報告を行った。
拡大的な財政金融政策とヘリコプター・マネー
筆者からは、アベノミクスの欧州にとっての政策的意味合いは3つあると指摘した。まず、第一に、拡張的な金融政策と柔軟な財政政策の組み合わせは、日本のデフレを停止させる上で有効であったと総括した。
黒田東彦日本銀行総裁の下での量的・質的金融緩和は、フリードマンがかつて指摘した「ヘリコプター・マネー」に類似しているが、「ヘリコプター・マネー」そのものではない。「ヘリコプター・マネー」は政府から国民への一時的な財政移転(財政支出)を恒久的なベースマネーの発行拡大によってファイナンスすることを意味している。
英国の元金融サービス機構(FSA)長官のターナー卿は、日本銀行の異次元の金融緩和政策は、米国、英国、ユーロ圏のなかで最も「ヘリコプター・マネー」に近いと論じたことがある。しかし、「量的・質的金融緩和政策」に基づくバランスシート拡大は、緩和縮小(テーパリング)がまもなく終了する米連邦準備理事会(FRB)の量的緩和政策と同じく、あくまで一時的なものであり、恒久的なベースマネーの拡大にコミットしている訳ではないので「ヘリコプター・マネー」とはいえない。
すでに、このコラムでも紹介したが、ケインズが1933年末に米国のルーズベルト大統領に宛てた公開書簡では、公開市場操作による長期国債の大規模な購入により長期金利を2.5%以下に抑えること(チープ・マネー)、賢明な公共投資(ワイズ・スペンディング)、国内の物価水準を安定化させるための米国と英国の間の為替レート取り決めの3つの矢が盛り込まれていた。
このケインズ書簡より2年前の1931年に、日本では高橋是清大蔵大臣の下で、金本位制度からの離脱と大幅な円の対ドル・レートの切り下げ、拡大的な公共投資と日本銀行による国債の直接引き受けの3本の矢の政策が実施された。当時の日本銀行が国債を市中からでなく直接引き受けた点において、より「ヘリコプター・マネー」に近いが、日本銀行は、民間金融機関が体力を回復するに応じて、直接引き受けた国債を市中に売却したので、恒久的なベースマネー拡大にコミットしたわけではない。
英国のエコノミストの間では、イングランド銀行が保有する国債をゼロ金利の長期国債に置き換える政策の是非について議論が行なわれている。この提案について、ウィレム・バウター・シティバンク主任エコノミストは、イングランド銀行は、ゼロ金利の国債は市中への売却が困難である一方、自らのバランスシート上に抱えておくことが容易なので、ベースマネーの拡大を恒久化する仕組みになり得ると筆者に語ったことがある。
しかし、イングランド銀行が今後予想される金利引き上げ過程において、このゼロ金利置き換え提案を受け入れるかどうか明らかではない。バランスシートが拡張した状態のままで、将来発生し得る金融危機に対する中央銀行の対応能力が低下するリスクも無視できない。
かつて、バウター氏は、「ヘリコプター・マネーは常に有効である」という論文を書いている。注意して読むと、この命題が成立するために必要な3つの前提条件が書いてある。
第一に、ベースマネーの拡大は恒久的であることが求められる。
第二に、ベースマネーは、政府債務と異なる貨幣特有のサービスを提供する、民間部門にとっての資産であることが求められる。
第三に、ベースマネーの保有に飽和点があることが求められる。
この3条件を満たす量的緩和政策は、現在のところ存在していない。他方で、日本には貨幣を除く政府債務に飽和点がある場合には、中央銀行が長期金利やインフレ率をコントロールすることが不可能になる「財政支配(フィスカル・ドミナンス)」レジームに転換するリスクがあることを忘れてはならない。
なお、ドラギ欧州中央銀行総裁は、ブルッキングス研究所における最近のスピーチで、ケインズの公開書簡の処方箋に言及したようである。欧州経済の日本化は、政策面まで浸透してきているとの印象を深くした。
為替レートのミスアライメント
アベノミクスの欧州経済にとっての第二の政策的意味合いは、為替レートのミスアライメントが持続する限り、デフレ回避は困難であるということだ。ドイツ経済にとって現行のユーロ・レートは、均衡水準に近いが、フランス、イタリアを含め、南欧諸国にとっては、なお過大評価されている。図表1は1970年以来の長期的な平均と現実の実質実効為替レートを示しているが、ユーロ・レートは過大に評価されている。図表2より、米国のドル、日本の円については、いずれも過小評価された状態にあることがわかる。ケインズの洞察が正しければ、ユーロ圏は最もデフレ・リスクの高い地域ということになる。
長期停滞リスク
アベノミクスの欧州経済にとっての第三の政策的意味合いは、米国、日本と同様に長期停滞のリスクがあることだ。日本もアベノミクスの成長戦略が失敗し、長期的な成長率がゼロ%近傍になる場合には、均衡実質金利がマイナスになるリスクがある。
また、ウィリアムズ・サンフランシスコ連銀総裁の試算によれば、米国も自然利子率(=事前の意味で投資と貯蓄がバランスする完全雇用の下での均衡実質金利)はマイナス領域にある。同様の手法で、日本、ユーロ圏でも自然利子率を計測した場合、いずれもマイナスと計測される可能性がある。
日本は、とりわけ2000年代以降、一人当たり実質GDPの水準と増加率を他国と比べた場合、実質GDP増加率が大きく下方に乖離している。これは、新古典派の成長理論における収束仮説(長期的には新興国や発展途上国は、最先進国の一人当たり実質GDP水準に追いついてゆく傾向があるとする仮説)からみると、日本が異端の国になっていることを示唆している。
なぜ日本が異端の国になったのか、複数の仮説が考えられる。人口急減と少子高齢化、バブル崩壊と97-98年の金融危機後のバランスシート調整、業務改革を伴わないIT革命の不徹底と人間の頭脳労働が機械の頭脳によって置き換えられる「第二の機械時代」におけるグローバルな技術革新の潮流からの遅れが挙げられる。
会場よりのコメント
地主敏樹神戸大学教授から、日本における5月以降のインフレ率の1.5%から1.1%への鈍化を説明する際に筆者が用いた「速度制限モデル」(インフレ率の加速・減速はGDPギャップの変動と輸入物価インフレ率の加速・減速で説明できるというモデル)の期待仮説があまりに静学的であるとのコメントを頂いた。
筆者も、1950年代の適応的期待仮説よりもトーマス・サージェント教授が活用している21世紀型の適応的期待のモデル(市場参加者は利用可能な情報をすべて活用し、回帰的な最小二乗法で最適な予測を行うモデル)を活用することが望ましいと考えていること、また、中央銀行の反応関数を明示的に取り入れることによって、そのパラメータ変化でレジーム転換を分析することが可能になると答えた。
また、会議参加者から、仮にインフレ率が1%を割る事態になった場合に、日本銀行は追加的な緩和措置をとるかどうかという質問があった。円安による交易条件の悪化(自国窮乏化効果)が景気後退要因を強化することを考慮すると、必ずしも望ましくないが、デフレ克服の目的に照らして追加緩和措置をとらざるを得ないのではないかと答えた。
オープン・イノベーションの重要性
最後に、長期停滞リスクに関連して、筆者は、第三の開国、女性の活躍とならんでオープン・イノベーションの重要性について触れたところ、会議の参加者から「日本のオープン・イノベーションについてかけ声だけ盛んだが、少しも進展していないのはなぜか」という質問があった。
日本は、経済開発協力機構(OECD)統計によれば、オープン・イノベーションにおいて世界で18位という低い順位にとどまっている(図表3)。日本が米国の一人当たり実質GDPのレベルに追いついてゆくためには、初期時点でまず収束経路へとジャンプし、それから米国の一人当たり実質GDP成長率をやや上回る成長を実現する必要がある。アベノミクスの成長戦略では、「ジャンプスタート」を2020年代までに実現できるかどうかが問われている。
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