石油危機(3) 第1次と第2次の違い
2014/02/20
第1次石油危機と第2次石油危機
しばしば「日本は2次にわたる石油危機に見舞われ‥‥」という言い方をする。こういう言い方を聞いていると、何となく2回の石油危機は、それほど間を置かずに、相次いで日本経済を襲ったように考えがちだが、第1次が73年、第2次が78年だから5年間の間がある。現役の官僚として活動中だった私にとってみると、この5年の間にかなりの出来事があった。結婚して子どもが出来、米国で半年間の研修を受け、経済研究所(現在の経済社会総合研究所)で吉冨勝氏、新保生二氏らの薫陶を受けた。ややオーバーに言えば、この5年間で私は別人のようになっていたと言えるほどだ。
同じように、日本経済もこの5年間で別人のようになっていた。簡単に言えば、当初は「日本経済はどうなるのだろう」と誰もが心配していたのだが、日本経済のパフォーマンスは誰もが予想しなかったようなスピードで改善していったのだ。
石油危機によって日本経済は「マイナス成長」「物価上昇」「貿易収支の悪化」という三重苦(トリレンマ)状態となったのだが、その状態がどうなったのかを概観すると次のようになる。まず、経済成長率(実質)は、危機直後の74年にはマイナス1.2%となったのだが、75年3.1%、76年4.0%と順調に回復した。消費者物価上昇率は、74年には23.2%にも達したのだが、75年には11.7%へと鈍化して行き、78年には4.2%となっている。貿易収支の黒字も、74年には4600億円にまで減少したが(73年は約1兆円の黒字)、75年には約1兆5000億円、76年は約3兆円の黒字となっていった。
こうして経済が急速に正常化するにつれて、世の中の危機感は急速に薄れていった。そんな時に再び第2次石油危機が起きたのだが、既に1回経験しているだけに、今度はパニック的な騒ぎは起きなかった。価格を無理に抑えようという動きもなかった。その結果、日本経済は、第2次の危機を、前回にもまして円滑に乗り切ることになったのである。
もう一度トリレンマに即してチェックしてみよう。まず、前回マイナス成長に陥った経済成長率は、1980年に2.8%へと若干鈍化した程度で、81年には4.2%成長となっている。特筆すべきなのは、前回は20%以上もの上昇率を記録した消費者物価で、第2次の後は最も高かった80年でもその上昇率は7.7%にとどまり、83年には2.8%になっている。貿易収支も、80年には黒字幅が3400億円へと急減したのだが、81年には約4兆5000億円の黒字に急拡大している。
なぜ第2次石油危機のショックは小さかったのか
ではなぜ、日本経済は第2次石油危機の影響を第1次の時に比べて円滑に乗り切ることが出来たのだろうか。この問題は、まさに当時私自身が分析対象として直面していた問題であった。
最初に経済企画庁に入った時、私が配属されたのは、経済白書を作る「内国調査課」だったのだが、その後、いくつかのポジションを経験した後、第2次石油危機の時には、私は課長補佐として再び同じ課に戻ってきていた。1年生で配属された時は、白書を作るといっても、全くの下働きであり、ほとんど戦力にはならなかったのだが、今度は全く話が違う。内国調査課には3人の課長補佐がいるのだが、この3人が白書の原案を執筆する。伝統ある経済白書の原案を書く。それは幾多の修正を施されることになるのだが、うまくすれば最後まで自分が取りまとめた分析、自分が書いた文章が残る。その分析や文章は、日本中の人々が見る、ジャーナリストも、専門の経済学者も見る。それが白書の評価を決める。もしかしたら「もはや戦後ではない」というような名文句が生まれるかもしれない。私のやる気はいやが上にも高まった。みっともないから平気な顔をしていたが、気持ちとしては道を歩く時も、ガッツポーズを繰り返しながら歩きたくなるような心境であった。
さてその私は、「石油価格上昇の経済的影響はどのように表れるのか」「なぜ、日本経済は、第1次よりも第2次の方が危機を円滑に乗り切ったのか」という問題を日夜考え続けた。当初の私の考えは次のようなものだったのだが、それは当時の標準的な考えでもあった。
石油価格が上がると、企業の製造コストが上がる。企業がこれを価格に転嫁すると、企業は助かるが、消費者物価が上がって家計が困る。そこで労働者側は物価の上昇に見合った賃上げを要求する。企業がこれに応じると、家計は助かるが、企業の賃金コストが上がるので、今度は企業が困る。つまり、石油価格が上がってしまった以上は、日本経済のパフォーマンスは悪化するのだが、どう悪化するかは、ババ抜きのようなもので、企業か、家計のどちらかがコストを負担せざるを得ない。
第1次危機の後は、物価が上がったが、賃金も上昇した(74年の現金給与総額の伸びは27.2%)から、企業がババをつかまされた。第2次の後は、賃金は余り上がらなかった(80年は同6.3%の伸び)から、今度は家計がババをつかむことになった。
「分配率不変」という大ブレークスルー
さて、こうした説明をすると、聞いている人は一応「なるほどそうですか」といって納得する(ような顔をする)。しかし、説明している方はどうもしっくりこない。何か足りない気がするのだが、何が欠けているのかが分からない。
こんな状態が続いていたある日、ふとしたことからOECDの分析を眺めていた私は、「実質賃金ギャップ」という概念があることに気がついた。詳しい説明は省略するが、これは「労働分配率を不変に保つ実質賃金上昇率」と「実際の賃金上昇率」の差のことである。「労働分配率を不変に保つ実質賃金上昇率」は、生産性上昇率が上がれば高くなり、交易条件が悪化すると低くなる。実際の賃金上昇率が、この賃金上昇率を上回ると、労働分配率は上がり、下回ると分配率は下がる。
この「分配率に中立的かどうかを基準にする」という考え方を知ったことにより、私を覆っていたもやもやは雲散霧消した。文字通り、周りを閉ざしていた霧が一気に晴れて、遥かかなたまで見通せるようになったのだ。みっともないから平気な顔をしていたが、「そうかそうか、そうだったのか」と私は、内心、欣喜雀躍、手の舞い足の踏むところを知らずという感じであった。
と言われても、読者は「何をそんなに喜ぶのだろう?」と不思議に思うだろうから、簡単に解説しよう。
今、売上高100万円の企業があったとしよう。この売り上げのうち、20万円は石油コストとして支払われ、40万円は賃金として支払われ、残った40万円が企業の収益になるとしよう。この企業が生み出す付加価値は80万円だから、労働分配率は50%である。ここで、石油価格が一挙に2倍になり、製品価格もその分引き上げられたとする。売り上げは120万円となり、名目賃金も40万円で変わらないから、分配率も50%で不変である。石油価格が上がった前後で分配率は変わっていないのだから、石油価格上昇の負担は、家計と企業で平等に負担されたことになる。
この時、企業が値上げをしているので、物価は20%上昇するのだが、物価が上がったからといって、それにスライドさせて賃金を20%引き上げると、賃金コストが48万円となり、労働分配率は上昇する。賃金コストの分、価格を上げると、再び物価が上昇する。
さて以上のように考えてくると、それまでの常識を覆す考え方がいくつも導き出される。
第1に、第1次は企業が負担し、第2次は家計が負担したというのは誤りである。第1次の時は、賃金が物価にスライドして上昇したから、企業が負担したというのは正しい。しかし、第2次は物価は上がったが賃金はあまり上がらなかったので、分配率は不変となり、家計と企業が平等に負担したことになる。
第2に、石油コストの分を価格に転嫁することこそが、負担を平等にする道である。前述のように、「企業は石油コストの分を価格に転嫁し、賃金は上げない」ということが分配率を不変に保つのである。何となく、企業がコストアップ分を価格に転嫁すると、「企業の負担を家計に押し付けた」という印象を受けるが、これは間違いである。
第3に、石油危機を円滑に乗り切るためには、「輸入インフレ」を「ホームメード・インフレ」に転化させないことが重要である。前述のように、第1段階で企業が石油コストの上昇を価格に転嫁することによって生ずる物価上昇は「輸入インフレ」である。この輸入インフレによる物価上昇は1回だけで終わる。しかし、この物価上昇にスライドして賃金も上がり、その賃金コストの上昇が第2ラウンドの物価上昇を引き起こすと、これは国内に原因がある「ホームメード・インフレ」となる。この賃金と物価の相互作用がいつまでも続くと、物価もなかなか安定化しない。第1次石油危機後には、物価と賃金がスパイラル的に上昇したことにより、輸入インフレがホームメード・インフレに転化して、物価上昇がなかなか収まらなかった。第2次後は、1回だけの輸入インフレにとどまったので、物価がすぐに収束した。これが、第2次危機後の経済的混乱が最小に抑えられた理由である。
この私の考えは、経済白書にも使ったが、個人的な著作にも大いに活用した。ここで述べたことを詳しく解説した、私の「第2次石油危機 ツケは誰が払った」という論考が1981年3月21日の日本経済新聞「経済教室」に掲載された。その後、私は何度も経済教室に論文を書いているが、これが記念すべき第1号である。
1982年には東洋経済新報社から『石油と日本経済』という本を出して、ここでも今回説明した分析を活用している。この本は、1983年に、すぐれたエネルギーに関する著作に贈られる「エネルギーフォーラム賞」という賞を受けた。この時賞品として受け取った置時計は、今も自宅の机の上で時を刻み続けている。
石油危機という大きな試練を受けて、日本経済は多くの教訓を学び、新しく生まれ変わった。私自身もまた、石油危機という格好の分析材料を得たことにより、エコノミストとしての道が大きく開けたのである。
※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。バックナンバー
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