タブー死すべし ニクソン・ショック(下)~悲劇の経済白書
2013/11/20
前回までで述べてきたように、ニクソン・ショックの前後において円レート切り上げ論議をタブー視したことは、その後の日本経済に大きなコストを強いることになった。しかし私がこの時、心から「タブーは恐ろしい」と思ったのは、私自身の身の回りで、タブーを原因とする大きな悲劇を目の当たりにしたからだ。
1971年の経済白書
私は1969年経済企画庁に入り、内国調査課に配属された。経済白書を取りまとめる課である。入った時にはその年の経済白書は完成していたので、私が実際にタッチした白書は、1970年と71年の白書である。
問題となったのは71年の白書だった。当時、政府は円の切り上げを避けるための対策を講じていたくらいだから、政策として円を切り上げることはありえないというのが公式見解だった。しかし、さすがに経済企画庁では「そうはいっても、もし円が切り上げられたら日本経済にはどんな影響が及ぶのか」という問題意識はあったし、実際に作業もした。仮に円が切り上げられた場合、貿易、物価、産業などにどんな影響が及ぶのかを秘密裏に分析したのである。
この作業には、私自身も議論に参加した記憶がある。例えば、円が切り上げられると輸出入にどう影響するかを分析するため、相対価格要因を含む輸出入関数を推計する。次に、円が切り上げられた時に相対価格がどの程度変化するかを計算し、それを最初に推計しておいた推計式に入れれば、輸出入への影響を計算することができる。典型的な部分均衡型の分析だが、当時はこの程度の分析で十分最先端的であった。ただし、日本はそれまで固定レート制だったから、レートの変化で輸出入価格が変動した例はない。「レート以外の要因による輸出入価格変化から推定されたパラメーターを、レートの変化にそのまま適用していいものだろうか」といった議論を盛んに行なった覚えがある。
ただし、71年の経済白書では円切り上げにつながるような記述は全くなかった。この時の白書は、内野達郎氏(故人、その後上智大学教授)が課長で香西泰氏(後に、東京工業大学教授、日本経済研究センター理事長・会長)が課長補佐であった。この時の白書のメインテーマは「都市問題」であった。
「円」を削る作業とその帰結
この白書は、文字通り「円切り上げ論議はタブー」を絵にかいたような白書となった。当然、白書の執筆者たちは、円をめぐる問題を知っており、原案ではそれを匂わせるような記述もあったのだが、各方面から猛烈な横やりが入った。それは「日本政府は円を切り上げるべきではないという基本方針を貫いている。しかるに政府の白書が、切り上げを検討しているようなことを書いたら、海外から日本政府は本当は切り上げやむなしと思っているのではないか、と言われてしまう。絶対に白書で円切り上げにつながる議論をすべきではない」という理屈であった。
こうした横やりが入った結果、白書から「円」という言葉をすべて抹殺するという悲しい作業が行われた。その作業を指揮したのが香西泰氏であった。そして白書が発表された直後にニクソン・ショックが来た。すると、「これだけの大問題をなぜ白書は扱っていないのか」という批判が山のように出た。
白書とりまとめ課長だった内野達郎氏は、この白書の不評を終生悔やんだ。内野氏にとってはこの白書が最後の白書となったので、名誉挽回のチャンスは二度となかった。こうして書くのも心苦しいほどだが、内野氏にはその後も悲劇が続いた。内野氏は内国調査課長の後、秘書課長となったのだが、この時、国会対応をめぐって野党議員を怒らせてしまい、当時の企画庁長官が、予定されていた内野氏の研究所長への昇進を数カ月ストップさせるという出来事があった。この間、内野氏は自宅待機を強いられたのだが、当時私自身、内野氏が「いやー、平日家にいると、近所の人が奇妙な目で見るので困るよ」と述懐するのを聞いたことがある。
悲劇はまだ続く。内野氏は退官後上智大学の教授となるのだが、ある日駅の階段から転落し、半身不随となって入院してしまった。その入院期間が長引くにつれて、治療費が相当かさんでいるようだという声が聞こえ始め、有志が募金運動を始めた。その先頭に立ったのは香西氏であった。そして内野氏はそのまま入院先で亡くなることになる。
円切り上げタブー論と悲劇の経済白書の実相
以上が私の知る悲劇の経済白書の物語である。これに加えて、今回本稿をまとめるに当たって、いくつか資料を当たっていく中で、さらに興味深い事実が出てきたので、紹介しておきたい。
まず、当時経済企画庁内でニクソン・ショックがどう受け止められていたかについてなのだが、本稿をまとめるに際して、ネット検索をしていたら、偶然、先輩の日記形式のブログを発見した。これがなかなか興味深いのだが、例えば、ニクソン・ショック当時の8月16日には、次のような記述がある。
「ニクソンが、金交換停止、輸入課徴金10%、賃金物価凍結など8項目のドル防衛策を発表した。これは先月の中共訪問発表にも劣らないほどの大ショックだ。企画庁もあわてて幹部会を開いたが、何を言い合ってもどう仕様もない。(中略)この状況下で世界中の為替市場が閉鎖されたが、日本は殺到するドルの売り物を今日だけで4億ドルも買い支えた。ここでドルを買うことは、値下がりの決まった株を買うのと同じだ。こんなにまでして360円レートを維持しようとすることに、一体どんな意味があるのか」
また、8月20日の記述は次のようなものだ。「午後所長室で研究会。所長が変動レート論をぶちまくるのに対して、香西と宮本が円を切り上げたら大変なことになると言って反対する」。ここで言っている「所長」というのは当時経済研究所長だった篠原三代平氏のことであり、「宮本」というのは、後に海外経済白書を担当したりする宮本邦男氏のことだ。
これを見ると、当時政府内でも、ニクソン・ショックの後には外為市場を閉じて、円をフロートさせるべきだという考えがごく常識的な議論として存在したことが分かる。また、変動レート制論者として有名だった篠原氏が、企画庁の中でも堂々と変動レートを主張していたことも分かる。
さらに、本棚を漁っていたら、岸宣仁氏の『経済白書物語』(1999年、文芸春秋社)が出てきた。これは前読売新聞記者だった岸氏が、経済白書の執筆者にややマニアックなほどの取材を行ってまとめたもので、私自身もインタビューを受け、本書のなかに登場する。この中で、当時、円切り上げ論がいかにタブーであったかを示すエピソードとして次のような話が収められている。
それは、経済企画庁調査局長を最後に退官した宍戸寿雄氏(「転形期論」で有名な伝説のエコノミスト)の経験だ。同氏は、退官後日興リサーチセンターの理事長をしていたのだが、71年1月にニューヨークで講演し「政府は円切り上げはできないと言っているが、結局切り上げになるかもしれない」と持論を述べた。すると、帰国後、大蔵省国際金融局の幹部から「ああいうことを言われては困る」という電話があった。宍戸氏は「でも、私はもう役人を辞めたんですよ」と言うと、この幹部は執拗に「でも年金をもらっているじゃないですか」と食い下がってきたという。当時、いかに政府当局者が幅広く「円切り上げ」論議の口封じをしていたかがうかがえる。
岸氏の著作は、前述の香西氏が円という言葉を削ったことについても、関係者への幅広い取材に基づいて、詳細に記述している。それによると、当時調査局長だった小島英敏氏(後に企画庁次官、本年死去。なお全くの余談だが、私の結婚式で仲人を務めていただいた方でもある)が、香西氏に命じて、円切り上げ論を封印させたのだという。課長であった内野氏は、円切り上げ問題を取り上げたいと考え、白書の原案にはある程度の記述があったのだが、それを香西氏が次々に削って行ったことになっている。
この話が本当だとすれば、その後、内野氏がこの時の白書を人一倍悔やみ、香西氏もまた人一倍責任を感じたであろうことは想像に難くない。岸氏とのインタビューの最後に、香西氏は「経済白書を貶めたのは、この私かもしれない」と述べたとされている。
本書が刊行された時、私も含めて、企画庁内でも多くの人がこれを読んだ。そして、香西氏がこうして自らの行動を恥じたことは、香西氏の人柄と能力、当時のやむを得ない事情を知る多くの人々の胸を痛めた。後に私の後に経済白書を書くことになるS氏はある時「小峰さん、香西さんのあの文章を見ましたか。私はあれを見て涙が出ましたよ」と言った。私も同じように悲しい気持ちになったものだ。
その代わりと言っては何だが、翌1972年度の経済白書は、次のように書いている。それは「平価固定に執着して物価の上昇や内外資源配分のゆがみを放置することは福祉向上の見地からも避けねばならない」とし、「必要な場合には為替政策の活用の可能性も検討されるべきである」と結んでいる。仮にこの文章が(ありえないことではあるが)、71年度白書にあったら、71年白書は高い先見性を持った白書として歴史に残ることになっただろう。
今に生きる白書の教訓
何がこのタブーを生んだのであろうか。香西氏は次のように書いている(『高度成長の時代』、196ページ)。「円切り上げ回避は輸出企業群という強力な圧力団体によって支持された。そして野党も労働組合も新聞も、この点にそれほどの相違はなかった。為替市場は噂だけで変動する。円切り上げを声高に論じて不測の波瀾を招き国賊扱いされることは誰しもおそれた。就任早々の閣僚は、質問を受けて、円切り上げの要なしと即座にきっぱりと否定しなければならなかった」。
すなわち、「議論すること自体が経済を動かし、マイナスの影響を及ぼしてしまう」という理屈である。考えてみると、同じような理屈は、その後も繰り返し登場している。例えば、バブル崩壊後、金融機関の不良債権問題が登場し始めた頃には、「銀行の不良債権がいかに大きいかを議論すると、それによって信用不安を招きかねない」とされた。また、原子力発電所の立地を進めている時には「原子力発電所に事故があったらどうするかという議論をすると、安全性が疑われ、原子力発電所が立地できなくなる」と言われたものだ。
現在であれば、金融政策の出口論や財政破綻問題が同じかもしれない。「物価が上がったときのことを心配していては、せっかく盛り上がりかけてきた将来の明るい期待に水を差すことになる」「財政破綻の議論をすると、国民の不安を増幅させ、マーケットに悪影響がある」という議論があるからだ。
タブーは死すべきだ。しかし、タブーは依然として生きているのである。
※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。バックナンバー
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