自然失業率および自然利子率の低下と金融政策
2015/03/27
消費者物価上昇率はマイナス領域へ
生鮮食品を除く消費者物価は、消費税増税効果を除くベースで2月に前年比ゼロ%となった。日本経済研究センターは、2015年第2四半期から第3四半期にかけてマイナス領域に入ると予測している。
米国、英国でも総合消費者物価は2月にゼロ%の伸びとなった。ユーロ圏はすでにマイナス0.3%と3カ月連続してマイナス領域にある。エネルギーと食料を除くベースでは、日本の消費者物価上昇率は0.3%であり、米国ではプラス1.7%、英国、ユーロ圏ではそれぞれプラス1.2%、プラス0.7%だ。
もっとも、米国の場合、目標とする物価指数は、消費者物価ではなく、より包括的な個人消費デフレーターであり、しかもエネルギー・食料を除いたコア個人消費デフレーターを採用している。このコア個人消費デフレーターは、1月に1.3%の伸びを示しており、マイナス領域からかなりの距離がある。
もちろん、先進国における最近のインフレ率低下は、原油価格の下落によるところが大きい。しかし、経済の構造変化が、インフレ率の低下傾向を強めている可能性はないであろうか?
自然失業率の低下が金融政策運営に与える効果
先進国のなかで最も好調であり、デフレ・リスクから遠い米国の場合、気になるのは、経済が均衡状態にある場合の自然失業率(均衡失業率)が低下している可能性があることだ。米国では、失業率が5.5%と歴史的には完全雇用に近い状態にある。それにもかかわらず賃金の伸びは前年比2%程度であり、労働生産性の伸びは大きく低下し、2014年には前年比0.7%である。ついでながら、英国の労働生産性の伸びも、リーマン・ショック以降大きく低下し、前年比0.5%以下に低下している。
米国における経済が均衡状態にある場合の失業率は、これまで完全雇用の下での失業率に近いとされてきた5.5%を下回っている。ちなみに、連邦準備制度理事会(FRB)は、今年3月に長期の均衡失業率を5-5.2%へと引き下げている。経済にはGDPギャップがまだ3%程度残っていること、ならびに、失業率の低下に対する賃金、物価の反応の鈍さを考慮すると、均衡失業率の5%割れがあってもおかしくない。
リーマン・ショック以降の米国経済においては、労働市場に大きな構造変化があったために、GDPギャップの大きさと失業率の均衡水準からの乖離との間の安定した関係を示すオークンの法則は成立していない。仮に過去観察されたように1%の失業率低下が、GDPギャップを2%縮小させるとすれば(すなわち、オークン係数が2であるとすれば)、GDPギャップがゼロとなる均衡失業率は5.5%よりも1.5%低い4%になるはずだ。
仮に均衡失業率が5%を割っているとすれば、物価上昇率が2%に接近するには時間がかかることになる。このことは、金利引き上げのタイミングが予想よりも後ずれしやすいことを意味していよう。
さらに、FRBとイングランド銀行は、かつて、フォワード・ガイダンス政策の一環として、金融政策運営変化のタイミングを失業率とリンクさせたことがある。しかし、米国のみならず英国においても、失業率低下の速度が予想を上回るものであったために、結果は思わしいものではなかった。
このことは、中央銀行すらもリーマン・ショック以降の経済の真の構造パラメータである均衡失業率の値を知らなかったことを示唆していよう。
ミルトン・フリードマンは、1968年に米国経済学会の会長講演において、中央銀行は、その真の値を知らないにもかかわらず均衡失業率の達成を目指して金融政策運営を実行することが多いが、単に経済を不安定化させるだけだと論じた。インフレ目標政策は、この批判に答えるものであったとも解釈できよう。
自然利子率の低下が金融政策運営に与える効果
経済構造のもう一つの変化は、自然失業率に加えて、自然利子率(経済の需要と供給が均衡状態にある場合の実質金利)もマイナス領域に入っていることだ。
自然利子率についても、その真の値を計測することは決して容易ではない。しかし、ウィリアムズ・米サンフランシスコ連銀総裁が、2001年以降、定期的に米国の自然利子率を計測し、公表している。その最新版の計測によれば米国の自然利子率は2012年以降マイナスの領域に入っている(図1)。
ローレンス・サマーズ元米財務長官は、2013年11月に「長期停滞論」を展開し始めたが、その一つの証拠がマイナスの自然利子率であった。新古典派成長理論によれば、自然利子率(均衡実質利子率)がマイナスであれば、一人当たり実質消費の伸びはマイナスになっているはずだからだ。米国のみならずユーロ圏や英国ですら自然利子率がマイナス領域に陥っている可能性を排除できない。
仮に自然利子率がマイナスのまま推移すると仮定すると、インフレ期待が2%で安定している下では、名目政策金利(フェデラルファンド・レート)の上限は2%、実質政策金利の上限はゼロを意味するということになる。この事実は、米国における先行きの金利引き上げの上限とされる正常な金利水準は、米公開市場操作委員会(FOMC)のメンバーが予想している3.75%を相当下回ることを意味している。ちなみに、翌日物金利スワップレート(OIS)で観察される市場の予想する2017年末の名目政策金利は1.75%にすぎない。
かつて、筆者は、バーナンキ前FRB議長にウィリアムズ氏の計測結果であるマイナスの自然利子率について質問したことがある。答えは、簡明で「自然利子率がマイナスになっているのは、景気循環上のことであろう」とのことであった。しかし、先進国の長期実質利子率の動きを見ると1980年代初頭以降、低下傾向が持続しており、最近はゼロ近傍にある。あたかも、市場の長期実質利子率は、自然利子率に引き寄せられているかのように見える(図2)。
また、今年1月に野村財団・日本経済新聞社・ブルッキングス研究所主催の「東京グローバル経済フォーラム」で来日したマービン・キング前イングランド銀行総裁は、基調講演において「世界的な長期実質利子率の低下は、科学技術の進歩のスピードに照らしてみれば、いずれ上昇に向かうはずだ」と語っていた。
筆者もこの予測が正しいことを心から望むものであるが、先進国における傾向としての長期実質利子率低下がどのような原因によってもたらされているのか、その原因によっては、長期間にわたり自然利子率がマイナスで推移する可能性も決して排除できない。
日本の自然利子率は90年代半ばからマイナス
日本における消費者物価上昇率の低下が他国と異なるのは、まず、第一に、エネルギー・食料を除く消費者物価の上昇率が消費税の効果を除くと他国と比べてより低いことだ。第二に、日本は、過去20年近くデフレ状態が続いていたことだ。第三に、日本の自然利子率は、米国よりも早い時点でマイナスになっており、2014年の段階ではマイナス0.5%程度になっている可能性が高いことだ。ウィリアムズ・サンフランシスコ連銀総裁と同じ手法を用いて計測した日本の自然利子率は、1990年以降低下傾向を示し、97年以降マイナス領域にある(日経センター金融研究リポート2014-5「ゼロ金利の下で金融政策は有効だったか」2015年3月10日発表<会員限定>)(図3)。
日本銀行は1999年2月にゼロ金利政策を開始したが、私見によれば、日本経済はすでに1990年代半ばにデフレに入った後であった。市場金利にはゼロ金利制約があるので市場の実質利子率は、名目金利マイナス期待インフレ率と定義されるため、デフレ期待が定着した下では、マイナスになりえずにプラスとなる。自然利子率がマイナスになると、プラスの市場実質利子率を下回ることになる。100年も前にスウェーデンのヴィクセルが論じたように、自然利子率が市場実質利子率を下回ることになれば、デフレが持続し、デフレ脱却が困難になる。
デフレ脱却:3つの処方箋
デフレ脱却に処方箋は3つある、第一の処方箋は、名目利子率のゼロ制約を取り払いマイナスにすることによって、市場の実質利子率をマイナスにすることだ。第二の処方箋は、中央銀行が将来も超拡大的な金融政策の実施を約束することによって、人々の期待インフレ率を高めることだ。第三の処方箋は、経済の潜在成長率を高め、自然利子率をプラスの領域に引き戻し、高めることだ。
第一の処方箋は、スイス、スウェーデン、デンマークのみならず欧州中央銀行(ECB)によっても採用されている。ちなみに、ECBの当座預金および超過準備にはマイナス0.2%の金利が付されている。欧州中央銀行は、3月初めから国債の大規模購入を柱とする量的緩和政策を開始したが、マイナス0.2%までの国債の購入を認めている。しかし、購入額目標達成のために、マイナス幅を0.2%よりも広げる可能性もある。どこまで損失覚悟の国債購入が実施できるのか、中央銀行に対して損失リスクに関する説明責任を問う声が強まる可能性もある。
スイス、スウェーデン、デンマークでは政策金利すらマイナスである。民間の預金金利、住宅ローン金利にもマイナス金利が出現している。
究極的には、貨幣にもマイナス金利という事態もありえる。戦前にゲゼルは貨幣保有に対して毎年5.2%のマイナス金利を付けることを提言した。資本蓄積が利子率によって制約されることを重視したためである。ケインズは『一般理論』の23章で、ゲゼルを非マルクス社会主義者と見なしているが、マルクスよりもずっと洞察力のある経済学者であったと評価している。この高い評価は、市場利子率が投資の限界効率を上回る場合にその投資プロジェクトは実行されないというケインズの投資理論に合致していたからであろう。
第二の処方箋は、ポール・クルーグマンの1998年の「無責任な中央銀行論」に端を発している。クルーグマンは、日本経済は、人口減少によって先行き一人当たり実質消費の伸び率がマイナスになり、自然利子率もマイナスになっているとの事実認識から出発する。日本銀行は、15年間4%のインフレ目標政策を実現するよう金融政策運営を行なうと約束することで期待インフレ率を高め、名目市場利子率ゼロの下でも市場実質利子率をマイナス4%まで引き下げることで、市場実質利子率をマイナスとなった自然利子率よりも低い水準に保つことが可能になる。この結果、デフレ脱却が可能になるとの提案であった。
日本銀行の量的・質的緩和政策は、この第二の処方箋によるものである。量的・質的緩和政策が画期的であったのは、政策開始後に大幅な円安を通じたインフレ率の上昇もあって、市場実質利子率がマイナス1%程度となり、自然利子率を下回るようになったことだ。
この提案の問題点は、目標インフレ率が2年程度の期間内に達成されない場合には、インフレ期待醸成のために貨幣供給量(マネタリー・ベース)の増加率を加速していかなければならないことである。このことはさらなる追加緩和策は、10兆円以上マネタリー・ベースを拡大することが求められることを意味している。仮に原油価格低下が原因であるとしても、インフレ・スワップ・レートで観察される0.8%程度の期待インフレ率が0.5%以下に低下する場合には、市場実質利子率と自然利子率の大小関係が逆転するために、再びデフレ均衡に引き寄せられるリスクがある。
しかし、長期利子率のターム・プレミアム(リスク・プレミアム)がすでにマイナスになっていること、またマイナス利子率での国債購入に伴う損失リスク、民間銀行の担保としての国債需要の大きさなどを考慮すると制限のないマネタリー・ベースの拡大には限界があるように思われる。
第三の処方箋は、自然利子率がどのような要因によってマイナスになっているのかその原因を究明することから始まる。動学的確率的一般均衡モデル(DSGE)を用いた要因分析では、90年代後半以降の自然利子率のマイナス化には、生産からのショックが最も大きな影響を与えている。需要ショックの影響は大きなものではなかった。
DSGEモデルは一人当たりの変数で構成されているため、人口減少の効果そのものをモデル分析から導くことは出来ない。しかし、一定の仮定の下で人口減少の効果を計測することは可能だ。人口減少を考慮すると、自然利子率はマイナス1%程度まで低下する(日経センター金融研究リポート2014-5「ゼロ金利の下で金融政策は有効だったか」2015年3月10日発表<会員限定>)。
仮に少子高齢化を伴う人口減少が、労働投入増加率の減少に加え、家計貯蓄率の低下を通じて資本蓄積率をマイナスにするのみならず、全要素生産性(Total Factor Productivity:TFP)にもマイナスの影響を与えているとすれば(実証分析の結果によれば、生産年齢人口1%減少は、TFPを0.3%低下させる)、人口減少に歯止めをかけることが必要になる。また、TFPを高めるには「第二の機械時代」におけるイノベーションを促進するのみならず、経済・社会・政治の制度改革を進め、グローバル化した経済にふさわしい体制づくりを実現することが求められる。
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