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小峰隆夫の私が見てきた日本経済史

マクロ経済からの議論―日米構造協議と経済摩擦(3)

 

2015/02/24

 この連載を書くために書棚をひっくり返していると、次々に昔の資料が出てくる。さらに、私の法政大学の任期もあと2年となったので、長期的方針の下に書類をPDF化しようと研究室を整理していると、これまた昔の自分の著作物が出てきたりする。こうして出てくる新資料を見ていると、書きたいことが次々に出てくる。ちょっと始末に困るほどで、「この連載はいつまで続くのだろうか」と途方に暮れてしまう。

 今回はこうした新資料に基づいて、日米構造協議の中で、私が勤務していた経済企画庁および私自身が当時どのような主張をしていたのかを振り返ってみたい。それは、構造協議という個別課題についての議論の中で、マクロ経済の専門家が展開する議論がどのように受け止められていたのかを振り返ることにもなるはずだ。

「貿易障壁が原因」に反論

 本連載のための資料を探していたら、日米構造協議に際して経済企画庁が展開した議論を記録したものがごっそり出てきた。私は、1989年7月に日本経済研究センターの主任研究員から経済企画庁に復帰し、調整局の国際経済第一課長というポストについた。その直後から日米構造協議が始まった(第1回の協議は1989年9月4日~5日)。

 その構造協議の企画庁における窓口となった調整局は、この協議に臨むに当たって、基本的な立場を明らかにするペーパーをまとめている。このペーパーは、その後の大臣、局長などの発言のベースになる重要なものだ。

 その中の「国際収支不均衡の要因とマクロ経済政策」という部分での主張を、やや分かりやすく整理してみると、次のような主張を行っている。

 第1に、米国側は、日米不均衡は日本の貿易障壁によるものだとしているが、それは間違いだと主張している。ペーパーでは、経常収支不均衡はマクロ的経済要因(為替レートの変化、日米の成長率格差など)によってもたらされるものであり、構造的障壁によるものではないとしている。

 ただし、企画庁は自由貿易派だから、日米協議のような場を通して、日本の貿易障壁が撤廃されることに対しては、内心では賛成しているから、構造的障壁がないとまでは言いたくない。そこで、ペーパーでは、「日本市場の構造的障壁は、仮に存在したとしても大幅不均衡の原因ではない」という微妙な言い方をしている(もしかしたら私が書いた文章かもしれない)。

 第2に、米国側は、プラザ合意後円レートは対ドルで70%も上昇(240円から140円)したにもかかわらず、日米不均衡が一向に是正されないのは、日本市場の閉鎖性ないし、不公正な取引慣行のせいだと主張しているが、それは間違いだとも述べている。

 まず、数量ベースでは着実に円高の効果が出ている。89年前半と85年を比較すると、輸入数量は42.7%も増えている。特に製品輸入は95.7%も増えた。なお明言はしていないが、この裏には「その大幅増加した製品輸入の多くは欧州からのものだった。つまり、円高にもかかわらず、日本の消費者にとって魅力的な米国製品がないから米国から輸入が増えなかったのだ」という主張があったのだが、さすがに米国に面と向かってそこまでは言えなかったのだ。

 ではなぜ、数量ベースの変化が貿易収支に反映しなかったのか。それはいわゆるJカーブのためだ。ペーパーでは、この間、ドル建て輸出価格は47.8%も上昇したから、これが輸入数量の増加分を相殺してしまったのだとしている。

 第3に、米国側は、ドル安によって対EC(現在のEU)の収支は改善したのに、対日収支が一向に改善しないのは、やはりECに比べて日本の市場が閉鎖的だからだと主張しているが、これも誤りだとしている。

 この点についてペーパーは「初期条件の差が大きい」と分析している。つまり、85年の段階で、米国から日本への輸出金額は、日本からの輸入金額の33%に過ぎなかったのに対して、米国からEUへの輸出は、EUからの輸入の72%だった。こうした初期条件の下で、米国の対日貿易収支赤字が減るためには、米国から日本への輸出金額が輸入の3倍以上増えなければならないとしている。

 なお、この中でちょろっと「そもそも二国間の貿易収支が全て均衡する必要はないと考えるが、‥」という記述がある。これは本連載第9回(「経済摩擦と経常収支不均衡(1) 今に生きる小宮理論」)で述べたことがあるが、ことあるごとに私が訴えていた点である。

「主役」にはならず影薄く

 以上のような日米不均衡についてのマクロ経済的な議論は、経済学の基本に基づいたものであり、今読み返してみても「結構いいことを言っている」という感じがする。その論理を突き詰めていくと、結局のところ「日米構造協議が必要だとする米国側の論理は、経済学的には誤りである」ということになる。しかし、現実の日米交渉の中にあっては、こうしたマクロ的・経済学的論議は主役とはならない運命にある。

 その後の日米構造協議の推移をたどっていくと、第1回の構造協議の日本側からのオープニング・ステートメントの中では、最初に「国際収支不均衡は基本的にはマクロの問題であり、その不均衡へはマクロ政策で対応すべきものである。その意味で本協議は補完的なものである」という主張が入っているから、当初の段階では、企画庁の主張がかなり取り入れられたといえる。

 しかし、第2回以降、議論が次第に個別の項目に入り込んでいくと、とたんに個々の分野の話ばかりになり、マクロ的な議論は影が薄くなっていき、最後はほとんど影も形もなくなってしまった。

 また、交渉のレベルという点でも、企画庁の局長レベルの話し合いでは、マクロの議論を持ち出すことができるが、次官レベル、閣僚レベルと上がっていくと、ほとんどマクロの議論は出なくなる。上に行けば行くほど、「最終的な妥協点を探る」という狙いが強くなってくるから、マクロの議論で「米側の主張は誤りだ」といってもあまり意味がなくなってしまうからだ。

 マクロの議論を担う企画庁から日米交渉を眺めていると、「本当は違うのになあ」という気持ちが強まり、フラストレーションが溜まることになる。

 最初に述べたように、最近研究室を整理していたら、東洋経済新報社が隔月で出していた「論争」という雑誌のバックナンバーがごっそり出てきた。私はこの雑誌に「Economist’s Eye」という連載を持っていたのだが、99年5月号に「日米不均衡を巡る議論を点検する」という小論を書いていたのが見つかった。この中で私は、依然として問題視され続けていた日米不均衡について、「日米不均衡はGDP比ではそれほど大きいわけではない」「日米不均衡をもたらしている大きな要因は、貿易障壁ではなく成長率格差などのマクロ経済的要因である」「日米不均衡が拡大したからといって、米国経済に悪影響が及んでいるわけではない」「不均衡を是正するために日本が内需を拡大すべきだという議論は誤りだ」といった主張を展開している。当時はこんな個人論文の形で構造協議のうっぷんを晴らしていたようだ。

※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。