一覧へ戻る
小峰隆夫の私が見てきた日本経済史

石油危機(1) 枕詞を疑う

 

2013/12/20

 今回から取り上げるのは「石油危機(または石油ショック)」である。振り返ってみると、この石油危機は、戦後の経済的ショックの中でも超大型のショックであった。それは日本経済にとっても、私にとっても非常に重要な意味を持つことになる出来事であった。

石油危機とは何だったのか

 まず、石油危機とは何だったのかを整理しておこう。

 1973年10月、第4次中東戦争が勃発する中で、アラブ諸国は石油の生産削減と輸出の停止を決定し、石油価格を一挙に4倍に引き上げた(1バレル=3ドル弱から12ドル以上へ)。これが第1次石油危機である。それまで安価・大量に供給されてきた石油は、経済の血液ともいうべきものとなっていた。その石油に供給不安が生じ、価格が急騰したため、日本経済は大混乱に陥った。

 この時の経済的な混乱は「トリレンマ(三重苦)」と呼ばれた。

 トリレンマの第1は、経済成長率の低下である。74年の経済成長率(実質)は戦後初めてマイナスとなった(マイナス1.2%)。要するに景気が悪化したということである。ちなみに、事後的に設定された景気の山は73年11月となっており、石油危機を契機として景気が悪化したことを示している。

 第2は、物価の上昇である。石油価格が上昇すれば、ガソリンをはじめとして石油関連製品の価格が上昇する。74年12月に副総理・経済企画庁長官となった福田赳夫氏は、当時の物価を「狂乱物価」と呼んだ。事実、74年の消費者物価上昇率は実に23.2%であった。これは終戦直後の混乱期を除けば、平時としては最も高い物価上昇率であった。

 第3は、国際収支の赤字化である。石油は経済にとっての必需品だから、価格が上昇したからといって短期的には使用量を減らせない(需要の価格弾力性が小さい)。したがって、石油危機後は石油の輸入金額が急増し、貿易収支、経常収支が赤字化した。74年の経常収支は、1兆3000億円(名目GDPの1.0%)の赤字となった。これも戦後最大の国際収支赤字であった。

 要するに、第1次石油危機直後の日本経済は、成長率、物価、国際収支いずれもが戦後最悪の状態となったのである。

 実際の国民生活という点で多くの人々の記憶に残ったのは、「買い溜め騒ぎ」であろう。国内で物価上昇、石油制約の顕在化が進む中で、トイレットペーパー、砂糖などの一部生活必需品が品薄となった。パニックに陥った消費者は一斉に買い溜めに走ったため、ますます店頭から品物がなくなってしまったのだ。

 次いで、78年に第2次石油危機が起きた。同年秋、イラン革命によってパーレビ王朝が崩壊し、これによってイランの石油輸出(世界の石油生産の約10%)が2カ月にわたってストップした。これを契機にOPEC諸国は再び原油価格を引き上げ、78年11月にはバレル=12.7ドルだった基準原油価格は、段階的に引き上げられ、81年10月には34ドルとなった。

 この第2次石油危機により、日本経済は再び前述のトリレンマ的な状況になったのだが、その程度は第1次のときよりはずっと小さかった。第1に、景気が悪化した(景気の谷は80年2月)のだが、成長率は80年に2.8%にやや低下した程度であった。第2に、物価も上昇したのだが、そのピークは80年の7.7%程度であった。第3に、国際収支も赤字となったが(経常収支赤字の名目GDP比率は、79年0.9%、80年1.1%)、81年以降はむしろ黒字幅が拡大していった。

 このように第2次石油危機の影響が比較的軽微で済んだ理由としては、石油価格の上昇率そのものが第2次の方が小さかったこと、第1次石油危機前は国内経済が既に加熱状態だったことなどがあるが、「学習効果」の存在も指摘されている。これは簡単に説明すると次のようなことである。第1次石油危機の時には、消費者物価が上昇したことを受けて、名目賃金も上昇した(74年の1人当たり現金給与総額は27.2%も増加)。これによって「輸入インフレ」は「ホームメードインフレ」に転化し、企業収益が低迷した。このため、石油価格上昇の経済的影響がいつまでも残り続けることになった。これに対して、第2次石油危機後は、賃金が物価にスライドして上昇しなかった(79~81年の賃金は5~6%増で、ほとんど変化していない)。このため石油価格上昇の経済的影響をより軽微でかつ短期に収束することができたというわけである。

 危機に対する適応力が十二分に発揮された例だったと言えるだろう。

石油危機が変えた日本経済

 以上のような2次にわたる石油危機は、その後の日本経済を大きく変えることになった。その代表的なものが、成長率の屈折である。50年代後半以降の日本経済は、いわゆる高度成長の時代で、平均成長率は10%近かったのだが、第1次石油危機後の74~90年は、平均4.1%と成長率が半減してしまった。明らかに日本経済は石油危機を契機として、高度成長の時代に終わりを告げたのである。

 さて問題はこの「石油危機を機に高度成長が終わった」という言い方である。私は、これは「枕詞」だと考えている。「枕詞」というのは、本題に入る前に何気なく発する言葉で、特に深く考えることなく使ってしまうような言葉である。この「枕詞」に誤りが結構多いというのが私の考えだ。私は、今年『日本経済論の罪と罰』という変わったタイトルの本を出しているが、この本では、こうした意味での「枕詞」の誤りをいくつか追求している。

 高度成長が石油危機の時に終わったということは正しい。しかしそれは、「石油危機が原因で高度成長が終わった」というわけではない。このあたりは、私が毎年大学で講じている日本経済論の大きなテーマでもある。私の説明は次のようなものだ。

 しばしば、「石油危機に象徴されるように資源の制約が顕在化したことによって高度成長は終わりを告げた」と言われる。しかしこれは次のような意味で誤りである。

 第1に、石油資源の量的な制約はほとんどなかった。第1次石油危機の直後を除けば、代金さえ払えば石油はいくらでも買えたからだ。確かに、第1次、第2次石油危機の後には景気は悪くなった。これは、量が足りなくなったのではなく、価格が上がったからだ。石油の輸入価格が上昇すると、交易条件が悪化する。すると、日本は必ず貧しくなる。石油価格の上昇分を最終価格に転嫁できなければ、企業収益が悪化する。これは付加価値の減少を意味する。一方、最終価格に転嫁されれば、今度は家計の実質所得が減る。いずれにせよ景気が悪くなるのは避けられない。しかしこれは一時的なショックによるものだから、価格上昇の影響が一巡すると、景気の悪化も収まる。つまり、石油価格が上昇し続けない限り、石油価格の上昇によって、長期的に成長率が下方シフトすることはない。

 第2に、その後、石油の実質価格は、高度成長期並みのレベルに戻っている。普通、石油価格はドルベースで議論されることが多い。ドルベースで見た場合、確かに石油価格は第1次石油危機で4倍となり、第2次石油危機でさらに2倍となった。しかし、日本の企業・家計に意味があるのは円ベースの価格である。さらに、経済的に意味があるのは実質価格である。石油以外の財貨・サービスの価格が石油と同じように上昇していれば、石油価格は実質的に上昇しなかったのと同じになるからだ。そこで、消費者物価で実質化した円ベースの石油輸入価格の変化を見ると、85年から2000年前後まで、石油の実質価格は高度成長期とほとんど同じとなるまで低下している。もし、石油価格の上昇が高度成長を終わらせたのであれば、石油価格の低下は再び高度成長をもたらすはずだ。そうならなかったということは、石油価格の上昇が高度成長を終わらせたわけではないということである。

 では何が高度成長を終わらせたのか。この点は本稿の主題ではないので詳しくは論じないが、もともと70年代半ば頃の日本は、キャッチアップが終わり、労働、資本、技術などの面で高度成長が限界に達しつつあった。だから、石油価格が再び元に戻っても高度成長が復活することはなかったのだ。キャッチアップの終了が成長率屈折の本当の原因であり、石油危機はその一つのきっかけだったに過ぎないというのが私の考えである。

※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。