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小峰隆夫の私が見てきた日本経済史

石油危機(5) 価格の力は偉大なり

 

2014/04/23

 我々は何のために歴史を振り返るのだろうか。もっとも平凡な理由付けは「将来への教訓を得るため」ということだ。

 私は、経済企画庁で実際に目の前で起こりつつある第1次、第2次の石油危機を観察し、そこから様々な問題が生まれてくる現場に実務家として居合わせたという経験を持つ。考えてみると、現役のエコノミストの中で、実体験として石油危機を知る人は次第に貴重な存在になりつつあるようだ。だとすれば、少しでも石油危機から得られた教訓を書き残しておくことは(やや大げさだが)、私の務めだと言えるかもしれない。

 石油危機から私が学んだことの中で最も印象深いのは、価格の力がいかに大きいかということであった。

石油価格上昇によって高まった石油生産性

 第1次石油危機によって石油の価格は約4倍になり、第2次石油危機でさらに2倍になった。当然、ガソリン、灯油などの石油関連製品も大幅に値上がりした。この価格の変化によって、経済全体は大きく旋回し始めた。前回述べたように、家庭でも、企業の生産現場でも、エネルギーを少しでも節約しようと動き始め、そのための技術が開発され始め(必要は発明の母)、エネルギー効率を売り物にした自動車や家電製品が現れ始め、エネルギー多消費型の産業は次第に駆逐されていった。

 その結果、日本経済全体でのエネルギー効率化が進み、石油輸入量は激減した。産業構造も高付加価値化し、輸出は再び盛り返し始めた。私は、改めて価格の力はすごいものだと感心した。

 この点について、私は、1982年に出版した『石油と日本経済』(東洋経済新報社)という本の中で1章を割いて分析している(同書第6章「省石油の経済学」)。まず私は、「石油生産性」という概念を使って、省石油の背景を分析した。それまで、石油消費とマクロ経済の関係を分析する際には、「石油原単位」(石油消費量/GDP)や「石油消費のGDP弾性値」(石油消費の伸び/GDP成長率)という概念が使われることが多かった。この点について、私は、経済的思考としては、石油生産性(GDP/消費)という概念の方が適当であるとして、この概念を使ったのである。

 要するに、「付加価値生産性」「労働生産性」「全要素生産性」などが上昇することが、経済的諸問題を解決してきたように、「石油生産性」の上昇が日本経済を救ったと主張したのである。

 当時私は、この考えは多くの経済学者に納得してもらえるだろうから、これからは「石油原単位」という概念は使われなくなり、「石油生産性」という概念が一般化するだろうと考えた。しかし、この予想は全然外れて、使われなかったのは「石油生産性」の方であった。私のエコノミストとしての影響力は極めて限定的だ(「小国の仮定」しか成り立たない)、ということも、この時私が学んだことの一つである。

 なお、誠に興味深いことに、当センターのコラムで新井淳一研究顧問が、「電力生産性」という概念を紹介している(2013年8月16日「『知る』と『合点』の経済学」)。これは、伊丹敬之氏が『日本企業は何で食っていくのか』という本の中で提唱している概念で、産業・企業が生み出す付加価値総額を使用する電力量で割ったものである。私の「石油生産性」と全く同じ発想だ。石油不足の時代に私が考えていたことが、電力不足の時代に再び蘇ったのだと思うと、なかなか感慨深いものがあった。

石油文明論批判

 私は、この石油生産性という概念を使って、日本の石油消費節約が急速に進んだ経済的背景を分析したのだが、こうした分析を踏まえて、次のようなことを述べている。

 まず、価格の力を使わずに、政策的に消費を節約しようとすることは、長期的にかえってマイナスになることさえあると言っている。例えば、第1次石油危機後は生活必需品であった灯油価格(当時は暖房に灯油が使われていた)を政策的に低めに抑えようとした。灯油価格上昇への国民的不満が大きかったからである。しかし、これによって石油多消費型の温風暖房機などのストックが蓄積されてしまい、その次にやってきた第2次ショックの影響を大きくしてしまったのである。

 「石油文明を転換せよ」という主張にも猛烈に反論を加えている。当時は、いわゆる文化人的な人たちが「石油浪費型の文明を変えなければならない」という精神論を展開していたのだ。これに対して私は次のように書いている。

 「石油文明変革論の最大の欠点は、なぜ石油依存型の現代文明が生じたのかという理由を考慮していないことである。われわれの経済社会が石油への依存度合いを強めてきた最大の理由は、とにかくそれが他のエネルギー源よりも安かったからである。したがって、石油が相対的に安い状況が変わらなければいくら口をすっぱくして変革を説いても石油文明は生き続けるに違いない。逆に、石油を使うことが高くつく(石油を使うと損をする)ようになれば、石油文明も自然に解消していくであろう」

価格を使うのが効率的

 特定の財貨・サービスの消費量を政策的にコントロールしようとするのであれば、制度的・法的仕組みを整備するよりも、価格の力に任せた方が効率的である。

 例えば石油価格・同関連製品の価格が上昇すると、家計も企業もその消費を減らそうとする強いインセンティブが作用するようになる。すると、政府がいちいち考えないでも、いわば自動的に消費が減っていく。各人の「損してたまるか」という意志と知恵の力に比べれば、政策当局のアイデアなどはたかが知れている。

 この点についても、前掲書で私は、当時出ていた、エイモリー・ロビンスの『ソフト・エネルギー・パス』という本を例にとって、いろいろ述べているので、少し例示してみよう。

 ロビンスの本では「電力はエネルギーロスが大きい」という点が強調されている。確かに、発電した後、送電線で消費地まで運ぶまでに、相当の電力ロスが生じることは事実である。これについても、価格を絡ませて、私は次のように書いている。

 「エネルギーロスを即ムダとする考え方も誤りのもとだ。こうしたロスは、必要なコストだと考えるべきだ。ロスがあるとすれば、それだけのエネルギーロスが許されるほどエネルギー価格が十分安いということにつきる」

 またロビンスは「異質な最終用途を、各々の仕方にもっとも効率的なやり方で供給された最小のエネルギーでいかに満たすかが問題だ」と言っているのだが、これに対しても私は、「それは高価格によって市場メカニズムがもっとも効率的に解決する」と書いている。

 石油の価格が上がれば、石油を最も必要としない人から順番に石油を使わなくなる。これほど効率的な節約方法はない。

価格を使うのが公平

 市場経済は「公平性」を損なうという議論がある。しかし、同じだけの石油消費を節約しようとするのであれば、価格を使うのが「公平」だとも言える。

 この点についても私は前掲書の中で、いわゆる「節約」は社会的に不公平だと主張している。当時は、政府が率先して石油消費の節約を呼び掛けていた。石油供給制約に直面して、節約を呼び掛けるのは当然に見えるが、私はこれは社会的に不公平だとして、次のように書いている。

 「例えば、日曜日のマイカー使用は好ましくないという社会的判断があったとしよう(当時まさにそういう判断があった)。これを一般的な良心への呼びかけによって達成したらどうなるか。呼びかけにこたえてマイカーを自粛した人は、それなりの節約に応じたコストを払うことになる。一方、呼びかけにもかかわらずマイカーを乗り回す人は、何のコストも払わずに済む。それどころか、自粛した人がいる分だけ道がすいているから、従来よりもメリットを享受することになる。つまり、社会的に望ましいことをしている人のみがコストを負担してしまうことになるという不公平が生じるのである」

 こうして当時の自著を読み直してみると、「30年前の私も結構いいこと言っているじゃないか」と、褒めてあげたくなる。

 なお、以上述べてきたようなことは、2011年の大震災後の電力不足の際にも繰り返されている。この時も、電力が足りないという事態が生じた時、多くの人は電力料金を引き上げるという手段を嫌い、自主的な節電を呼び掛けた。しかし、短期的な評判は悪くても、本当に効率的に電力消費を節約しようとするのであれば、電力料金を引き上げるのが正しい政策的対応だったのではないかと私は考えている。

※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。