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小峰隆夫の私が見てきた日本経済史

慎重化した景気判断―月例経済報告(5)

 

2016/03/16

 経済企画庁は、91年以降の景気下降期には、楽観的な景気認識ですっかり評判を落としてしまった。この汚名を返上すべく、今度は早めに「景気の底入れ」を宣言したのだが、早すぎて撤回に追い込まれた。話はまだ終わらない。

微妙な修正

 前回述べたように、経済企画庁は93年6月の月例経済報告で、それまでの「総じて低迷しているものの、回復に向けた動きが現れてきている」という総括判断を掲げ、事実上の景気回復宣言を行った。7月の月例報告も同じ表現を維持した。ところが景気はなかなか良くならないので、今度は8月から徐々に表現を後退させていった。この辺のプロセスは、私自身が担当課長だったので克明に覚えている。月例の表現を修正していくことはどのようなものかを知っていただくためにも、ややマニアックになるが、細かく説明してみよう。

 8月の月例の表現は、「総じて低迷する中で、回復に向けた動きにやや足踏みがみられる」とした。やや後退という感じである。続いて9月は「総じて低迷する中で、回復に向けた動きに足踏みがみられる」となった。「どこが違うのか?」と思う方もいるだろうが、「やや」が取れた分だけさらに後退したということである。

 問題は10月の月例であった。ここで幹部の状況を説明しておこう。私が担当課長で、その上にN審議官がおり、その上が土志田局長、その上は事務方の最高責任者の次官である。6月の回復宣言を出した時はF次官だったのだが、その後T次官に交代していた。F次官は回復宣言を主導したくらいだから、楽観的な景気の見方をしていた。これに対してT次官は、早目の回復宣言は失敗だったと考え、月例の表現を徐々に後退させようとした。

 我々が考えた10月の月例の判断文の原案は9月と同文であった。担当者としては、2か月連続で表現を後退させたのだから、とりあえずこれで十分だと考えたのだ。しかしT次官は納得せず「少しでもいいから表現をさらに後退させるべきだ」と主張した。とはいってもあまり大きく表現を修正すると、関係省庁との調整が難しくなる。「そんな微妙さを表現できるうまい文章はあるのか。さてどうしたものか」と会議は暗礁に乗り上げた。

 ここで私は、「この修正なら次官も納得し、関係省庁も説得できそうだ」と思われる表現の変更を思いついた。それは、文章の順番を入れ替えて「回復に向けた動きに足踏みが見られ、総じて低迷している」という表現である。微妙なところだが、順番を入れ替えたことによって、「回復に向けた動きの足踏み」よりも「総じて低迷」の方が強調されることになるから表現は後退している。しかし、構成要素は変わっていないから、大きな反対は出ないだろう。

 さてここから役人的な配慮が必要となる。私の上位者である局長の了解を得ないまま、この場でいきなり新提案を出すことはできない。局長の頭越しの提案になってしまうからだ。もし局長が私の提案を支持しない時は、次官の前で内部紛争を展開することになってしまう。しかし、会議の場では局長の隣にはN審議官がおり、その隣が私だ。よって局長に耳打ちすることもできない。そこで私は修正案を紙に書いて隣のN審議官に渡した。N審議官は一読してすぐにその意図を察し、「小峰課長からです」といってそのメモを局長に渡した。局長も一読して瞬時に「これなら行けるかもしれない」と判断したのだろう、次官に「小峰課長のアイデアですが」と断って修正案を口頭で披露した。次官もまた瞬時に「うん。それはいい。そうしよう」と強く賛成した。こうして10月の月例の表現が決まった。

 読者の皆さんは、こういう話を聞いてどう思うだろうか。「そんな細かいことに時間を使っているのか」と思う人も、「なるほど一つの文章にも随分議論の積み重ねがあるのだな」と思う人もいるだろう。ただ、当事者である私には、そんなことを考えている余裕はない。とにかく限られた時間内に「最高責任者である次官の意向に応え」かつ「データ的にも無理なく説明可能で」かつ「関係省庁も納得する」表現で経済の現状についての政府としての公式見解を文章にせよというのが与えられた職務なのだから、全力でその職務を全うするしかないのだ。

実は回復していた景気

 こうして回復宣言は取り下げられ、月例経済報告の判断は、当分の間、慎重な表現が続くことになる。

 その後の月例経済報告の判断文の推移をさらに辿ってみよう。93年10月には、「回復に向けた動き」は消え、単純に「総じて低迷が続いている」となった。要するに「景気は悪いです」と素直に認めたわけだ。その後も94年3月まで同じ表現が続く。そして、94年4月になると「一部に明るい動きがみられるものの、総じて低迷が続いている」という表現になり、再度、景気回復の動きが出てきたことを示し始める。6月にはこれが「総じて低迷しているものの、一部に明るい動きが見られる」となった。さっきの言葉の順番変更と同じことを、今度は明るい方向で使ったわけだ。以下、詳しい説明は省略するが、表現の明るい方向への微調整が続き、11月には「引き続き明るさが広がってきており、緩やかながら回復の方向に向かっている」となって、ついに「回復」という言葉が復活したのである。

 こうして政府は回復局面入りを認めたわけだが、この時には政府は回復宣言を出さなかった。逆に、政府が回復宣言を出したとは受け取られないようにしたとさえ言える。94年9月の月例経済報告の際の記者会見で、当時の高村正彦経済企画庁長官は、わざわざ「景気回復宣言だとは思っていない」と発言している(日本経済新聞、1994年9月9日夕刊による)。

 では、事後的に見た時、本当の景気の谷はいつだったのか。内閣府の経済社会総合研究所は、ヒストリカルDIという手法を基に、景気の山・谷の日付を認定している。この景気基準日付によると、景気の谷はなんと93年10月なのである。

 全く皮肉なものだ。回復宣言を撤回した93年11月には、実は景気は回復過程に入っていたのである。確かに、93年6月の景気回復宣言は早まっていたとも言えるが、事後的な景気の谷より3か月早かっただけだから、やや強弁すれば「先見の明があった」とも言えそうだ。そして、「景気回復ではありません」と否定した94年9月は、既に景気回復過程に入って約1年が経過していたということだったのである。

 バブル崩壊後、景気の山の判断が遅れたという失敗から挽回しようと、今度は谷の判断を早まった。そして、その失敗から挽回しようと、今度は谷の判断が遅れた。月例報告は、それぞれの時点で最善を尽くそうとする。しかしその結果は、事後的に見れば、過剰反応を繰り返し、大きく蛇行しながら進んでいたということだったのである。


※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。