一覧へ戻る
小峰隆夫の私が見てきた日本経済史

白書づくり1年生―経済白書70年(3)

 

2016/06/15

 経済白書に関して、本連載では第1回の都留白書(政府も家計も企業も赤字)と1956年の後藤白書(もはや戦後ではない)を取り上げてきた。これらの白書は私が経済企画庁に入る前の話であり、当然私自身は関係していない。今回から私が関係した白書のことを書いていくことにしたい。

内国調査課の新人の役割

 私は1969年に経済企画庁に入り、内国調査課に配属された。内国調査課はいくつかの班に分かれており、それぞれ係長クラスの「班長」と数名の班員という構成である。1年生の私は総括班に配属された。総括班というのは課の仕事全体を統括する班で、1年生はここに配属されるのが慣例となっていた。その1年生は2年目には別の班に配属替えとなり、次の年の1年生が総括班に入ってくる。2年目の人は1年目の新人を指導するというサイクルが確立していた。ちなみに私は2年目に財政金融班に配属替えとなり、その後当センターの理事長になる八代尚宏氏が1年生として総括班に配属された。つまり私は1年目の八代氏を指導する役割だったわけだ(ちょっと自慢)。

 総括班の新人の役割は要するに何でも屋、雑用係である。月例経済報告の資料を編集したり、印刷物を校正したり、課長用のグラフを書いたり(当時はグラフは手書き)、はては弁当の注文を取ったりする。私もそんな雑用をこなして数ヵ月たった時、ついにエコノミスト的な仕事が回ってきた。年間回顧の一部の原案をまとめるという仕事である。

 年間回顧というのは「ミニ白書」とも呼ばれる報告書である。毎年年末に、1年間の経済を振り返ってトピックを分析し公表する。分析の中心は課長補佐が担う。その後に続く経済白書の予行演習のような位置づけであった。当時の年間回顧は、現在でも「日本経済〇〇年」というシリーズで作成され続けており、私はいまだに愛読し続けている。

 私は貿易部分の原案を書くようにという割り当てを受けた。分析を担当するのは貿易班で、班長は3年先輩の塩谷隆英さんであった。私は貿易班から材料を受け取って、張り切って文章を書き始めた。

貴重な教訓

 さて、この時貿易班から出てきた材料の中に、日本の生産に占める輸出の比率はそろそろ上限に達してきたので、今後輸出の伸びは鈍化するだろうという分析があった。その根拠は、企業にアンケート調査をしてみると多くの企業が最適輸出比率を〇割程度としている(何割だったかは忘れた)。しかるに日本全体の生産に占める輸出の比率はその〇割に近づいている。よって輸出はこれ以上伸びないだろうというロジックであった。私はこの分析を見て即座に「これは使えない」と判断した。理由は簡単だ。仮に個々の企業が〇割を輸出の上限だと考えても、その企業が製造している製品そのものの生産全体が大きく伸びたり、その企業そのものが大きく伸びたりすれば、生産全体に占める輸出の比率は〇割を超えて伸びていくことが可能だからだ。

 私はこの分析をすっぱりカットして文章をまとめ、総括班のトップである田村達也さん(日銀から出向、つい最近まで当センター監事)に提出した。この時私は、自分がとんでもないミスをしていることにまだ気が付いていない。

 数日後、田村さんに呼ばれて、私の原案がトラブルになっていることを知った。貿易班長の塩谷さんが、自分たちの分析が断りもなしに削られたといって猛然と抗議してきたというのだ。私が削除した理由を説明すると、田村さんは「理由が問題なのではない、分析を担当した班に相談しないで削ったことが問題なのだ。要するに君は根回しを怠ったのだ」と諭された。この抗議があって、結局貿易班の分析は復活することになり、年間回顧全体の案がまとめられた。

 なお、私はこの時、文章の書き方も田村さんから学んだ。私が書いた文章を持っていくと、田村さんは私の目の前で、「この部分はこうした方がいい」と説明しながら私の文章をどんどん添削していった。私はそれを見ながら「なるほど経済の報告書の文章はこういう風に書けばいいのか」と思った。思っただけでなく、私はこの時、文章の書き方をほぼ完全にマスターしたようだ。結論を最初に書き、なるべく短いdetachedな文章を心がけ、自分がそう判断する理由を「第1に、‥、第2に‥」という形で書いていけばいいのだ。私はその後、自分でも驚くほどたくさんの本を書き、論文を書き、企画庁の中でも「とにかく大量に書く人」という評価を得ることになるのだが、その基礎はこの時の田村さんの訓練で鍛えられたのだ。

 それから長い年月が経過した後、ある会合の席で、私は田村さんにこの時の話をした。田村さんはすっかり忘れていたのだが、私の話を聞いて「そうか。小峰君の文章力を鍛えたのは自分だったのか。よし、今晩家に帰ったら女房に話して自慢しよう」と喜んでくれた。

 私は、経済の議論は、自分が分かっただけでは意味がないことを知った。その自分の考えを分かりやすい明瞭な文章で表現し、さらにそれを組織的に通していくための根回しに意を用いる必要があるのだ。

 さて、私が削除し、それが逆転復活した輸出の分析には、さらに意外な展開が待っていた。年間回顧の原案は課長のチェックを受け、次に調査局長のチェックを受ける段階に来た。局長は前回本連載に登場した高名なエコノミスト宍戸寿雄氏である。各担当者が順次局長室に入って担当部分を説明していく。私は総括班なのでその説明に立ち会っていた。問題の貿易班の分析が現われたとき、局長が「これはどういう意味ですか」と質問してきた。塩谷さんが分析を説明すると、宍戸局長は「それはおかしい。個々の企業が考える輸出の限界を合わせたものが日本全体の輸出の限界になるとは限らないのではないですか」と言った。私の考えと全く同じだ。

 この局長コメントによって、この分析の扱いは再び逆転し、削除されることになった。多くの人は、新入生の私が主張していたことと同じことを、最高責任者の局長が言い出したのでさぞ驚いたことであろう。この時私は「自分も経済調査の分野で何とかやっていけるのかもしれない」という感じがして嬉しかった。

 全てが片付いた後、塩谷さんは私のところにやってきて、「結局、最初の段階で、小峰君の賛同を得られないような分析を提出した我々が間違っていたんだね」と言った。私の手続きミスを責めることなく、率直に自分たちの不十分さを認めた発言に私は大いに心を動かされた。「なるほど上に立つ人はかくあるべきだ。しかし自分にそんな度量があるだろうか」と私は更に反省したのだった。

 塩谷さんはその後いろいろな局面で私の後ろ盾になってくれた。この話の約20年後、私を内国調査課長にすべく力を発揮してくれたのも塩谷さんであった。結局塩谷さんは、官僚の最高ポストである事務次官にまで上り詰めることになる。その人間力からしても当然だったと言えるだろう。

 田村さんや塩谷さん、そして宍戸局長。私は、多くの優れた先輩に導かれながら、エコノミストとしての第一歩を踏み出したのだった。

※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。