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小峰隆夫の私が見てきた日本経済史

経済摩擦と経常収支不均衡【番外編】 新保生二さんと小宮隆太郎先生

 

2014/06/20

 前回、経済摩擦と経常収支黒字問題に関して、小宮隆太郎先生の議論を紹介した。今回は、やや番外編的に、その小宮先生との個人的な思い出について書いてみたい。と言っても、その思い出は、過去におけるほんの一瞬の出来事に過ぎないものだ。しかしその一瞬の交流は、私にとっては忘れがたい大切な出来事だ。そもそも私は小宮先生と親しかったわけではない。東京大学でゼミを選択する時も、小宮先生のゼミは「厳しく、秀才揃いだ」と有名だったので、私は遠慮した。私が勤務した経済企画庁で、その小宮ゼミの出身だったのが1年先輩の新保生二さんだった。小宮先生のことを聞いてもらう前に、まず私と新保生二さんとの交流について知ってもらう必要がある。新保さんの存在がなければ、私と小宮先生との交流はなかったはずだからだ。

信念の人、新保生二氏

 新保さんは企画庁の中でも有数のエコノミストとして知られていた。1979年に出した『現代日本経済の解明』は、日本で最初にマネタリストの観点から実証的に日本経済を分析したもので、日経・経済図書文化賞を受賞している。

 新保さんは「言行一致」の人だった。自らが信ずる経済的な主張をどんな立場にあっても、どんな人に対しても主張し、なかなか自分の考えを変えようとしないのである。それがどういうことかを理解してもらうために、私自身と比較してみよう。

 例えば、私が、景気政策を担当するセクションに配属されたとする。この時、私自身は景気対策は必要ないと考えるのだが、上司は景気政策を推進すべきだと考えたとする。この時、私であれば、比較的あっさりと上司の意見に従い、「景気対策が必要だ」という資料を準備するだろう。ところが新保さんは、上司を説得しようとするのだ。つまり、自分の考えを実際に適用し、実行しようとするのである。

 これは、「組織とは何か」とか「役人の役割は何か」という点で考え方が違うことによるのかもしれないが、「自分の経済学的な考えにどれだけ信念をもっているか」ということではないかと思う。新保さんは、徹底して考え抜いた上で得た自らの考えに強い信念を持っており、それを現実社会で生かすことが正しいということに何の疑念も持たなかったのだと思う。

 新保さんは2001年に役人をやめ、大和総研の顧問を務めた後、2002年に青山学院大学で教鞭をとり始めたのだが、直後に病に倒れた。私は、入院した新保さんから「至急会いたい」という連絡を受け、病院に駆けつけた。新保さんは、しばらく入院することになったので、自分が担当していた2002年度中の青山学院大学の授業とゼミを私に担当して欲しいと言った。そして、自分の病気の状態はあまり良くなく、残された期間も短いかもしれないと言って苦笑した。私は、人間は身近に迫った自らの死を語るときでさえ苦笑してしまうのだなと、何も言えずに暗然と座っているばかりであった。

 なお、私が病室を訪ねた時、新保さんはベッドにパソコンを持ち込んで原稿を書いていた。新保さんは、病魔に倒れてから2004年に亡くなるまでの短い期間に、『デフレの罠をうち破れ』(2002年、中央公論新社)、『新しい日本経済講義』(2004年、日本経済新聞社)という2冊の本を上梓している。ろうそくが消える間際に最後の輝きを放ったような、奇跡のような2冊であった。

 これらの本を読めば分かるのだが、新保さんは筋金入りのマネタリストであり、したがって、今生きていたら「マネーを増やせばデフレから脱却できる」という、いわゆる「リフレ派」の議論を強力に展開したはずである。

小宮先生の美学

 さてここからが小宮先生の話になる。新保さんの依頼を引き受けた私は、青山学院大学に通い始めた。当時私は、役人を辞めた直後で、「経済研究所顧問」という比較的暇なポストにいたので、新保さんの要請に応えられたのだ。翌2003年度になると、私も法政大学に奉職することになり、さすがに新保さんの授業を全部肩代わりすることは難しくなったのだが、ゼミだけは最後まで面後を見て欲しいと要請され、引き続き青山に通った。

 そんな2003年の暮れのことだ。私が、青山の教員食堂でお昼を食べていると、私にお茶を持ってきてくれた方がいる。見ると、それが何と小宮先生だったのだ。先生とはほとんど面識がなかったのだが、先生の側では、自分のゼミ生であった新保さんが病に倒れ、その穴を埋めているのが私だということをご存じだったので、話しかけてこられたのだと思う。

 先生はお茶を置いて「ご一緒してよろしいですか」とおっしゃった。私は、長年尊敬し、文化勲章まで受章された大経済学者が突然目の前に現れ、しかもお茶まで持ってきてくれたのだから、恐縮の塊のようになり、コメツキバッタのように「あ、どうも」とか「あ、これは恐縮です」などとつぶやいて慌てまくったのだった。

 それからお昼をご一緒しながら、しばらく小宮先生と話をした。小宮先生は私が、役人を辞めて大学に勤め始めたことをご存知で、「大学生活はいかがですか」と尋ねられた。私はしばらく考えて「ほとんど問題はないのですが、唯一、ゼミの運営をどうしたらいいのかがよく分からないので困っています」と言った。

 その後、しばらくして小宮先生から私に「歩みのあと」という小冊子が送られてきた。これは先生が、75歳になったのを機に、自らの生き方に関連する著作を集めたものだった。読んでみると、「演習三十年の回顧」という章があり、先生がどんなやりかたでゼミを運営してきたかが書かれてあった。先生は私がゼミの運営で困っていると言ったので、わざわざこの本を送ってきてくれたのだ。

 このお茶運びから本の送付にいたるまでの一連の出来事によって、思いがけず、私は小宮先生の謙虚で温かい人柄を知ることになったのだった。これが私にとって忘れられない小宮先生との一瞬の交流である。

 なお、前述の昼食の際に、私は小宮先生に「青山を辞められた後は、何をなさるのですか」と尋ねた。これに対して先生は静かに「何もしません」と答えた。この時私は何となく「先生は、本当に何もしないつもりなのだな」と結構強い決意が含まれているように感じた。改めて先生に頂いた本を読んでみると、次のようなくだりがあった。

 「ある時期からは、青山学院大学の定年後は、常勤の仕事には就かず、非常勤でも責任の重い仕事には就かない、と心に決めてきた。何事にも『終わり』があるが、モノゴトを見事に終わりにすることは必ずしも容易でない。十全に職責を果たせないのに、その職に就いているのは見苦しい。私にとって、『有終の美』は、professional career を終えるときに心掛けなければならない大切なひとつの『美学』であると考えてきた」

 事実、その後小宮先生はほとんど、公の場に姿を見せなくなり、著作も見られないようになった。私には、先生が自らの美学を貫いたのだと思われる。

 私は、新保さんのことを考えると「自分は新保さんのように、どれだけの信念を持って自らの経済的主張を行っているのか」を考え、小宮先生のことを考えると「自分は小宮先生のように、人を気遣い、そして潔く退いていくことができるのか」を考えてしまうのだ。

※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。