幻の景気回復宣言(上)―月例経済報告(3)
2015/12/21
月例経済報告の表現をめぐるドラマは続き、ついに私自身が登場する。私は、93年1月から94年8月まで、経済企画庁の内国調査第一課長を務めた。経済白書の執筆で有名なポストだが、月例経済報告の責任部署でもある。
93年当時の景気認識
私が内国調査課長に就任した93年初めのころは、前回書いた景気認識問題(景気の後退を素直に認めなかった)の後遺症が色濃く立ち込めていた。経済企画庁の中には、「前回のような失敗は繰り返すまい」「今度こそタイミング良く景気認識を変えよう」「次の機会にはリベンジだ」という雰囲気が満ち溢れていた。
景気認識をめぐる環境は前回と全く逆だった。前回は、「政府はいつ景気の後退を認めるのか」に関心が集まっていたのだが、91年頃は、「政府はいつ『景気回復宣言』を出すのか」に世間の関心が集まっていた。
この頃景気は依然として悪かったのだが、一部に改善に兆しがあったことも事実だった。そうした中で、上層部からは次第に「そろそろ『景気底入れ宣言』を出せないか」という声が聞かれるようになってきた。ではなぜ企画庁の上層部は景気底入れ宣言を急いだのか。その理由としては次のようなことが考えられる。
第1に、前回は景気後退の認識が遅れたことを批判されたので、今度は景気の上昇をいち早く打ち出すことで、失われた企画庁の信頼を取り戻したいという願望があったと思われる。前回の景気の山については、世間が「景気は悪くなっている」という声が多かったのに、政府は慎重すぎた。そこで、今度は世間がまだ「景気は良くなった」と言い出す前にいち早く景気の底入れを打ち出してしまおうというわけだ。
第2に、政策当局としての立場も影響していたかもしれない。当時は海外、特にアメリカから、日本の内需中心の成長の実現を強く求められており、それもあって政府は93年4月に事業規模13.2兆円の「総合経済対策」を決めたという経緯がある。この対策の効果も織り込んだうえで、政府は93年度3.3%成長という見通しを達成できると対外的にも説明していた。これに対して、大半の民間調査機関は成長率は2%台半ばにとどまるとしていた。
こうした見方に反論して、当時の経済企画庁首脳は「政府が先に決めた総合経済対策に盛り込んだ公共投資の効果について、少なく見ても今年度の国民総生産(GNP)を実質で1.1~1. 2%押し上げるはずだ。これで実質成長率が3%を超えないのはおかしい。今年度後半にはむしろ景気が過熱する可能性もないわけではない」と指摘したと報じられている(日本経済新聞93年4月17日夕刊)。こうした対立に決着を付け、政府の正しさを明らかにしたいと考えたのかもしれない。
第3は、マスコミが「政府はいつ景気の底入れ宣言を出すのか」という点に大きな関心を寄せていたことだ。マスコミは変化を好む。変化がないと見出しのある記事が書けないからだ。企画庁の幹部は(私も含めて)、マスコミから「まだ底入れ宣言を出さないのですか」「どうして底入れ宣言を躊躇するのですか」という取材攻勢を受けていた。こういう雰囲気の中では、「いつまでも同じ」ということは評判が悪くなるので、「早く変えて、マスコミを喜ばせたい」という気になっても不思議ではない。
なお、ここでそもそも政府の「底入れ宣言」や「回復宣言」とは何かということを述べておこう。政府がいつ、どのような形で景気の局面変化を「宣言する」のかということは微妙な問題である。公式には政府が「宣言する」ことはないのだが、景気判断の公式文章の上から、局面が変化したと一般に受け取られそうな時には、当然マスコミから「これは底入れ宣言か」という質問が出る。これを肯定すればいうまでもなく、また否定しなければ、それで政府が事実上宣言したと報道され、それが既成事実となるのである。
もちろん、景気判断を公にする政府の側も、そうしたマスコミ側の動きがあることを承知しているから、宣言と受け取られそうな局面では、それなりの覚悟と準備をしてマスコミに接することになる。その準備には、当然、政府内部での調整も含まれる。こうしたプロセスを全体として達観すれば、公式に宣言を出さなくても、事実上は政府が公式に宣言しているのと同じことだとも言える。
底入れ宣言への準備
こうした企画庁内の動きを受けて、月例経済報告の景気判断文も徐々に微修正しつつあった。すなわち、93年3月までは「調整過程にあり、引き続き低迷している」という表現だったのだが、4月には「調整過程にあり、引き続き低迷しているものの、一部に明るい動きがみられる」となり、5月は「調整過程にあり、なお低迷しているものの、一部に回復の兆しを示す動きが現れてきている」となっていた。
そしてついに6月の月例報告で底入れ宣言を行うというゴーサインが出た。私の段階で起草した原案は、5月と同文だったのだが、局長が上層部と相談して、表現をさらに進め「調整過程にあり、総じて低迷しているものの、回復に向けた動きが現れてきている」とすることにし、さらにその記者説明の際に、これは事実上の底入れ宣言であるということを明らかにすることを決断したのだ。
当時の調査局長はその後日本経済研究センターの理事長となった土志田征一氏だった。私の上に位置する人たちの決断だから従うしかないのだが、私も一応「かなり思い切った決断ですね。大丈夫でしょうか?」と懸念を述べた。失敗するリスクがあるという意味である。土志田局長は私の懸念をすぐに理解して、「早く楽になってしまおうよ」と言った。この一言を聞いて私はすべてを理解し、「分かりました」と引き下がって、底入れ宣言のための準備を始めた。
要するに土志田局長も私と同意見で、もしかしたら失敗するかもしれないと考えていたのだ。ここに至るまでの間も、私の知らない局面で、局長はこれまで何度も上層部から「まだ底入れ宣言をしないのか」と迫られていたのだろう。こうした要請に対して微修正を繰り返しながら何とか抵抗を続けてきたのだが、いよいよ抵抗しきれなくなった。今回抵抗しても、また来月同じことが繰り返される。もうこんなことはやめにしよう。それが「早く楽になってしまおう」という言葉の意味ではなかったかと私は想像している。
決まったからには底入れ宣言を無事実行しなければならない。やるべきことは二つあった。一つはまずは、企画庁の内部を説得することであり、もう一つは政府内を調整することである。
企画庁内の意思決定の場は幹部会である。幹部会には次官以下、局長以上の全幹部が出席して案件を審議する。月例経済報告も当然その案件に入る。説明者は私である。私は全力で補強材料を揃え、説明資料を準備して幹部会に臨み、いかに底入れ判断が正しいかを力説した。
この時の私の説明は準備万端を整え、相当力が入っていただけあって、大変評判が良く、出席していた幹部はすっかり洗脳されて「なるほど底入れという判断はもっともだ」という気になったようだ。ある局長は、「小峰君の今日の説明は実に良かった」と言って、私に立派な夕食をご馳走してくれたほどであった。
しかし私はつくづく「経済の説明というのは恐ろしいものだ」と考えたのだった。私自身は、私の説明に十分納得しているわけではないのだが、立場上材料を準備して堂々と説明すると、みんな心からそう信じてしまう。特に景気の先行きは誰にも分からないのであり、良い材料を揃えて「景気は良くなる」と説明することもできるし、悪い材料を集めて「景気は悪くなる」と説明することもできる。最後は本人の自己責任で割り切るしかない。私の説明は大成功だったのだが、何か後ろめたい気分が残った。
とにかく企画庁内部の説得はスムーズに終わった。次は政府内の調整だ。ここから波乱が待っていたのである(続く)。
※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。
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