経済白書の存在意義を考える(上)-経済白書70年(5)
2016/08/19
これまで延々と経済白書について書いてきた。書こうと思えばまだいくらでも書けそうだ。おまけに、法政大学での教鞭が今年度で終わりなので、研究室を整理していたら、かつて経済白書を書いた頃の一次資料が続々と出てきた。これも使って書いていくと、いつまでたっても終わりそうにない。
しかし、経済白書のことばかり書くのもどうかと思われるので、今後は折に触れて取り上げることにして、白書については今回と次回で一区切りにしようと思う。そこで、やや改まって「経済白書の存在意義」について考えてみたい。
経済白書がその存在意義を十分発揮していた頃の経験を踏まえて考えてみると、かつての経済白書は次のような2つの役割を果たしていたように思われる。
経済論議を巻き起こす触媒
第1は、多くの人々に、改めて日本経済の置かれた状況を考える材料を提供し、議論を引き起こすという役割である。
少なくとも私が担当課長を勤めた93~94年頃までは、経済白書は多くの人の関心を呼んでいた。例えば、かつての経済白書(現在は経済財政白書)は、それが発表されると同時に、全文を掲載した経済誌(週刊東洋経済、エコノミスト、ESP)の臨時特集号が発売されていた。それだけ需要があったということである。
また、内国調査課のスタッフは分担して全国各地を訪れ、白書の内容を講演して回った。私は、役人になって2年目の新人時代に、早くも数箇所で講演をさせていただく機会があった。その後、課長補佐、課長、局長となるともっと回数が増える。課長の時は、1回の白書で20回以上は講演したのではないかと思う。
話は脱線するが、白書の講演については、特に熱心なのが九州地区であった。九州には「九州経済調査協会」という地元シンクタンクがあり、ここが窓口となって、毎年九州全県で講演会を開いていた。全県どころか、1つの県で複数の講演会を開く場合もあった。毎年、局長、課長、課長補佐が分担して九州に行ったのだが、私はこの3つのポストを経験しており、1つのポストで2回以上の白書を担当しているから、全部で8回位は九州各地を巡ったことになる。
さて、局長時代に九州に行った時のことだ。大分で地元の方が出迎えてくださり、車で私を会場まで連れて行ってくれた。その道中に話していたら、「私は、若い頃、やはり企画庁から講演に来られた若い方をご案内したことがあります。その時は、講演前に時間があったので車で湯布院をご案内したのですが、帰りの道が意外に混んでいたので、講演会に間に合うかひやひやした覚えがあります」というではないか。驚いた。その若い人というのは、約20年前の若かった時の私なのだ。私も驚いたが、「それは私ですよ」と言うと相手の方もすっかり驚いていた。
話はさらに脱線するが、当時、白書が発表された後の最初の講演は日本経済研究センターで行うというのがほぼ慣例化していた。このセンターでの白書講演会は、最も早く白書の解説を聞けるというので、別格に多くの聴衆を集めるのが常であった。私は、87~89年に主任研究員として、センターの一員としてこの講演会を見ていたので良く知っているのだ。当時の事務局長は「経済白書の講演会は別格官幣大社です」と、何だかよく分からない例え方をして、その大入り振りを讃えていた。
話はさらにさらに脱線するが(なかなか話が前に進まない)、こんな経験があるので、私が白書の担当課長になった時、初日に日経センターで講演することは、ちょっとした「晴れ舞台」を待つ感覚であった。私にとっては、白書の作成がオリンピックの試合だとすれば、センターの講演会はオリンピックの表彰式のような感じだったのである。ところが、白書の作成作業が終わりに近づいた頃、白書が発表された後の講演スケジュールの案を見ると、日経センターが初日に割り振られていないではないか。驚いて理由を聞いて見ると、「前任の課長が、どうして日経センターを初日に割り振るのだ。そんな慣例はおかしいではないか」と言い出したとのことであった。私が即座にスケジュールを修正してもらい、再びセンターを初日に戻したことは言うまでもない。
要するに、多くの人が経済白書を読もうとし、その解説を聞こうとしていたことは間違いない。こうして、経済白書は、国民各層に日本経済の現状を理解してもらい、それに賛成するにせよ、反対するにせよ、それをきっかけに多くの議論が巻き起こるきっかけを提供していたのである。
官庁エコノミスト養成の場
第2は、官庁エコノミストを養成するという役割である。
大来佐武郎、後藤誉之助、宍戸寿雄、金森久雄、宮崎勇氏らの白書執筆者は、役所の外でも有識者として尊重され、活躍したから、知名度も高かった。香西泰、吉冨勝氏といった企画庁屈指のエコノミスト2人は、意外なことに白書担当の課長にはならなかったのだが、いずれも補佐クラスの時に白書の作成作業に携わりながら、エコノミストとしての資質を磨いていった。「白書の作成に携わることで生きた経済を学ぶ」→「その中で力を付けていった人は、対外的にも活躍するようになる」→「その中から次の経済白書の執筆者が生まれる」という形で社会的にも名の知れたエコノミストが生み出されていったのである。
経済企画庁に入った人間は、これら先輩達の背中を見ながら「いつか白書を書いてみたい」という夢を抱きつつ研鑽に励んだ。経済白書は官庁エコノミストを再生産する場でもあったのだ。
その実例が私自身だ。「経済学の基本的な知見に基づいて経済を見る」「データに基づいた議論を心掛け、通説を常に疑う」「原稿用紙の裏側にいる読者を意識し、簡潔で分かりやすい文章を書く」いずれも経済白書を作る過程で私自身が実地に学んできたことだ。
薄れてしまった白書の存在意義
ところが残念なことに、こうした2つの役割はこのところ十分果たされなくなったように見える。経済誌は経済財政白書の全文掲載を行わないようになった。白書が発表されるたびに議論が巻き起こるということも少ない。聞くところによると、外部への説明の機会もすっかり減ってしまったようだ。
エコノミスト再生産機能も、近年ではすっかり失われてしまったようだ。私自身、かなり多くの方から「小峰さんに続く官庁エコノミストが出てきませんね」「最近はいわゆる官庁エコノミストといわれる人がいなくなりましたね」と言われる。
どうしてこうなってしまったのだろうか。次回で詳しく考えてみることにしよう。(続く)
※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。
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