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小峰隆夫の私が見てきた日本経済史

円レート変動の諸影響―円高論議(3)

 

2015/08/17

 中国の話題で中断してしまったが、今回から円高論議に戻ることにしよう。5月21日「Jカーブの分析―円高論議(2)」では、私が、1978年の経済白書で、計量モデルを使って、日本で最初のJカーブの分析を行ったところまでを述べた。

 その後、円レートはプラザ合意後の大幅な円高への動きを示すなど、大変動を示すことになるのだが、ここではこのあたりの動きは飛ばして、バブル崩壊後の93年当時の円高に移ることにする。前回の円高の分析から約15年。この間私は、公正取引委員会事務局の調査課長、日本経済研究センター主任研究員、国際経済第一課長などを経て、93年1月から、経済白書の執筆責任者である内国調査第一課長となった。

 この時の93年の経済白書は、バブルの総決算をメインテーマにしており、当然ここに勢力を集中したのだが、私は円レートの分析にも大いに関心があった。前回のJカーブの後、何度も円高局面を迎え、議論が繰り返される中で、秘かに「こういう分析をすると面白いのではないか」と考えていたことが結構溜まっており、これらを経済白書の場で展開したいものだと考えていたからだ。

円レートの変動メカニズム

 93年の経済白書の第3章は「拡大する経常収支黒字と我が国の課題」、その第4節が「円レートの上昇と日本経済」で、この部分で私が温めていた分析が大々的に登場することになる。この白書の国際経済部分を担当したのが、齋藤潤氏で(当時調査官、現在日本経済研究センター研究顧問で私の隣に部屋がある)、実際に分析を担当したのが清水谷諭氏(現在リコー経済社会研究所主任研究員)である。以下、この白書で示した議論の概要を紹介しよう。

 第1のポイントは、「円レート変動のメカニズムはどんなものか」ということだ。私は、1987~89年にかけて日本経済研究センターの主任研究員を勤め、短期予測を担当したのだが、この時、円レートの変動メカニズムとしては、①日々の短期的な動きは、ニュースへの市場の反応で決まり、②2~3年の中期的な動きは、物価、金利、経常収支などの経済的ファンダメンタルズで決まり、③5~10年の長期的な動きは、購買力平価で決まるという具合に整理するといいのではないかと考えた。当時センター理事長だった香西泰氏は、「その整理は非常にいいと思います」とほめてくれたので、私はこの整理に自信があった。

 93年白書では、この考え方を踏襲して、まず購買力平価について検討し、「現実の円レートは長期的にはおおむね国内卸売物価による購買力平価の動きと平行している」と結論付けている。そしてさらに、このところ長期的に円高傾向となっていたのは「日本の物価上昇率が国際的に見ても安定していること、日本の生産性上昇率が国際的に見ても高いことによるものと考えられる」と述べている。

 次に白書は、中期的な円レートの変動要因として、経常収支と金利差を取り上げ、円の対ドルレートを、累積経常収支と内外金利差で説明する関数を計測している。その結果、①この二つの変数で現実のレートの変化をかなりの程度説明できること、②近年になるほど、経常収支の影響が弱まり、金利差の影響力が強まっていること、などの結果を示している。

 これらの点も、円レート問題を考える上で多くの重要なポイントを示唆しているのだが、この点は次回に譲る。

円レート変動が日本経済に及ぼす影響

 次に白書は、円レートの変動が日本経済に及ぼす影響について分析を進めている。

 まず、白書は、企業収益、物価への影響を述べる。企業収益については、業種によって影響度合いが異なることを示し、結果的には、製造業には収益のマイナス要因、非製造業にはプラス要因として作用するとしている。物価については当然ながら、物価引き下げ要因となるが、輸入依存度が高まっているので、かつてよりも物価を引き下げる力は強まっているとしている。

 続いて白書は、円レートの変動が経常収支に及ぼす影響を分析する。この部分が私がアイディアを温めていた部分だ。課長補佐時代に、日本で初めてJカーブを描いて見せた私なのだが、その後の展開を見る中で、Jカーブ分析についてのいくつかの改善点を思いついていた。一つは、前回のJカーブはドルベースだったのだが、これを円ベースで描いてみることだ。日本経済は円ベースで動いているのだから、Jカーブも円ベースで描くべきではないかと考えたのだ。

 もう一つは、初期条件を考慮することだ。Jカーブは、円高が生じた時に輸出額と輸入額がどんな関係になっているかが影響するはずだ。すると、「いつ円高が生ずるか」という時期によってJカーブの形状が異なるはずだと考えたのだ。さらに、輸出入額は貿易相手国によって異なるのだから、「地域別のJカーブ」を描くことも可能だと考えた。

 この時の白書では、これら「円ベースのJカーブ」「初期時点を考慮したJカーブ」「地域別のJカーブ」を全て描き出している。私がやろうと思っていたことは全てやったという感じだ。例えば、図で示したのは、初期時点を考慮しない場合と考慮した場合のJカーブの比較である。図中の②が、当時の初期条件を考慮した場合のJカーブだが、このJカーブを描いたことによってやや驚くべきことが分かった。

 Jカーブの説明としては、「短期的には黒字増加、長期的には黒字減少要因となる」というのが普通の説明だった。確かに、①の初期時点を考慮しないJカーブの場合は、短期的に黒字増加(図のプラス領域)、長期的に黒字減少(同、マイナス領域)という姿になっている。しかし、②の場合は、大きく上方にシフトしたカーブが描かれることになり、なかなか黒字減少のマイナス領域に入らないことが分かる。①の場合は、2年目には黒字が減り始めるのだが、②の場合は、3年たってもなかなか黒字が減るまでには至らないのだ。

 理論的に言えば、このことはマーシャル・ラーナーの条件を修正する必要があるということでもある。マーシャル・ラーナーの条件というのは、「輸出・輸入の価格弾性値の和が1を上回れば、為替レートの貿易収支調整効果が生ずる」というものだ。しかし、レートが変化した時点で輸出額と輸入額が異なる場合は、必ずしもこの条件を満たしても貿易収支が調整されないのである。

今に生きる白書の分析

 以上のような93年白書の分析は、今なお私の中で生き続けている。私は今でも円レートの経済的影響についてコメントを求められたり、授業で教えたり、原稿を書いたりしているのだが(最近のものとしては、日本経済新聞2015年6月29日、経済教室「円安と日本経済(上) 持続的成長につながらず」がある)、その内容はほとんどこの時の経済白書の分析がベースになっている。

 例えば、93年の分析を最近の円安局面に適用してみると、次のようなことが分かる。

 第1に、アベノミクスが始まって以来の2012年末頃からの円安の影響は、これまで述べてきたような円高の影響を反対にすればよく分かる。

 円高は、製造業の収益の減少、非製造業の収益の増加をもたらし、物価を引き下げるということであった。すると、円安は、製造業の収益を増やし、非製造業の収益を減らし、物価を引き上げるということになる。2012年末以降、製造業の利益は大幅に増加したが、非製造業の収益はそれほど改善しなかった。そして、物価が上昇した。いずれも円安の力が大きかったのだ。

 第2に、経常収支に及ぼす影響は、初期条件の影響を受けるということだった。93年当時は、初期条件としては、輸出が大幅に輸入額を上回っていたので、なかなか黒字が減らなかった。2012年末の場合は、貿易収支は赤字であり、むしろ輸入金額の方が大きかった。このため、短期的な赤字拡大効果が強く現れ、いつまでたっても黒字効果が現れなかったのだ。多くの人が「円安になったのになかなかJカーブ現象が現われない」としていた一つの理由はここにありそうだ。

 さらに、当時の私の大きな問題意識の一つは、日本ではなぜ常に「円高は困ったこと」という反応になるのかということであった。この点も93年白書の分析で明らかになるのだが、詳しくは次回考えることにしよう。


※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。