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小峰隆夫の私が見てきた日本経済史

なぜ円高マイナス論が有力なのか―円高論議(4)

 

2015/09/24

 日本では、為替レートが円高に動くと「大変だ!大変だ!」と大騒ぎになることが多い。この点が私にはかねてから不思議であった。私は、Jカーブの分析(2015年5月21日掲載の本連載参照)以来、円レート変動の経済的影響をあれこれ考え続けてきたのだが、どう考えても「円高も円安も、経済に多様な影響を及ぼすのだから、一方的に円高が悪いとは言えない」と思ったし、むしろどちらかと言えば、円高の方がプラスであるような気がしていた。

 企画庁時代にも何度か周りの人に「円高悪くない」論を持ちかけたのだが、反応は概して冷たかった。私が課長の時の上司の審議官だったS氏は、私がこの議論を始めると、「君は現場を見ていないからそんなことが言えるのだ。中小企業の人達の意見を聞いてみれば、円高がいかにマイナスの影響を及ぼすかが分かる」と言って全然聞いてもらえなかった。どうも「円高悪くない論」は、「生きた経済の実態を知らない学者的な空論だ」「円高で苦しんでいる企業のことを考えない冷徹な考えだ」と受け取られる傾向があるようだ。

 しかし、同じような考えはある。アメリカのルービン元財務長官は、「ルービン回顧録」(2005年、日本経済新聞社)の中で、強いドルは輸入価格を引き下げ、企業をより競争にさらすことによって効率化をもたらすから悪いところは何もないと指摘している。また企画庁時代には、特に日銀関係者は、私の「円高悪くない論」に賛意を示してくれた。私は内国調査第一課長時代に、毎月、自民党の関係者に経済情勢の説明を行う機会があり、これには日銀の担当課長も毎回同席していた。この席で、会が始まる前に雑談していたら、日銀のM氏が「小峰さんの円高についての議論は、まさに正論です」といって賛成してくれた。現在の日銀関係者は、私の議論をどう思うのだろうか。ちょっと関心がある。

 ではなぜ、日本では円高マイナス論が有力になるのだろうか。

円ベースのJカーブから得られた回答

 この点について私が分析的に「なるほど」と納得したのが、経済白書における「円ベースのJカーブ」の分析であった。順を追って説明しよう。

 詳しい説明は省略するが、円高になると、円建てで見た場合、日本の輸出価格も輸入価格もともに下落する。輸出価格の下落は輸出産業にマイナスであり、輸入価格下の下落は輸入産業にプラスである。この時、円建て価格の下落率は輸入価格の方が大きい。輸入価格には日本の市場支配力が及ばず、その価格は外貨建てで決まっていることが多いからだ。すると、日本の交易条件(輸出価格/輸入価格)は改善する。交易条件の改善は日本にプラスに作用するはずである。つまり「円高は日本経済にプラス」ということだ。

 にもかかわらず円高がマイナスと受け取られやすい理由は、私が課長としての2年目の94年経済白書を書いたときに作成した「初期条件を考慮した円ベースのJカーブ」によって明らかになった。「初期条件を考慮する」ということは、交易条件の変化が起きた時点での輸出入金額の大きさを考慮するという意味だ。

 当時の図を掲げておいたので見て欲しい。出発点からいきなりマイナスの領域で推移していることが分かる。これは、円高による輸入金額節約効果よりも輸出金額減少効果の方が大きいからだ。輸入価格の下落率の方が大きいにもかかわらず、輸入減少金額の方が小さいのはなぜか。それは、出発点で輸出金額の方が輸入金額よりもずっと大きいからだ。つまり貿易収支が大幅な黒字だからだ。

 この図を見たとき、私のかねてからの疑問は氷解した。円高は、輸出産業にはマイナスだが、輸入産業にはプラスである。仮に、輸出金額と輸入金額が等しいとすると、円高は輸出価格よりも輸入価格を大きく引き下げるはずだから、輸入産業のプラスの方が大きくなる。これが「交易条件が改善することはプラス」という意味である。

 ところが、当時の日本貿易収支は大幅黒字だった。つまり、輸入関連産業の規模よりも輸出産業の規模がずっと大きかった。すると、価格変化率は輸入価格の方が大きくても、金額ベースでは輸出金額の減少の方が大きくなってしまうのだ。だから、日本では「円高は困ったことだ」という議論が支配的になるのだ。

 例えば、ある一家の収入は、お父さんの稼ぎ(年間600万円)と子供のアルバイト収入(年間30万円)からなっていたとする。景気が悪くなって、お父さんの収入が1割減ってしまった。そこで子供はその穴を埋めようと2倍働いたとする。子供の収入は100%も増えるが、お父さんの収入減をカバーすることはできない。出発点におけるお父さんの年収の規模が子供のアルバイト収入を大きく上回っているため、お父さんの年収の減少率以上に子供の収入増加率が高くなっても、一家の収入は減ってしまうのだ。

 日本の貿易収支が黒字だということは、輸出で稼いでいる産業の方が、輸入を中心に経済活動を組み立てている産業よりも大きいということだ。円高はその輸出関連産業にマイナスの影響を及ぼすのだから、日本全体としては「円高マイナス論」の声の方が大きくなってしまうのである。

 ということは、「円高マイナス論」が勝つか「円高悪くない論」が勝つかは、その時の初期条件、つまり経済情勢によって異なるということである。ここまで考えてきて、当時私は、「やがて日本の貿易収支が赤字になるような時代が来た時には、円高をプラスに評価する考えが力を増すことになるのかもしれない」と考えたものだ。

アベノミクス以後の円安の影響を考える

 以上の議論を最近の円安に応用してみよう。93~94年当時と最近では円レートの変動をめぐる経済環境は大きく異なっている。貿易収支は赤字傾向が続いており、今度は、輸入に関連する産業のウェイトが輸出関連産業より大きいという状態である。すると、「円安は交易条件を悪化させるので本来は日本経済にマイナスである。さらに貿易収支が赤字なのだからそのマイナスはさらに大きくなるということだ。最近、円安は輸入価格を引き上げることにより、国民的にはマイナスだという議論が出ているのはこのためかもしれない。

 ただし、物価がデフレ傾向を示しており、そこからの脱却が重要な政策課題になっているから、通常はマイナスと考えられている輸入物価の上昇をプラスと評価する考え方もあるかもしれない。

 ただしこれはデフレというやや異常事態下での話だ。やがて日本経済がデフレから脱却した後もなお貿易収支が赤字である場合は、円安は大きなマイナスとして、また円高はむしろプラスとして考えられるようになるかもしれない。世の中がそうなれば、私が「なぜ日本では円高は否定的に受け取られるのか」について悩む必要もなくなるということになる。


※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。