大先輩たちの中国との交流―中国経済と日本経済(上)
2015/06/24
私は、本年5月22日に中国の北京で開催されたシンポジウムに出席し、中国の日本経済研究エコノミスト達と話し合う機会があった。この時、「日本経済の歩みと中国経済との関係」「日本と中国のエコノミスト達の交流」などについていろいろ考えるところがあった。今回と次回は、これまでの議論からやや離れて、日中経済と日中エコノミストについて述べてみたい。
私が出席したのは、中国の社会科学院日本研究所が開催した「戦後70年の日本経済」に関するシンポジウムだった。私はこの会議に招待され、冒頭で「戦後70年の日本経済を振り返る」と題する基調講演を行った。このシンポジウムには、中国全土から40人前後の日本経済研究者が集まってきた。私は、シンポジウムの最中にこれらエコノミスト達と話をしたのだが、その中で「金森久雄さんは…」「大来佐武郎さんは…」「宮崎勇さんは…」「下河辺淳さんが…」という言葉が頻繁に登場した。
大先輩達にとっての中国
「そうだったのだ」と私は改めて思い出した。これら私にとっての大先輩たち(日本経済研究センターでも、経済企画庁でも大先輩)は、中国経済の勃興期に、中国経済の発展に強い関心を持ち、しばしば中国を訪れ、中国のエコノミストと意見を交換し、日本の経済発展の経験を中国に伝えようとしてきたのだ。
少し古い文献を探ってみよう。まず、経済企画庁のリーダーであり、退官後、日本経済研究センター会長、外務大臣(民間人として入閣)などを務めた大来佐武郎氏に関しては、1979年3月の日本経済研究センター会報に掲載された「中国を訪れて」と言うコラムが見つかった。このコラムによると、大来氏は、1972年に北京を訪れており、79年の1月末から2月初めにかけて再び北京を訪問している。大来氏は、79年の訪問の目的は、「日本経済の高度成長と経済計画作成の経験について説明すること」であり、「経済関係の政府関係機関その他の担当者約500人を集めて講演会が開かれた」と報告している。
金森久雄氏(企画庁で官庁エコノミストとしての道を歩み、退官後、日本経済研究センター理事長・会長などを務めた)については、日本経済新聞に連載された「私の履歴書」に中国訪問についての記述があった(2004年9月28日、連載第27回)。金森氏は次のように書いている。「中国へは文化大革命終了直後の78年、日本経済研究センターの視察団として行ったのが初めである。(中略)知識吸収欲が強いのには驚いた。公会堂で日本の高成長の原因について話をさせられた。切符を持った人が多数押しかけてきた。」その講義の内容についても「賃金と労働生産性のバランスをとること、資本と労働の協調が必要なこと、政府が賢明な政策を取り、特に社会資本の供給に力を入れることなどだ。経済の発展は段階的に行くのが望ましく、先に飛んでいく雁を後の雁がまねをするような雁行形態がいい。多くの発展途上国がこれにならって成長した。私の講義が少しでも役立ったとすればうれしい」と書いている。
下河辺淳氏(経済企画庁で主に開発分野を歩み、退官後、国土審議会会長などを務める)については、文献を探す暇がなかったが、今回の私の北京訪問中、ある中国のエコノミストが次のように私に言った。「下河辺さんは、北京で、昔の遺跡や歴史的建造物が放置されたり、取り壊されたりするのを見て、しきりに『保存しておくべきだ。しっかり保存しておけば将来必ず喜ばれる』と説いていました。最近、中国でもようやくその意味が分かるようになり、歴史的建造物の保全・修復がしきりに言われるようになりました。しかし、既に失われてしまったものもたくさんあります。もっと早く下河辺さんの忠告を聞いておくべきでした。」
中国が求めた日本の経験
こうして私の大先輩たちは、中国を訪れ、日本経済の経験を伝えようとしてきた。改めて振り返ってみると、当時は中国側の「日本から学んで経済を発展させたい」という希望と、日本側の「日本の経験を生かしてもらいたい」という熱意がうまく出会った時代だったのではないかと想像される。
中国側の事情を考えてみよう。中国では1960年代半ばから70年代半ばまで、いわゆる文化大革命の時代を経験し、経済社会は大混乱に陥っていた。それが終わった後の状況を象徴するのが、高倉健主演の「君よ憤怒の河を渡れ」だ。最近、高倉健が亡くなった時、中国でこれが大きく報道され、驚くほど多くの追悼の声が寄せられたことが話題になった。この映画は、日本ではほとんど話題にならなかったのだが(日本公開は1976年)、中国ではこれが延べ10億人が見たと言うほどの空前の大ブームとなったのだ。
なぜこの映画が中国人の心を捕らえたのか。この点について、6月に「BS1スペシャル『10億人が愛した高倉健』」という番組が放送され、私も見た(ついでに映画もWOWOWで見てみたが、確かに、それほどの名作だとは言えないし、高倉健の代表作だとも言えない)。このドキュメンタリー番組では、高倉健の死を知った各界の人々が、口々に、この映画が自分の一生を変えたということを話していた。その見方は様々だが、おそらく中国の人々は、この映画を見て、日本の経済水準、生活水準の高さ、順法意識などの文化水準の高さを実感し、「自分たちが文化革命という寄り道をすることによっていかに貴重な時間を空費したのか」を改めて感じたのではないかと想像される。
多くの人が、日本に学んで、日本のような生活水準の高い国になりたいと願った。だからこそ、金森氏の講演に「切符を持った人が多数押しかけてきた」のではないか。何といっても日本は隣国であり、身近な存在である。「日本にできたのであれば、自分たちにもできる」と考えたに違いない。
日本が「経済計画」を持つ国であったということも、親近感を強めたかもしれない。社会主義を標榜していた国が、突然、自由な市場経済で行けといわれても戸惑うだろうが、日本は市場経済と計画経済をうまく融合させたことによって成功したと聞かされれば、「日本に倣おう」と考えるのは自然だ。
一方、日本の私の諸先輩の方々にとっても、中国に自分たちの経験を伝えることは大きな喜びだったのではないか。これは、一つには、当然ながら、自分たちの戦後の復興は、アジアの国々にお手本を提供し、韓国、台湾、シンガポールなどが次々に工業化に成功し、経済力を高めてきたのだから、中国にも同じことが当てはまるはずだという強い自信があったのであろう。
そしてもう一つは、エコノミストとしての諸先輩の方々の心中を忖度すると、日本ではもはや高度成長モデルが通用しなくなったという寂しさがあったのではないか。日本では、高度成長の時代が終わり、国際協調、物価の安定、福祉の充実、環境保全などが新たな課題として登場する。先進国に追いつくという時代は終わってしまったのだ。しかし、中国はこれから追いつく時代がスタートし、高度成長の可能性が開けていくはずだ。そこに、自分たちのノウハウが最大限生かされる場があると考え、勇み立ったのではないか。
そして中国は実際に高度成長を達成し、経済大国となった。大来氏は、前述のコラムの中で「中国の国民経済発展10ヵ年計画は1985年までに、工業生産額年率10%以上の増加を達成することを目指している。この目標から計算すると実質年8%の経済成長を目指すことになる」と紹介している。
諸先輩が中国で第2の活躍の場を得た頃は、中国側と諸先輩側の気持ちがうまく溶け合った幸せな時代だったのだなというのが、私の今回の中国訪問で得た第1の印象であった。しかし、その幸せな時代は終わったようだ。日中のエコノミスト達は、新たなベクトルで向き合うべきではないのか。これが私の第2の印象であった。その内容については次回説明しよう。
※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。
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