経済白書のまとめ方-経済白書70年(4)
2016/07/19
今回は白書の担当課長である内国調査課長が、どのように白書をまとめていくかについて書いてみたい。その「白書のまとめ方」が目に見えない摩擦を引き起こすのを目の当たりにした経験があるからだ。
私は、役人になって最初に内国調査課に配属された後、課長補佐としてもう一度内国調査課に戻って、白書の原案を執筆し、更に93年には課長となって責任者として経済白書を取りまとめた。だから、白書の作成プロセスについては、私は相当熟知しているのだが、その私の経験を踏まえて改めて考えてみると、経済白書のまとめ方は次の3つに大別できそうだ。
経済白書に3つのまとめ方
第1は、「ホチキス型」だ。内国調査課には各分野の担当者がいて、専門的な分析材料を提供する。それを3~4人の補佐が文章化する。これら課長補佐クラスのスタッフにはいずれも選り抜きのエコノミストを配してあるから、この原案を集めるだけで相当のレベルの白書になる。補佐クラスのスタッフが特に優秀な場合は、むしろ課長が手を入れない方がいい場合さえある。すると、自分ではほとんど文章は書かないで、スタッフの書いたものをほぼ集めるだけで済ます課長が現われる。これがホチキス型のまとめ方である。
第2は、「植木の手入れ型」だ。スタッフの書いたものを生かすのはホチキス型と同じだが、植木屋の親方が最後にちょこちょこっと鋏を入れるように、重要なところは自分で書くというタイプだ。
そして第3が、「全力書下ろし型」だ。スタッフは材料を出すだけであり、文字通り最初から最後まで自分で執筆するというタイプだ。
「植木の手入れ型」で名白書
さて、前回までで書いてきたように、私は、1969年に新人として内国調査課に配属され、71年の8月まで在席した。私が配属された時の課長は、宮崎勇氏で、私が配属された時には既に1969年の経済白書は完成していて、発表を待つばかりのタイミングだった。この白書を最後に宮崎氏は交代して同課を去ったので、私自身は宮崎さんが白書を執筆するところを生で見ていたわけではないが、宮崎課長は典型的な「植木の手入れ型」だったようだ。しかも相当腕のいい植木の手入れ型だったようで、課員の評判がすこぶる良かった。
植木の手入れ型は、手を抜いたり、変な文章を書き入れたりすると課長の実力を疑われるし、自分の好みで修正しすぎると「自分たちの苦労が実を結ばなかった」と思われてしまうことになる。宮崎さんは、スタッフの原案を生かしながらも、本当に重要なところは自分で力を入れて執筆し、しかもその部分は非常に良くできていたのだ。
それまで経済白書を担当してきた伝統的な官庁エコノミスト達は、全力書下ろし型が多く、作家のように旅館に缶詰めになって書くというケースもあったようだ。宮崎氏は経済白書は初めての経験だったのだが、いわば(当時の)現代風の執筆スタイルを持ち込み、植木の手入れ型で名白書を作り上げたのだった。
その宮崎さんの後に赴任してきたのが内野達郎氏だ。筆頭課長補佐の守屋友一氏は宮崎時代からの留任となった。守屋氏は、新人の私をかわいがってくれて、何かにつけて指導してくれた人だ。守屋さんはこの数年後に当日本経済研究センターの主任研究員となり、更にその数年後に内国調査課長となって白書を執筆した。その時補佐役となったのが再び内国調査課に戻った私であった。
守屋さんは宮崎さんを大いに尊敬していたから、知らず知らずのうちに業務全般について宮崎氏のやり方をそのまま踏襲する傾向があった。これが翌年の1970年白書をまとめる時に問題化した。この時守屋さんは、当然のことのように宮崎さんのような植木の手入れ型の日程を組んだ。一方、伝統的官庁エコノミストであった内野氏は、かつて自分が見てきた内国調査課長のように書下ろし型で書くものとだ思い込んでいたようだ。ところがふたを開けてみると、補佐クラスがばっちり原案をまとめ、課長は短期間で手を入れるだけという日程がセットされていた。内野さんは仕方なく日程通りに、簡単に手を入れるだけで白書をまとめたのだが、相当不満がうっ積していたようで、その後、守屋さんと不和になった。
70年の白書が終了してしばらくたった時、守屋さんが交代することになった。私は総括班で内野氏と親しく接していたのだが、まだ新課長補佐が誰であるかが明らかにならない段階で、私に「今度は非常に優秀な補佐が来ます」ときっぱり断言していた。そして赴任してきたのが若き香西泰氏であった(その後、当日本経済研究センター理事長、会長、現名誉顧問)。
渾身の全力書下ろしも・・「悲劇の経済白書」へ
そして71年経済白書の作成が始まった。中心となったのは内野課長(最終責任者)、香西補佐(具体的作業の中心)、八代尚宏(新人の雑用係)という、今にして思えばかなり強力なラインであった。私は2年目に入ったので、中心ラインから外れ、財政金融問題の担当となった。
70年白書で思い通りの白書がまとめられなかったと思っていた内野氏は、今度こそという思いで「全力書下ろし型」の日程を組んだ。当時渋谷に経済企画庁が管理する寮(かつての屋敷跡で、会議や宴会ができる施設)があったのだが、内野氏は相当の期間、この寮の一室を占拠して文字通り缶詰めになって白書を執筆した。この缶詰には八代氏が付き添い、資料の伝達や役所との連絡調整に当たった。先日、八代氏と話す機会があったのだが、八代氏は「この時は私が付きっ切りでお世話しました。大変でしたが、内野さんは新人の私にいろいろ相談してくるので、大変勉強になりました」と懐かしそうに語っていた。
強力な課長補佐に支えられて、希望通りの日程を組んだのだから、今度こそ内野氏の思い通りの白書が完成した。ところが、この白書の公表直後にニクソンショックが起きて円が切り上げられ、白書がこの問題にまったくノータッチであったことから、結果的に大不評の白書となってしまった。この話は、本連載の「タブー死すべし ニクソン・ショック(下)~悲劇の経済白書」(2013年11月20日)で詳しく書いたのでここでは繰り返さない。強力な課長補佐であった香西氏が、白書の原案から「円」という言葉を削りまくるという作業を指揮し、その結果評判の悪い白書が誕生してしまったことになる。「今度こそ」という思いで臨んだ内野氏は、言葉には表せないほど残念だったに違いない。
先人の思い、経済白書の歴史の重み
その約20年後、私が内国調査課長に就任した時、私は、既に役人を辞めて上智大学で教鞭をとっていた内野氏から、次のような激励の葉書を頂いた。
葉書には「内国調査課長御就任、誠におめでとうございます。私はかねてから、現下の厳しい環境下で、企画庁エコノミストの名誉を回復し、ここ数年の間に失われつつある信頼を取り戻すことができるのは、貴君を置いて他にないと考えていました。どうかご健康に充分留意され、これまで蓄えられてきた学識と経験を十二分に発揮して、立派な経済白書をまとめられることを心から期待しています。」とあった。
内野氏は自らの課長時代を振り返り、私には自分の苦い経験を繰り返して欲しくないと願いながら、激励の言葉を送って来たのだと思うと胸が熱くなった。この葉書を見て、私は改めて経済白書の歴史の重みを実感し、後から後悔しないような白書をまとめようと決意を新たにしたのだった。
※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。
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