石油危機(2) 問題は「量」か「価格」か
2014/01/20
間違いだった当初の悲観論
前回述べたように、石油危機はそれまでの高度成長の幕を引くという役割を果たした。同時に、石油危機は、その後に続く新時代の幕を開けるという役割を果たしたともいえる。石油危機の直後、日本経済の先行きについては悲観的な見方が圧倒的に支配していた。日本経済は安い石油をどしどし海外から輸入し、これを主要なエネルギー源として産業活動、国民生活を営んできた。その石油が供給不足になり、価格が一気に4倍になったわけだから、誰が考えても日本経済の将来を不安視するのは当然であった。
ところが、その後の日本経済は、二次にわたる石油危機を経て、省エネルギー体質、高付加価値体質の経済に生まれ変わった。その後は強い経済が、輸出を伸ばし、経常収支の黒字を拡大させ、それが円高や経済摩擦をもたらすことになる。それはひいては「円高不況を防ぎ、内需拡大で経常収支の黒字を減らす」という政策を推進することとなり、それがその後の大バブル経済の素地となった。
経済界のムードは、石油危機後の「悲観論・日本経済ダメ論」から次第に「楽観論・日本経済黄金時代論」へと変化していった。では当初の悲観論はどこで計算間違いを犯していたのだろうか。私は、市場と価格の力を過小評価していたことがそれだと考えている。
石油危機の発生後、石油問題は圧倒的に「量」の問題としてとらえられていた。石油輸出国機構(OPEC)が石油の輸出量・生産量を減らした。石油がなければ生産活動はストップしてしまうし、ガソリンや灯油がなければ国民生活も大混乱に陥る。ここから二つの対応が登場した。一つは輸入量の確保であり、もう一つは国内での石油の節約である。輸入はもともと足りないものを買ってこようとするわけだから簡単ではないし、節約というのも「石油を買って使いたい」と考える人に「買うな、使うな」と言うわけだから、これまた難しいのは当然だ。
それでも需給は逼迫し、国内の石油関連製品価格が上昇するのは避けられない。この「価格問題」について当初採用されたアプローチは、政府が価格形成プロセスに介入して価格の上昇を抑えようというものであった。しかし、「輸入品の値段が上がってしまったのだから、製品価格を上げたい」という企業に、「価格を上げるな」と働きかけるのは当然ながら難しいことだ。
すると、量は足りず、価格は上がり、一大経済問題になっているにもかかわらず、それに対する政策手段は極めて限られているということになる。絶望的になるのも無理はない。
ところが、コントロールしたくてもできなかったエネルギー価格の上昇というシグナルに応えて、企業は、高エネルギー価格の下でも生き残れるよう、必死に対応した。その結果石油の消費は減り、付加価値力は高まった。多くの人が意識していなかった市場の力・価格メカニズムの力が日本経済を救ったのだ。その市場と価格の力が発揮されるにつれて、経済は元気になり、経済界の自信も復活していったのである。
輸入量を確保せよ
前述のように、石油危機直後の日本にとって最優先の課題は、石油の輸入量を確保することであった。
石油輸入の動きを整理しておこう(以下、統計は日本エネルギー経済研究所「エネルギー・経済統計要覧」による)。まず、石油輸入の総量は、1965年には8800万リットルだったものが、石油危機発生時の1973年には2億8900万リットルへと、8年間で3.3倍もの増加を示している。この間、実質GDPは約2倍になっているから、日本が石油を大量に消費しながら高い成長を実現してきたことが分かる。
この石油と経済成長の関係を延長して考えるとどうなるだろうか。石油需要の伸びと成長率の関係はしばしば「弾性値」と呼ばれる。この数値例でいくと、弾性値は1.65である。つまり、経済が1%成長すると、石油消費は1.65%増えるということだ。この関係が固定的だとすると、石油輸入量が10%減ると、GDPのレベルは16.5%も低下するというとんでもない話になる。
しかも、その石油輸入の大部分は中東からのものである。1973年時点での全石油輸入に占める中東からの輸入比率は77.5%である。こうして考えてくると、いかに中東からの石油を確保することが重要だったかが分かるだろう。
この間の石油消費をめぐるエピソードとして、関係者の間で語り草となっているのが、1979年6月に開催された東京サミットである。このサミットでは、当然ながら、石油危機後の経済危機をいかにして乗り切るかということが主要なテーマであった。この会議の冒頭で、フランスのジスカール・デスタン大統領は「先進7カ国の石油輸入量を1978年の実績以下にする」という提案を行った。日本はこれに反対したのだが、他の国は賛成に回り、日本は孤立無援となった。
なぜ日本は反対したのか。当時日本では「新経済社会7カ年計画」という経済計画を策定中だったのだが、そこで想定されていた石油輸入量は1日当たり700万バレルという水準だった。ところが、フランスの提案を適用すると、輸入量は540万バレルにしかならない。これでは経済は石油不足で大変なことになると考えたのだ。
当時の大平総理は、何とか石油を確保しようと必死に粘った。「日本はまだ若く、これから成長する国なのだから、他の国々と同じように石油消費を抑えるべきではない」「これまでさんざん節約努力をしたので、これ以上の節約はとても無理」などの理屈をならべて頑張ったようだ。総理は、石油のことが心配で、首脳たちとの昼食会の席でも、食事どころではなかったと述懐している。この頑張りが功を奏して、結局、日本については630万~690万バレルで何とか合意した。
では、その後の現実はどう推移したか。前述のように、第1次石油危機直前の1973年の輸入量は2億8900万リットルであった。これが東京サミット当時(1979年)には、2億7700万リットルに減っている。大平総理が強調したように、「日本は必死に節約した」からである。ところがその後も、日本の石油輸入量は減少を続け、1985年には1億9700万リットルとなった。なんと29%も減ったのだ。大平総理はサミットで食事が喉を通らないほど悩む必要はなかったことになる
価格をコントロールせよ
では、価格についてはどうだったか。特に第1次石油危機の直後は、「輸入価格が上がったのだから、消費者物価がその分上がるのは当然」という考え方は皆無で、企業の買い占めや売り惜しみが物価上昇の原因だという考えが非常に強かった。石油危機直後、日本のある石油元売り会社の内部文書に「今回の値上がりは千載一遇のチャンスだから、この機会を利用して稼げ」というものがあったことが明らかになり、大騒ぎになったことも影響していたかもしれない。
すると、必然的に物価上昇を抑えるための政策は、企業行動を取り締まればいいということになる。その極めつけが「物価統制令」を適用しようという考えである。
この「物価統制令」は1946年に制定されたカタカナの法律である。例えば、価格を統制できるとする条文は、「価格等ニ付‥統制額アルトキハ価格等ハ其ノ統制額ヲ超エテ之ヲ契約シ、支払ヒ又ハ受領スルコトヲ得ズ(第三条)」となっている。三橋規宏、内田茂男「昭和経済史(下)」(日経文庫、1994年)にこの時の記述がある(24ページ)。これによると、1973年11月20日、首相官邸で開かれた緊急石油対策本部の会合で、物価統制令の適用を求める声が噴出した。この時、自民党の椎名悦三郎副総裁が突然、ぼそぼそと次のように述べたという。
「私も、戦争中、商工省で統制経済をやった男だから言うけれども、統制はやっていくうちに、あれもしなければならない、これもしなければならないと一波万波になって、最後には植木鉢の値段まで統制することになる」
これで満場爆笑となり、物価統制はお流れになったということだ。椎名氏は偉い。もし一部の物価を統制したら、必ず抜け道が現れて、関連分野の価格も統制せざるを得なくなり、日本全体が統制経済に逆戻りしたかもしれない。椎名氏の機転がそれを救ったことになる。
なお、以下は余談だが、物価統制令の文言を見て、「何だ、その使うはずのない法律は」と思う人が多いだろうが、なんと、この法律は今もなお現役の生きた法律である。生きているどころか、なんとなんと、今も適用されているのだ。唯一、銭湯の入浴料金がそれだ。
ではなぜ銭湯の料金を統制しているのか。厚生労働省の説明は、日本にはまだ自宅に風呂のない低所得者がいるので、その人たちのために料金を抑制しているというのだ。あまりにもシンプルな理屈で言葉もないが、低所得者にとっての「実態より安い銭湯料金」という既得権益が規制によって守られているわけだ。
ところで、さらに余談になるが、これは大変興味深い問題である。というのは、通常、規制は生産者の利益を守る場合が多く、生活者(消費者)の利益が守られるケースは少ないからだ。普通、規制の撤廃による消費者の利益は広く薄くばらまかれるのに対して、生産者の不利益は狭く厚く配分されるので、生産者の不利益の方が政治的に吸収されやすくなるためだ。
この問題については、ちょうど本年1月に日本経済新聞「やさしい経済学」で取り上げられている(加藤創太「民主主義の合理性」)。加藤氏は、次のような例を挙げている。今、ある保護政策によって消費者が10億円の損を被っているとする。これを提供する産業の従事者は1万人、消費者の数は1億人とする。影響の大きさを1人当たりで見ると、産業従事者は10万円、消費者は10円である。利益の大きさからして、産業関係者は保護策を守ろうとして熱心に政治に働きかける。一方、消費者は10円のために政治行動を起こそうとはしない。こうして少数派が力を持つことになるというわけだ(1月15日)。
さてここで疑問が沸く。銭湯の場合は、利益を得ているのは多数の低所得者であり、損失を被っているのは少数の銭湯経営者である。これを前述の例と同じように、1人当たりでみると、圧倒的に銭湯経営者の損失が大きいはずだ。すると、銭湯の経営者は政治的に働きかけて料金規制を撤廃し、銭湯料金の値上げを図ろうとするはずだ。
なぜそうならないのだろう?もしかしたら、銭湯経営者は、この料金規制によって隠れた何らかの利益を得ているのではないか。誰か知っている人がいたら是非教えて欲しい。
※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。バックナンバー
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