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小峰隆夫の私が見てきた日本経済史

宮崎白書の思い出

 

2016/01/21

 宮崎勇さんが亡くなられた。今回は連載を中断して、宮崎さんのことを書いてみたい。

 宮崎さんは経済企画庁の大先輩で、私が最初に配属された内国調査課の課長だった。私の最初の上司ということになる。その後も、私と宮崎さんとの交流は続き、最近に至るまで何人かの仲間たちと、年2回程度宮崎さんを囲む会を開いていた。昨年も7月にこの会を開いている。宮崎さんは、やや足が不自由だったが、それ以外は特に変わらない様子で、みんなの話をニコニコしながら聞いていた。

 宮崎さんが帰られた後、参加者たちは「いつまでも変わらないね」「相変わらずお元気でしたね」などと言いあった。不覚にも、みんな、いつまでも変わらない宮崎さんは、永遠に変わらないのだと思い込んでいた。だから、これが最後の別れになるとは夢にも思わなかったのだった。

宮崎白書の先見性

 私が経済企画庁に入り、内国調査課に配属された時には、既にこの年の経済白書は完成していた。この宮崎白書は『豊かさへの挑戦』というしゃれた副題で、内容的にも先端的な問題意識に満ちた名白書だった。

 当時の内国調査課には参事官として赤羽隆夫氏(その後内国調査課長、企画庁次官)、課長補佐が守屋友一氏(故人、その後日本経済研究センター主任研究員、内国調査課長)、さらに日本銀行から田村達也氏(日本銀行理事、現在日本経済研究センター監事)、塩谷隆英氏(後に企画庁次官)など、錚々たるメンバーが揃っていた。

 私はこの時の白書づくりに参加しなかったので、その現場には居合わせなかったのだが、「通産省に説明に行ったら、会議室に閉じ込められて帰してもらえなくなったので、救出に行った」「会議で議論が激して灰皿が飛んだ」といった武勇伝が言い伝えられていた。個性的なメンバーが喧々諤々の議論を戦わせた末に生まれた白書だったのだ。

 この宮崎白書は、今振り返っても先見性に満ち満ちた白書だった。この白書は「高度成長の結果、自由世界第2の経済大国となった日本経済が、真の豊かさへの挑戦を始める段階に来た」という時代認識に貫かれていた。それは、「成長を通じて物的な意味での古い貧困に打ち克つ」段階から、公害の防止、社会資本・社会保障の充実などを通じて「成長の中身」を充実させる段階に来たという認識だった。

 これだけでも十分に先見性があるが、驚くべきは「情報化」を取り上げていることだ。白書は次のように書いている。「社会の情報化が進み、経済の繁栄を支える一つの要因となりつつある。情報が在来の商品やサービスと並んで、ときにはそれ以上に重要な要素として日常生活や経済活動の分野に入り込み、生活内容を豊かにしたり、生産性をあげることによって経済社会の発展を支えるようになってきている。」

 これが1969年の文書だから驚く。現在の文書だと言っても十分通用するではないか。ソローが「コンピュータの時代というが、生産性の統計では目にしない」という有名な「ソロー・パラドックス」のコメントを出したのが1987年なのだから、先見性という点で抜きんでている。恐らく当時の人はあまり意味が分からなかったのではないか。

 白書の中身もさることながら、私が実感したのが、内国調査課のメンバーが宮崎さんを尊敬しているということだった。宮崎さんを知る人は、まずはその人柄を褒める。いつもニコニコしていてほとんど怒ったことがない。仕事の進め方もバランスが取れている。部下の意見はよく聞くが、自分の言いたいことは変えない。行政的な配慮も行き届いているが、エコノミストとして経済理論、経済分析の重要性は強く認識している人だった。

 人格・見識に優れたリーダーの下に、そのリーダーを尊敬する個性豊かなメンバーが揃い、時代の変化を見据えた優れた問題意識の下に生み出されたのがこの宮崎白書であった。

構造改革の視点

 宮崎白書は今でいう「構造改革」の先駆けでもあった。宮崎さんは白書のむすびで、次のように書いている。

 「(経済的課題を解決するのに必要なことは)これまで経済政策上で通念化された思考や制度慣行を再検討し、新しい時代にふさわしいものに変革していくことである。戦後のいくつかの制度改革がその後の繁栄の枠組みを与えたことからも分かるように、人々の思考や社会の制度慣行が経済社会の進歩に与える影響はきわめて大きい。戦後作られた制度慣行の中には、今なお積極的な役割を果たしているものも多いが、制定当時の目標や意義を失ったものや、その効力が揺らぎかえって発展の障害になっているものも少なくない。」

 伝統的に白書の結びは課長の直筆だから、これが宮崎さん自身が書いたものであることは間違いない。時代の要請に応えられなくなった制度慣行は、経済発展を阻害する。新しい発展のためには、それまでの発展に貢献してきた制度慣行も思い切って変えていく必要がある。これそこが「構造改革」の思想だと言える。

 この白書を読んで以来、私は「構造改革」の考え方を強く意識するようになった。そして、宮崎白書が出てから25年が経過し、今度は私が内国調査課長になり、経済白書を執筆することになった。この時の白書も、「構造改革」が日本経済の最大の課題だという認識であった。この頃(90年代前半)から、それまで日本経済を支えてきた経済システムが、時代にそぐわないものになっていたということが、誰の目にも明らかになってきたからである。94年の経済白書の「むすび」で、今度は私が次のように書いた。

 「(日本経済が長期的に乗り越えなければならない課題の)第2は、従来型の日本のシステム、制度などの枠組みを新たな時代の要請に合ったものに変革していくことである。具体的には日本型の雇用システムの見直し、規制緩和の推進などがそれである。

 規制の根拠は決して不変なものではなく、技術進歩の進展、消費者の意識・嗜好の変化、グローバリゼーションの進展などに応じて、常に見直しが図られるべきものである。しかし、規制は一度成立すると、規制の既得権益化などによって自律的に環境変化に柔軟に対応することは難しい面があり、その結果低生産性部門の温存などの経済的コストをもたらしやすい。既得権益化した不必要な規制を見直していくことは、消費者の品質・価格面での選択の幅を広げるとともに、非生産的な活動に振り向けられていた資源をより生産的な活動に向かわせ、経済の効率化をもたらすことになる。」

 もちろん、69年の宮崎白書と94年の私の時の白書では、「何を」「どのように」変えるのか、という構造改革の対象と方向は異なっている。しかし、約四半世紀の時空を超えて、「構造改革」という問題意識が綿々と引き継がれていることが分かるだろう。

 そして現時点においても、グローバル化の進展、情報通信技術の進化、人口構造の変化などの中で、日本経済は依然として構造改革が求められている。宮崎さんの経済白書で示された政策課題は、今もなお生き続けているのである。


※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。