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小峰隆夫の私が見てきた日本経済史

【新連載】タブー死すべし―ニクソン・ショック(上)

 

2013/09/24

 私は1969年に大学を卒業して経済企画庁(現内閣府)に入ってからというもの、今日に至るまで40年以上もの間日本経済を観察し続けてきた。今回から始まる新連載では、こうした私の経験を踏まえて、日本経済の歩みを辿り直してみたい。

 経済の歴史は因果応報の流れである。ある時点で起きた出来事が、次の時点での対応を変化させ、それがまた次の次の時点での経済を変化させる。ある時点で最善と考えて対応したことが、かえって次の時点での最悪のパフォーマンスを招いてしまうこともある。そして、ある時点で経済学的な議論を尽くさなかったことの咎が、次の時点で現れる。こういったことが経済には多く見られる。

 この連載では、こうした因果の系譜をたどってみたいと考えている。最初に取り上げるのは、ニクソン・ショックと円の切り上げである。

ニクソン・ショックとは何だったのか

 私が日本経済を観察し始めてから、日本経済は何度かの「大ショック」に見舞われている。その中で、最初に出会ったのがニクソン・ショックであった。

 ニクソン・ショックというのは、ニクソン米大統領が、1971年8月15日に新経済政策を発表したことを指す。この新政策で、ニクソン大統領は、①物価・賃金を90日間凍結する、②金とドルとの交換を停止し、輸入に10%の課徴金を課す、③各国通貨の調整を求めるというものだった。

 この決定は、突然やってきたという意味で全くのショックだった。もちろん当時のニュースでも最大級の扱いで報じられた。当時私は、経済白書を作る内国調査課(後に内国調査第一課)で2年目の役人生活を送っていた。私は、これが大ショックだということはすぐに分かったが、どんな意味でショックなのかは、にわかには良く分からなかった。今から振り返れば明瞭に分かる。これは、日本経済だけでなく世界経済にとっても大ショックだったのであり、しかもそれは起こるべくして起きたことであったのだ。

 世界的な観点から振り返ってみよう。第2次大戦後の世界経済はブレトン・ウッズ体制と呼ばれる国際通貨体制の下にあった。これは、米国が金1オンス=1ドルという金平価での兌換性を保持した上で、他の主要国は、そのドルに対して自国の為替平価を固定するというものだった。ニクソン・ショックはこのブレトン・ウッズ体制を終結させたわけだ。

 これも今となっては良く分かることなのだが、これにはそれなりの経済的背景があった。ブレトン・ウッズ体制は、二つの条件に支えられていた。一つは、米国の強大な経済力であり、もう一つが、米国の物価の安定である。この二つの条件が崩れてきたのである。

 第2次大戦後の世界経済では、米国の経済力が突出しており、その米国がいわば代表選手となって金兌換の担い手となっていた。しかし、ヨーロッパ諸国が復興し、日本の経済力も上がってきた。米国国内では次第にインフレが加速してきた。固定平価で物価が上昇すると、実質的に通貨が切り上げられたのと同じことになるから、米国の国際収支の赤字は拡大する。国際収支の赤字は対外資産の減少を意味し、金準備は減少していった。すると、ドルへの信認も揺らいでくる。

 こうした事態に対して、ニクソン政権は、物価・賃金の凍結で国内物価を安定化させ、金との兌換を停止することによって金準備の減少をストップさせようとし、同時にドルの過大評価を是正するために、各国通貨の調整を求めたのである。今から考えると、実にわかりやすい政策だったわけだ。

 この時、主要国は通貨調整を行って、一時的に固定レートに復帰するのだが、それも長続きせず、やがて変動レート制の世界に移行することになる。まさにパラダイム転換が起きたのである。

タブーだった「円切り上げ」

 では、日本にとってはどうだったか。日本も1949年以降1ドル=360円という固定レートでブレトン・ウッズ体制に組み込まれていた。その体制が崩れることは、日本中に大きな不安をもたらすことになった。これも今になってよく分かることなのだが、当時日本中が大きな不安に襲われたのには二つの理由が合った。

 一つは、1ドル=360円という固定レートの時代が終わることへの不安である。それまでは、「1ドルは360円」ということを全く疑わない時代が20年以上も続いていたのだから、「これからはそうではないよ」と言われても、どうしていいか分からず、不安でいっぱいという状態になってしまったのだ。

 もう一つは、円が切り上げられると輸出産業が大打撃を受け、経済成長の基盤が失われるという不安である。これは、今でも円高になると輸出産業が大打撃を受けるという条件反射的な反応が出ることを考えれば、当時多くの人がこれに倍する不安を覚えたことは容易に想像できるだろう。

 しかも当時は、「円の切り上げは何としても防ぐ」「円の切り上げというような事態はありえない」という考えが強かった。その一般常識が覆ったわけだから、ますます不安になったのである。

 とにかく政府は円の切り上げを避けようとしていた。その端的な表れが、1971年5月に策定された「円対策8項目(第1次円対策とも言われる)」である。これは、輸入自由化の推進、関税引き下げの促進、財政金融政策の機動的運営などを決めたものだ。「財政金融政策の機動的運営」とは、要するに、財政支出や金融緩和によって景気を刺激するというということである。つまり、円レートを維持しつつ当時増加しつつあった経常収支の黒字を減らすために、輸入を増やし、内需を拡大しようとしたのである。

 そしてニクソン・ショックの直後、主要国が外国為替市場を閉鎖した中で、日本は8月まで市場を開き続け、360円を維持するためにドルを買い続けた。これも円を防衛するという意識の表れであったのだろう。

 この時の通貨調整で、日本は1971年12月から1ドル=308円というレートで再び固定レートに復帰する。しかし依然として円高圧力は止まらず、第2次、第3次の円対策が打ち出されるということが繰り返された挙句、73年には日本を含めた主要国が変動相場制に移行し、円切り上げがタブーだった時代は終わりを告げることになる。

 この時の経験から私が学んだことは「経済論議にタブーは禁物だ」ということだった。なぜなら日本経済は、この円切り上げタブー視の強い副作用に苦しむことになったからだ。さらには、このタブーは当時の私の身の回りで大きな悲劇を生むことにもなったのだ。

※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。