タブー死すべし ニクソン・ショック(中)~「誤った政策割り当て」導く
2013/10/21
前回述べたように、ニクソン・ショックが起きる前の段階で、円レートを切り上げるという議論はタブーであった。「ニクソン・ショックの前の段階」だけではない。円レートが1ドル=258円に切り上げられると、今度はこの258円を必死に防衛しようとしたから、タブー状態はさらに続いた。当時、政府は全部で3回の「円防衛のための経済対策」を決定しているのだが、そのうちの2回は、円が258円に切り上げられてから決定したものである。
固定レート制時代の経済政策運営
この「円切り上げタブー視」によって、日本経済は、本来払わないでも済んだ大きなコストを払うことになった。これは、今から考えると、円レートを変えるという政策手段をタブー視したために、誤った政策割り当てを行ってしまったのだと解釈できる。
すなわち、1960年代頃までの日本経済は、固定レートの下で国際収支の天井をメルクマールとして、経済政策を運営してきた。それはこういうことだ。景気が過熱してくると、輸入が増えて国際収支の赤字が増える。赤字が増えるとドルの需要が増えるが、固定レートを維持するためには、外貨準備を取り崩してドルを供給する必要がある。外貨準備が減ってくると、これが枯渇するのを防ぐために、政策的に引き締め政策を講じて、景気の過熱を抑える必要が出てくる。こうして結果的に経済政策は円滑に運営されてきた。
こうした政策がうまくいった一つの理由は、経済政策の運営がいわば「自動的化」されていたため、結果的に政治的な介入を排除できたことだ。「政治的な介入を許すと、必要な金融引き締めが遅れてしまうから、日銀の中立性を維持しておく必要がある」というのが現代的な政策論だが、当時はこうした配慮は不要であった。「外貨準備が枯渇してしまう」という議論の前では、政治家も産業界も引き締めに反対することなどできなかったからだ。
しかし、今にして思えば、これは円レートが実勢に近く、経常収支の変化はほぼ循環的な変化だったという大変幸運な時代だったからだ。60年代に入って、この幸運な条件が崩れてくる。アメリカの物価上昇率が高まり、ドルが過大評価、円が過小評価になってくると、景気循環を超えて構造的に経常収支の黒字が増えてくる。こうした構造的な経常収支不均衡に対しては、為替レートを変更(切り上げ)するしかないというのがオーソドックスな政策割り当てである。
当時もあったまともな議論
タブー視されていたとはいえまともな議論もあった。昔のことなので十分探すことが出来なかったのだが、例えば、海外の論説では、日本の金・外貨準備の急増(国際収支の黒字)は基礎的不均衡によるものなのだから(構造要因に基づくものなのだから)、これを是正するためには円の切り上げが当然だという指摘が多かったようだ。海外から日本を見た場合には、変なしがらみがないので、オーソドックスで自然な議論ができるということだろう。しかし、当時の日本国内では、これは要するに日本に輸入の自由化を迫るためのジェスチャーだと受け取られていたようだ。
日本国内でも多くの議論があった。金森久雄氏は「戦後の経済論争」(日本経済研究センター会報2004年11月号)で、(1971年当時)高橋亀吉氏や下村治氏は円切り上げ反対であり、篠原三代平氏は自由変動相場制を主張したと紹介している。私が探した範囲でも、新開陽一氏が「所得分配、資源配分の問題には、財政政策、経済の安定には金融政策を使いたい。とすると、国際収支の調整には為替相場しか残らない」(1970年、週刊東洋経済)と主張している。現在の視点から見ると、篠原氏や新開氏の主張はもっともに見えるのだが、当時の日本では、円を切り上げたら輸出産業が大打撃を受けるという議論が圧倒的に支配的で、自ら円を切り上げるなどという政策は一顧だにされなかった。
1971年7月には、小宮隆太郎氏を中心とする近代経済学者グループが「円レートの小刻み調整について」という政策提言を発表した。いわゆるクローリング・ペッグ制の提案である。理論的に望ましいとされる変動相場制と、極めて強い円切り上げ拒否論の中間を行こうとしたものだと言えるだろう。
当時の誤った政策割り当てとは
では、当時の議論は、切り上げに変わってどんな政策を割り当てようとしたのか。
第1は、政策的に輸入をプッシュすることだ。71年6月に決まった「8項目の国際収支対策」をはじめとする円高防止策では、「輸入の自由化」「特恵関税の早期実施」「関税率引き下げ」「非関税障壁の撤廃」などの対応が並んでいる。しかし、これらの政策は、長期的な市場開放策として実施されるべきものであり、これを国際収支不均衡の是正策として割り当てのるは誤りである。これらの政策は「国際収支が黒字になったから実施して、赤字になったら元に戻す」というわけには行かないものだからだ。
日本の政策決定は、各省庁の政策を寄せ集めパッケージとして決定されることが多いため、短期的な当面の政策と長期的・構造的な政策が混在することが多い。これは、その後も続く日本的政策決定の悪癖と言えるだろう。
第2は、景気を刺激することだ。景気が良くなって、経済活動が活発化すれば、輸入が増えて国際収支の黒字が減り、円高圧力も減殺されるはずだという理屈である。それまで「国際収支が赤字になると、景気拡大にストップをかける」という政策を繰り返してきたわけだから、「景気を拡大させて黒字を減らす」というのは、自然な発想であったのだろう。これも現代の目から見ると、「国際収支のために景気を操作するのは、尻尾が犬を振るようなもので、誤った政策割り当てだ」ということになる。
特に、円が258円に切り上げられた後は、何としても再切り上げを阻止すべきだという考えが強まり、72年10月には公共投資の追加を主体とした大型補正予算が決定するなど、相次いで景気刺激策が取られている。これは、もともと「国際収支不均衡を是正するために景気刺激を」という考えが根強い中で、実際に円の切り上げが起きたため、「輸出産業が苦しい」という声がこれに加わったためだと考えられる。円レートが切り上げられた直後のテレビ番組で、某評論家は「360円レート放棄は、北海道を失うほどの損失」と発言したというのだから、当時の人々が円切り上げをいかに恐怖していたかが分かる。
第3は、実際に採用されるには至らなかったが、調整インフレ論、すなわち人為的に物価上昇率を高めることで、円高圧力を回避しようという政策だ。日本銀行『日本銀行百年史』(1986年)は、「拡大均衡論の高まりを背景に、調整インフレ論が急速に台頭した」とし、当時の田中首相も記者会見で「(円の)再切り上げには中小企業などはとても対応できぬという体制が現状であり、国内政策を行うべきだ。これまでは積極的な政策を取れば物価が上がるからいけないということで、国内政策が中途半端だった…」と述べたことを紹介している。
結局、政府の再切り上げ回避努力をもってしても国際収支の不均衡と円切り上げ圧力を回避することはできず、73年2月に円は変動制に移行した。そして、円切り上げをタブー視する議論は雲散霧消することになる。
円切り上げを恐怖したことは、円の切り上げという政策をタブー視することにつながり、誤った政策割り当てをもたらした。その結果、国民はその後のインフレという形で大きなコストを支払うことになる。
以上が日本経済全体についてのマクロ的な議論だが、円切り上げをタブー視したことは、私の身の回りでミクロ的にも大きな悲劇を生むことになった。私が「経済の議論にタブーは禁物だ」と強く考えるようになったのは、次回述べるこのミクロレベルの経験が大きく影響している。
※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。バックナンバー
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