もはや戦後ではない―経済白書70年(2)
2016/05/17
経済白書は多くの名言を残しているが、その白眉は1956年度(昭和31年度)白書に登場した「もはや戦後ではない」という言葉だろう。歴代の白書執筆者は「自分も歴史に残る名言を残したい」と考え、知恵を絞ってきたはずだが、これを超える名言は生まれていない。私も課長時代に「何とか後世に残る名言を」と散々考えたのだが、やはり駄目だった。
「もはや戦後ではない」の本当の意味
この「もはや戦後ではない」という言葉は、「もう戦後から復興するという時代は終わった。これから新しい時代に入っていくのだ」という時代の雰囲気を象徴する言葉として使われることが多い。
例えば、2015年4月5日の日本経済新聞「企業転変 戦後70年」では、次のように使われている。「『もはや戦後ではない』と経済白書が締めくくったのは56年。高度成長期はその2年前から第一次石油危機の73年までの19年を指すことが多い。奇跡的な経済復興、終りを告げた占領政策。時代の高揚感を言い表すなら『速く、高く、大きく』の3語だろう」
原典に当たってみよう。第1回(2016年4月21日掲載の本連載)の白書について書いた時は、貴重な古文書を日本経済研究センターのライブラリーから借り出してきたわけだが、56年度白書は簡単だ、内閣府のホームページ上で54年度以降の白書が全文公開されているからだ。全くネット社会とは便利なものだと実感する。なお、ついでに言わせてもらえば、内閣府がなぜ54年度以降しか公開しないのかは、私には謎である。せっかくだから、歴史的な第1回白書も含めて、47~53年度の白書も是非公開して欲しいと思う。
さて、原典に当たってみると、有名な「もはや戦後ではない」という言葉が登場する部分は次のようになっている。「戦後日本経済の回復の速やかさには誠に万人の意表外にでるものがあった。それは日本国民の勤勉な努力によって培われ、世界情勢の好都合な発展によって育まれた。しかし敗戦によって落ち込んだ谷が深かったという事実そのものが、その谷からはい上がるスピードを速やからしめたという事情も忘れることはできない。経済の浮揚力には事欠かなかった。(中略)消費者は常にもっと多く物を買おうと心掛け、企業者は常にもっと多くを投資しようと待ち構えていた。いまや経済の回復による浮揚力はほぼ使い尽くされた。(中略)もはや『戦後』ではない。我々はいまや異なった事態に当面しようとしている。回復を通じての成長は終わった。今後の成長は近代化によって支えられる。そして近代化の進歩も速やかにしてかつ安定的な経済の成長によって初めて可能となるのである。」
つまり、白書は「これから新しい成長が始まる」という希望を述べているのではなく、これまでの成長を支えてきた復興需要というエンジンがなくなるのだから、「これからは厳しい時代に入る」と言っているのだ。そしてその見通しは全く外れた。日本経済は、エンジンがなくなったどころか、更に強い成長力を発揮して高度成長の時代に入っていったのだ。オリジナルの「もはや戦後ではない」は、特に先見の明を持って時代をとらえていたわけではなかったのだ。
ただし、以上の話は、経済白書のことを知っている人には周知の事実であって、それ程意外な話ではない。私もこれまで何人もの先輩からこの話を聞かされてきた。「君は、『もはや戦後ではない』という有名な言葉を知っているだろう。あの言葉は、本当はどんな意味で使われていたのか知っているかね」と問われる。「いや、知りませんが」と答えると、「実はね、この言葉はかくかくしかじかの意味で使われていたのさ」というやり取りが、延々と繰り返されてきた結果、経済白書関係者の中では常識化したというわけである。
この56年度白書の執筆担当課長は、後藤誉之助氏だった。後藤氏は、キャッチフレーズ作りの名人だったようである。金森久雄編の「再論経済白書 戦後経済の軌跡」(90年、中央経済社)の中で、後藤氏の次の次の白書担当課長だった宍戸寿雄氏は、後藤氏のことを「キャッチフレーズ作りの名人でもあったが、同時に、キャッチフレーズの方が先にできていて、経済分析をそれに合わせようと無理をした面もあった」と述べている。
転型期論への道
その後日本経済は高度成長の道を歩むことになるのだが、後藤氏は、「もはや戦後ではない」と考えた時と同じ問題意識を持ち続け、1958年度白書(これも後藤氏が担当課長)には、行き過ぎた設備投資のもたらす設備過剰、生産過剰が日本経済に中期的な停滞局面をもたらすだろうという予測が登場する。
原典に即して引用すると、まず「行き過ぎた投資ブームの反動で本格的な立直りまでには前回のデフレよりある程度長い期間を要するであろう。趨勢的には(昭和)32~3年を第二の屈折点として経済成長率は鈍化するであろう。」と日本経済の停滞が予測されている。
その理由の一つは、設備投資である。原典では「景気循環における上昇の原動力はいうまでもなく、民間投資ことに設備投資である。その投資動向の先行きにしばらく停滞が続くのではないかと思わせる事情が潜んでいるところに問題がある。その理由は、いうまでもなく過去2カ年の投資ブームがあまり激しかったため、設備ができ過ぎてさしあたっては投資機会が縮小すると思われることだ。」としている。
もう一つは、お馴染みの復興需要の消滅だ(しぶとい)。原典では「生活水準の戦前への復帰などを背景として、我が国の消費購買力も戦後一時期に示したあの浮揚力を失ってきたように思われる」となっている。
しかし、この予測も高度成長の継続によって覆されることになる。後藤氏は6回も経済白書を書いたのだが、この58年度白書が後藤氏最後の白書となった。後藤氏はその後、アメリカ大使館に赴任したのだが、アメリカ滞在中にノイローゼになり、帰国後間もなく急死する。後藤氏はアメリカで、自分の予測が当たらなかったことをかなり苦にしていたとも言われており、それが精神的苦痛の、またひいては早すぎる死の原因となった可能性もある。
その後、61年度白書の執筆課長となった宍戸寿雄氏は有名な「転型期論」を展開する。原典では「日本経済の高成長が、設備投資を軸として展開してきたことは、将来の成長力を高めるための布石として高く評価しなければならないが、設備投資の強成長も今までのような増加テンポがいつまでも続きえないということを見逃してはならない」となっている。見るからに、後藤氏の58年度白書とそっくりだ。
前掲書「戦後経済の軌跡」の中で宍戸氏は「(転型期説については)私も後藤誉之助氏の後継者を持って任じていたこともあって、私の担当する経済白書で故後藤誉之助氏の無念を晴らしたいという気持ちがあったことは否めない」と述べている。
この宍戸氏は、その7~8年後白書担当課長の上司に当たる調査局長となる。この時、経済企画庁に新人として採用され、白書担当の内国調査課に配属されたのが私である。この時、新人の私と伝説的大エコノミスト宍戸局長との間でちょっとドラマチックな出来事があった。(続く)
※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。
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