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小峰隆夫の私が見てきた日本経済史

思わぬ横やり―月例経済報告(4)

 

2016/02/16

 やや間が空いたので、何を書いていたのかを復習しておこう。私が月例経済報告の責任課長(内国調査第一課長)だった93年6月、経済企画庁はついに「景気の底入れ」を宣言することを決めた。私はそのための根回しを開始した、というのが前回までの話であった。今回はその続きである。

月例報告の根回し

 月例経済報告は政府の報告なのだから、基本的には全省庁の同意が必要である。しかし、全省庁がマクロ経済の判断に関心があるわけではない。大蔵省(現財務省)、通商産業省(現経済産業省、以下、通産省)の同意を得ればまずは大丈夫である。

 この時の底入れ宣言に際して、特に注意を要するのは通産省の方であった。省庁の特性として、大蔵省は景気について楽観的な判断を受け入れやすい。景気が明るければ景気対策の必要性はなくなり、財政出動を求められることもないからだ。通産省は逆である。厳しめの景気判断が出て、政府の経済支援策が必要ということになれば、自分たちの出番が増える。つまり、景気の底入れ宣言に抵抗するとすれば通産省だということになる。

 そこで通産省には、私自身が直接根回しをすることにした。「ご相談したいことがある」と先方の担当課長に連絡した上で、通産省を訪問した。私は先方の課長に、①月例報告の総括判断に「回復に向けた動きが現れてきている」という表現を加えること、②その記者説明の際に、これは事実上の底入れ宣言であるということを明らかにすることを説明した。先方の課長は、私が直接訪問してきたことを見ても、これがかなり重要な決定であることを理解し、「御趣旨は分かりました。上層部と相談します」と答えた。当然の回答である。

 こうして私としては万全の準備を整えていたところに、とんでもないことが起きた。

新聞へのリークと大臣の反応

 数日後の新聞に「企画庁景気底入れ宣言へ」という見出しで、月例経済報告に際して我々がやろうとしていたことがすっかり書かれてしまったのだ。

 こういうことがあると、資料を準備している我々は大変困ったことになる。当然「機密の漏えい」になるわけだから、上司(局長、次官)からは注意され、責任者である私は「申し訳ありません」と謝り、再発の防止に努める旨答えることになる。

 ただし、口では「申し訳ありません」とはいうものの、誰もが「そうは言われても、漏れないようにすることは事実上不可能だ」ということは知っている。月例経済報告の場合で言えば、政府全体の決定なのだから、全省庁に原案を配り、その趣旨を説明しておく必要がある。すると、各省庁のどこから漏れてもおかしくない状態となり、「どこから漏れたのか」を特定することも、「今後漏れないようにする」ことも不可能となるのである。

 しかし、今回の場合は、この新聞記事によってもっと大きな影響が出た。この時はちょうどOECD閣僚会議が開かれており、企画庁長官(船田元氏)、通産大臣(M氏)はパリにいた。パリでこの新聞記事を目にしたM通産大臣が「そんな話は聞いていない」ということになったようだ。私の根回しが通産大臣に届く前に、新聞記事が先行してしまったわけだ。この結果「通産省は反対」ということになった。このことを伝えてきた担当課長は、「内部で調整の結果、反対することになりました」と言ってきたのだが、その口ぶりからして、賛成という線で省内をまとめるつもりだったが、事前の新聞報道で大臣が気分を害してしまい、まとめられなかったのだと推測された。

 企画庁サイドは、次官、局長以下すっかり驚いて、パリにいる船田大臣にお伺いを立てた。この相談を受けた大臣の意向は「主要閣僚が反対している状況であれば、今回無理に底入れを宣言する必要はないのではないか」というものだった。しかし、企画庁上層部はもう底入れ宣言を行うという意思を固めていたので、「企画庁独自の判断として底入れ宣言をしたい」と大臣を説得した。その結果、大臣も折れて、全省庁が合意しているわけではないが、企画庁独自の判断として、底入れ宣言を行うことが決まったのである。

撤退作戦

 こうしてやや強引にではあるが、当初のシナリオの通り、月例報告の後の記者会見で、船田大臣は「景気は概ね底入れしたと判断される」と述べ、底入れ宣言騒動は一応決着した。

 しかし、残念ながら景気はその後順調に回復というわけには行かなかった。むしろ、回復傾向がそれほどしっかりしたものではなかったというデータが次々に現れ、独自の底入れ宣言は時期尚早であったことが明らかになってきた。

 6月に続いて7月は「回復に向けた動きが現われてきている」という判断を続けたが、8月には「回復に向けた動きにやや足踏みがみられる」、さらに9月には「回復に向けた動きに足踏みがみられる」と後退していった。そして11月にはついに「回復に向けた動き」が消え「総じて低迷が続いている」となった。

 この93年11月の月例経済報告についての記者説明において、私は「景気回復へ向けた動きが一旦現れたのは確かだ。しかし、円高や冷夏・長雨などの影響もあって、そうした動きが広がらず、仕切り直しになった」と説明した。底入れ宣言は誤りだったことを公式に認めたわけである。

 この時のことを考えるたびに思い出すのは当時の船田大臣の立派な態度だ。企画庁の最終的な責任者は当然船田大臣だ。その企画庁が、強引に底入れ宣言を出して、すぐにそれを引っ込めるという醜態を演じたのだから、その責任も船田大臣が負わなければならない。事実、大臣はいろいろな場で企画庁の勇み足を責められたに違いない。

 しかも、船田大臣は、前述のように、強引に回復宣言をするのはやめておいてはどうかという考えを持っていたのだ。もし、あの時、大臣の判断を受け入れて、宣言を見送っていたら、こんな醜態を晒さずにすんでいたかもしれないのだ。しかし、船田大臣は全く平然として自らの責任を甘受し、「だから私が言ったではないか」という類いの恨み言はまったく口にしなかった。

 船田氏は、この底入れ宣言騒動の直後、所属派閥(小沢派)の事情で閣外に去り、新進党の結成に加わることになる。私はその後あるパーティーでお顔をお見かけしたので、「あの時はご迷惑をおかけしました」と謝った。船田氏は「いやいや。かえって話題になってありがたかったですよ」と一笑に付した。私は「人の上に立つものはかくあらねばならないのだな」と大いに感心した。

 こうして、91年頃の「景気後退の認識が遅すぎた」という批判を挽回しようと、早めに出した回復宣言は、今度は「景気回復の認識を早まった」という批判を浴びて終わることになった。しかし、月例の判断をめぐる物語にはまだ続きがあるのだ。(続く)


※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。