経済摩擦と経常収支不均衡(5)―続・経済摩擦をめぐる議論:相手に一理編
2014/10/17
前回は、経済摩擦をめぐる相手国との議論で、相手国側のロジックがおかしいケースを取り上げた。
なお、前回の記事についてはツイッターやフェイスブックでいくつかの反応があった。これを見ると、多くの場面で、多くの人が「なぜロジカルに反論しないのだろうか」と私と同じように考えていたのだということが分かって興味深かった。この点で追加的な感想を述べておきたい。
我々はなぜロジカルな議論を好まないのか
改めて考えてみると、我々はロジカルに反論して、相手を完膚なきまでにやっつけるということ自体を好まないのかもしれない。ロジカルな議論だと、白黒が明確になるので、議論に負けた方は「逃げ場がない」といいう状態になってしまう。日本ではそんな具合に白黒をはっきりさせるよりも、例えば、大岡裁きの「三方一両損」のように、双方が痛み分けで恨みっこなし的な解決を好むようだ。
私も、役人生活中、議論で相手をへこませた時よりも、双方の顔を立てながらうまく落としどころを探り当てた時の方が周囲からの評価が高かったような気がする。
ただし、日本人でも、ロジカルな白黒決着型の人もいる。私が経済企画庁のエコノミストとして知る人の中では、吉冨勝氏が典型的なロジカル派であった。吉冨氏は、エコノミスト同士の議論はもとより、幹部会などの場でもあいまいな主張を許さず、たとえ立場が上の人に対してでも、議論の余地のない形で相手をやっつけてしまうのが常だった。しかし、満座の中でやっつけられた方は面白くないから、どうしても恨みが残ってしまう。
ただしこれは日本だけの現象ではないようだ。海外でも、他人、特に部下のいる前で叱責されるのは体面上嫌がる意識があるようだ。
かく言う私も吉冨氏に満座の中でやっつけられたことがある。幹部会でEUとの経済交渉について説明した時、出席していた吉冨氏にいろいろ質問されて、途中で答えがしどろもどろになってしまったのだ。他の省庁の所管事項の部分だったので、質問なんか出ないだろうとタカをくくっていたのがまずかった。吉冨氏は「これ以上聞いても満足に答えられないようだ」と思ったのか「随分乱暴な報告ですね」と言って議論を打ち切った。これには余談があり、その後、別の案件を次官に説明していたら、次官から「君の先日の幹部会での説明は随分乱暴だったね」と言われてしまったのだ。吉冨氏の信用力は絶大だったので、吉冨氏の評価はそのまま企画庁内の多くの人に共有されてしまったようなのだ。
私は自らを反省して、吉冨氏を恨むようなことはしなかったが、それでも満座の中で批判されたことはこうしてよく覚えているのだから、似たような感慨を持った人は山のようにいたに違いない。
相手の言い分にも一理あり
本題に戻ろう。経済摩擦をめぐる議論に参加していると、立場を離れて相手側の言い分に同調したくなることもある。
前々回紹介した背高コンテナの議論でもそれがあった。中身の詰まった背高コンテナもキリンのように分離不可能な貨物として、例外的に国内の道路の走行を認めることにし、米国側にその内容を説明した時のことだ。
日本の警察庁は、警察が通行ルートを特定した上で通行許可を出すと説明した。これに対して米国の船会社は「どうして警察が一々ルートを確認するのか」と質問してきた。これに対して警察庁側は、「道路によっては背高コンテナがトンネルなどの構築物にぶつかってしまうようなことがあり得るから、事前に警察がチェックするのだ」と答えた。これを聞いて船会社側は笑いながら「そんなことを警察がチェックしなくても、運送会社がわざわざトンネルにぶつかるようなルートを取るわけがないではないか」と言った。
警察庁は「何を言っているのだ、チェックなしに万が一事故が起きたら我々の責任問題になる」と言って怒ったのだが、私は、米国側の言い分を聞いて「なるほど、そういう発想をするんだ」と思ったものだ。日本では、事故が起きると、所管省庁の監督責任が問われるのだが、自己責任を基本として考えれば、ぶつかるようなルートを取った運送会社が悪いということになる。そして、その自己責任が当然の前提になれば、各運送会社が事前に自己責任で事故の起きないようなルートを選ぶはずだということになる。
もちろん私の立場で、米国側に「ごもっともです」と賛意を示すわけにはいかなかったのだが、私は内心で「なるほど、米国側の言い分も一理あるな」と思ったのだった。
外圧による構造改革
上記の例は些細なことだが、もっと重要なことは、摩擦には「日本の構造改革を促す」という場合があることだ。これは次のようなことだ。
構造改革が難しいのは国内の既得権益勢力があるからだ。例えば、農産物の自由化を進めることが国民福祉の向上という観点からふさわしいとしても、それによって打撃を受ける農家は反対する。輸入自由化によって国民全体が享受するメリットは農家の被害を上回るのだが、国民のメリットは広く薄くばらまかれるのに対して、農家の被害は特定分野に厚く割り当てられる。広く薄いメリットは政治勢力になりにくいが、狭く厚い被害は政治的抵抗を生みやすい。かくして、国内で議論している限りは、既得権益の壁を打ち破ることは難しくなる。
しかし、摩擦の中で例えば米国から構造改革に向けての強い圧力がかかると、「米国から言われたのでは仕方がない」ということになって、国内の調整が進む場合がある。これはいわゆる「外圧」頼みということだから、あまりほめられた話ではないのだが、現実の構造改革を考える上で結構重要な点である。
この場合は、摩擦の議論で日本側が勝つよりも、むしろ相手側の言い分が通った方が日本にとって望ましいというやや複雑な事情を呈することになる。こうした議論が目立ってくるのは、1980年代半ば以降、経済摩擦の対象が単なる貿易面だけではなく、日本の制度・慣行、法的規制、ひいてはマクロ経済政策運営にまで及んでくるようになってからのことである。詳しくは次回述べることにしよう。
※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。
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