減速しながらも拡大―月例経済報告(2)
2015/11/25
月例経済報告の表現は、これまでもいくつかのドラマを生んできた。ここで取り上げようと考えているのは、私自身が実見し、または私自身が当事者であったバブル崩壊後の1990~96年にかけての景気判断である。この時期は、景気の山(91年2月)と谷(93年10月)を一つずつ含んでいる。つまり、バブルが崩壊して景気が後退した後、その後景気が一時的に回復した時期である。
さて、山と谷が一つずつあるということは、景気の転換点が2回あったということなのだが、その2回の局面それぞれで、月例経済報告の判断が批判を浴びることになる。すなわち、91年の山については、景気後退の認識が不十分だったという批判を受け、逆に、93年の谷については、景気回復認識が早すぎたという批判を受けることになったのである。
今回は、91年2月の山以降の景気認識について振り返ってみる。
91年2月以降の景気後退
日本経済は、91年2月以降、景気後退期に入った。今から見れば、要するにバブルが崩壊して景気が悪くなったという比較的簡単な話なのだが、渦中にあってはそんな簡単な話ではない。
景気指標で見ると、経済成長率(実質)は、バブル期の87~90年度までは5~6%もの高成長を記録していたが、91年度は2.2%、92年度は1.1%、93年度はマイナス1.0%であった。鉱工業生産指数はもっと激しく、91年度0.7%減、92年度6.3%減、93年度4.0%減という有様である。企業収益(法人企業統計季報による全産業経常利益)の落ち込みもまた大きく、91年度12.1%減、92年度26.5%減、93年度9.7%減という具合である。
ところが政府の景気判断は、切り替わりが遅く、しかもはっきりしないものが続いた。すなわち、当時の月例経済報告の基調判断文をたどってみると、91年8月までは「国内需要が堅調に推移し、拡大傾向にある」という表現が一貫して続いていた。これが9月に「緩やかに減速しながらも引き続き拡大している」となった(10月も同じ)。
9月の時点で「それまでのような一本調子の景気拡大ではない」という認識の変化が示されたわけだが、ここで二つの批判が出る。一つは「遅い」ということだ。事後的に見ると、景気の山は91年2月だった。およそ半年間も従来の判断を変えなかったことになる。
もう一つは「表現が分かりにくい」ということだった。減速しつつ拡大?確かに分かりにくい。「減速している」というのであれば、景気が悪くなったと読めるが、「拡大している」というのであれば、景気は依然として良いということになる。一体どっちなんだというわけだ。
減速しつつ拡大の真意
私は当時経済企画庁の外(外政審議室)に出向中であったので、実際渦中にあったわけではないが、この「減速しつつ拡大」という表現を主導したのは吉冨勝調整局長であったと言われている。吉冨氏は私が知る限り、経済企画庁の歴史の中でも、香西泰氏と並ぶ最強エコノミストの双璧である。それまでは国際通貨基金(IMF)のエコノミスト、調査局、研究所などの調査研究部門にのみ籍を置いていたのだが、突然、行政的なポストとして最も責任が重い調整局長に抜擢され、多くの人を驚かせた。
調整局長というのは、経済見通し、経済政策の総合調整の責任者であり、各省との利害調整、政治的な立ち回りを求められるポストだ。多くの人は「調査・分析の仕事しかやったことがないのに大丈夫か?」と心配したのだが、吉冨氏は強力な手腕を発揮して、たちまち政府全体の経済認識、政策運営をリードし始めた。私の耳にも「史上最強の調整局長」という声が聞こえてきていたほどだ。私はかねてから「調査・分析能力に秀でている人は、行政能力も高いが、その逆は必ずしも正しくない(行政能力の高い人が、調査・分析能力も高いとは限らない)」という仮説を心に抱いていたのだが、吉冨氏は私の仮説の正しさを証明したことになる。その最強エコノミストが展開した論理を、私なりに説明すると次のようになる。
景気の山谷の判断は、基本的には経済指標の「変化の方向」に基づいている。すると、景気の山を過ぎた直後には、「方向は下向きだが、水準は高い」という状態が現われる。これは景気論議の宿命ともいうべきものだ。91年当時はバブルの末期で、経済活動の水準は極めて高かったため、この宿命的な矛盾がより鮮明に現われることとなった。端的な例は雇用である。バブル末期の日本は極度の労働力不足状態となっていたため、91年以降景気が後退局面に入ってからもしばらくの間は、労働需給が緩和しなかった。例えば、有効求人倍率は、91年3月の1.47をピークに低下し始めたものの、92年5月の段階でもなお1.14倍であったし、完全失業率は92年度平均で2.1%という低水準であった。
この点は、政策が絡んでくるとさらに混乱してくる。一般に景気が山を打って下降したという認識が広まると、景気対策が必要だという議論が起きやすい。しかし、政策立案者から見ると、水準は高いのだから(完全雇用なのだから)、景気対策など必要ないということになる。月例経済報告の「減速しつつ拡大」という表現は、方向としては下向きだが、高すぎた水準が適正水準に戻っている段階であり、したがって景気対策を必要とするような段階ではないという意味だと解される。
岸宣仁『賢人たちの誤算』(1994年)によると、当時吉冨氏は「有効求人倍率が1.4倍、失業率も高まらず、こんな完全雇用下で不況と呼ぶのはおかしい。明日雨が降るからといって、今日傘をさす必要があるか」と主張したとされている。
なお、当時はちょうど景気拡大期間がいざなぎ景気を超えるかどうかの微妙な時期だったことも景気判断を歪めたのではないかという指摘もある。すなわち当時は、景気上昇が91年8月まで続くと、それまでの戦後最長だったいざなぎ景気(1965~70年)に並ぶという時期だった。この「新記録を作りたい」という政治的判断が、政府の景気判断を鈍らせた可能性がある。この点については経済企画庁の事務次官を勤めた塩谷隆英氏も著書『経済再生の条件 失敗から何を学ぶか』(2007年)の中で「経済企画庁長官自らも、事務方の楽観論に乗って、高度経済成長時代の再来とばかりに、いわゆる『いざなぎ景気』の上昇期間を超えたら、自分で『いざなぎ超え宣言を出す』と張り切る始末であった」と述べている。
吉冨氏は、その強力な説得力で、この「高すぎる水準からの調整過程であり、不況ではない。よって景気政策も不必要」という主張を展開した。月例経済報告は、本来は調査局の所管だが、吉冨氏の議論は所管外の月例の表現にも影響力を及ぼし、「減速しつつ拡大」という表現が生まれたのである。
しかし、あまりにも分かりにくいという批判が強かったため、91年11月の月例経済報告では「拡大テンポが緩やかに減速しつつある。これは、インフレなき持続可能な成長経路に移行する過程にあることを示している」という表現に修正された。全く同じ意味だが、こちらの方がよほど分かりやすい。
その後、92年3月になって、余分な説明は消えて単に「調整過程にあり、景気の減速感が広まっている」という表現となった。この時点で、実際に景気後退に入ってから約1年を経過して、ようやく政府も景気後退入りを認めたのである。
吉冨氏は、日本経済新聞とのインタビューで、景気の落ち込みに対する認識が甘かったのではないかという質問に対して、次のように答えている。
「92年度の予測が結果的に間違ったことは大いに反省しています。なぜ間違ったか、私なりに整理すれば国民総生産(GNP)ギャップの広がるスピード、つまり民間部門のストック調整がこれほど大きくなるとは思わなかったことです。ストック調整は製造業設備、オフィス用ビル、家庭内耐久消費財の3分野で同時に起こりました。山高ければ谷深し。バブル期に設備投資は異常に積み上がったが、その山の高さを見誤った。当時の企業調査の回答でも投資は省力化投資が中心で能力増強は少ないとなっていたが、実際は過剰設備を生んでいた。しかも銀行のバランスシートが傷み、貸出能力が低下した。この経験は理論的にも歴史的にも少ない。もっと早く気付くべきだったのですが浅学のためです」と述べている(日本経済新聞1994年2月5日)。
「減速しつつ拡大」という考え方は、当初の段階では正しかったかもしれない。しかし、景気は下落し始めると自律的に悪くなっていくから、ちょうどいいレベルで止まるという保証はない。ちょうどいいところで止まるどころか、日本経済は深刻な不況へと向かうことになる。その意味では、「調整過程だから景気浮揚策は必要ない」という主張が、現実に経済政策の発動を遅らせた可能性もある。
吉冨氏ほどのエコノミストでも、事後的には自らの判断を反省せざるを得ないところに追い込まれた。景気をどう認識し、それをどう表現し、現実にどう政策運営をしていくかは難しいものだなと改めて感じてしまうのだ。
※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。
バックナンバー
- 2023/11/27
-
人口問題への取り組み(1) 「2000年の日本」の頃
第122回
- 2023/10/24
-
GDPと内需・外需(下) 内需主導の成長を考える
第121回
- 2023/09/22
-
GDPと内需・外需(上) 輸入が減るとGDPは増えるのか
第120回
- 2023/08/21
-
大学教員一年生
第119回
- 2023/07/24
-
1994年の経済白書(5) 白書ではこだわりのテーマをどう扱ったか
第118回