経済摩擦と経常収支不均衡(4)―経済摩擦をめぐる議論:ナンセンス編
2014/09/19
経済摩擦は日本対相手国の摩擦であるから多くの議論のやり取りがある。当然、日本側は、相手の議論を否定して説得しようとする。しかし、実際にその渦中を経験してみると、日本側と相手側の議論は、一概にどちらが正しいとは言えず、「相手側のロジックがおかしい場合」「むしろ相手国側の議論に賛成したくなる場合」「相手国側の議論に乗って、日本が譲歩した方がむしろ日本のためになる場合」など複雑な様相を呈する。以下、いくつかの例を紹介しよう。
誰も反論しないおかしなロジック
日本側は、相手が制度的な貿易障壁を取り上げて「ここがおかしいではないか」と言ってくると、「いや、それにはこういう理由があるのでおかしくない」という類いの反論はする。しかし、もっともらしいデータを出されて議論を吹っ掛けられると、あまり反論しない、というのが当時の私の印象であり、「なぜ反論しないんだ」と不満な点であった。
例えば、当時米国側は次のように主張した。「米国の対日貿易赤字は660億ドルにもなった。これは米国の貿易赤字全体の6割をも占める。どう考えてもいびつな状態だ」。このロジックは他の国との間でも登場し、タイの首相も「タイの対日赤字は、タイ全体の貿易赤字の80%を占めている。これは異常な数字だ」と発言したことがある。
こうした計算そのものは間違いではないのだが、このシェアに経済的な意味はない。なぜなら、このシェアの計算の分母になっている貿易収支、分子になっている地域別貿易収支は、ともにプラスにもマイナスにもなりうる数値だからだ。したがって、分母がゼロに近づくと、このシェアは限りなく大きくなり、数百%、数千%になってもおかしくない。また、「マイナスのシェア」という奇妙な結果も出現する。
このシェアは足して行くと途中で合計が百を上回ってしまうこともある。私が『日本経済・国際経済の常識と誤解』(中央経済社、1997年)というあまり売れなかった本の中でやってみせた計算を紹介しよう。
表は、1995年の日本の地域別貿易収支の額とシェアを見たものである。黒字が一番大きいのは対アジアで、全体の黒字に占めるシェアは65.4%、次が北米でシェアが37.9%だ。ここで早くもシェアの合計が100パーセントを上回ってしまった。さらに西欧向けが18.2%と続くので、合計はどんどん100%以上になっていく。こうなるのは、言うまでもなく、中近東向けは日本の赤字になっており、マイナスのシェア20.3%などがあるからだ。
「対アジア向けの貿易黒字は、日本全体の貿易黒字の65.4%もの大きさなのです」と言われると、誰もが「そうか、アジアが全体の3分の2を占めているのだから、残りの地域が3分の1を占めているのだな」と考える。ところが、シェアの合計が100を上回ってしまうのだから、それは間違いなのである。米国の数字の使い方がいかにおかしいかが分かるだろう。
もう一つ、当時私が憤慨していた例を紹介しよう。米国側は、日本の市場の閉鎖性を示すため、次のような議論を展開した。それは「米国の自動車市場における日本車のシェアは4割にも達している。しかし、日本の自動車市場における米国車のシェアはたったの3%である。日本の市場がいかに閉鎖的であるかが分かる」(数字は仮のものです)というものだ。
これもまったくおかしな議論だ。そもそも日本車が米国でよく売れるのは、米国の消費者が日本車を選択するからだ。米国の消費者でさえ日本車を選択するのだから、日本の消費者が日本車を選択するのは当たり前である。したがって、米国における日本車のシェアよりも、日本における米国車のシェアがずっと小さいのもまた当たり前なのである。
同じような議論を展開して、「日本で公開される映画に占める米国映画のシェアは6割だが、米国で公開される日本映画のシェアは2%に過ぎない。米国の映画市場がいかに閉鎖的であるかが分かる」と言えば、この議論がいかにナンセンスであるかが分かるだろう。
どうして反論しないのか
当時私がしきりに考えたことは「どうして反論しないのだろうか」ということだ。上記のような議論は、一目見てすぐに分かることなのだから、言われた場ですぐに反論して、笑い飛ばせばいいではないか。
しかし、こうした議論に日本政府が反論したという事実は聞かなかった。私はこれらの交渉に直接出席していたわけではないので、これらの事実を新聞で知ったのだが、新聞も、米国の議論をそのまま紹介するだけで、その議論がナンセンスであるという指摘は皆無であった。
ただし、私もできる範囲で反論を試みた。私は、1989年から91年にかけて、経済企画庁の国際経済第一課長を務めた。この時、企画庁は、日米の貿易不均衡問題を議論する委員会を組織して、貿易不均衡の背景、対応などについての議論を行った。嘉治元郎先生(東京大学名誉教授)が委員長となり、各界の代表を揃えたかなり大掛かりな委員会であった。この委員会では多くの議論があったのだが、私は、せっかくの機会だからと、担当課長の特権で、前述の地域別貿易収支のシェア論を取り上げ、これがナンセンスであることを報告書の原案に盛り込んでしまった。
ところが、この報告書案を審議する段階になったとき、ある有名な国際経済学の学者が「どうしてこんな些細なことをわざわざ盛り込むんですか。全体の主張がぼけるから削除すべきです」と発言したのだ。私は、経済学者こそ、私の議論をサポートしてくれるはずだと確信していたのだが、その頼りの経済学者に批判されてしまったので、すっかり驚き、かつがっかりしてしまった。
それでも私はへこたれず、局長、次官、さらには大臣まで説得して、この主張を取り下げなかった。今で言えば、官僚主導の典型である。私の上司たちも「小峰君がそこまで言うなら入れてもいいか」という感じだったようだ。
こうした経験を通じて私は「私がおかしいと思う議論を誰も相手国に反論しないのは、おかしいということが分からないのか、あるいは、分かってもそれほど重要な問題ではないと思っているかのどちらかなのだろう」と考えるに至った。どちらの理由が正しいのか。その答えはいまだに出ていない。
(次回は、相手の言い分が正しいケースを紹介します)
※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。
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