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小峰隆夫の私が見てきた日本経済史

経済白書の存在意義を考える(下)-経済白書70年(6)

 

2016/09/23

 前回述べたように、かつての経済白書には、「経済的論議を巻き起こす」「官庁エコノミストを育てる」という二つの役割があったのだが、近年、そうした役割は薄れてきているように感じられる。どうしてそうなったのだろうか。その理由を考えてみよう。

省庁再編と経済白書の岐路

 2001年1月、政府の省庁が大々的に再編成された。厚生労働省、国土交通省などの巨大官庁が誕生し、経済企画庁は他のいくつかの部局とともに内閣府に吸収された。これに伴い「調査局」や「内国調査(第一)課」という伝統ある組織名も消えてしまった。私は、調査局の内国調査課で「新人→課長補佐→課長→局長」と、長い年月を過ごしてきたので、その組織名が消えてしまうのを見るのは、自分が育った家が取り壊されてしまったようでとても悲しかった。

 私は、この省庁再編に伴い国土交通省の国土計画局長となったのだが、就任後しばらくして内閣府審議官の谷内氏が訪ねてきた。谷内氏は直後にこの年(2001年)の白書を担当することになる。

 谷内氏はこれからの経済白書はどうあるべきかについて、私の意見を聞きに来たのだ。論点は二つあった。一つは、政府内文書としての位置づけをどうするかという問題だ。谷内氏の話によると、内閣府内では、白書のあり方について二つの考え方があるということだった。従来通り政府の公式文書としての白書を作成し、閣議に報告するというものが第1案で、外部部局である経済社会総合研究所が自由な立場から白書を作成するというのが第2案ということだった。

 もう一つの論点は、名前だ。これまでの正式名称は「年次経済報告」で、通称(市販の白書はこちらの名称を使う)が「経済白書」だった。これをそのまま踏襲するのが第1案、新組織は財政の基本的方向についても担当することになったのだから「年次経済財政報告」(「経済財政白書」)とするのが第2案ということだった。

 いずれも難しい判断だ。それぞれについて一長一短があるからだ。公式白書案の場合は、書く内容への制約が強くなる可能性がある。内閣府になるとより官邸に近くなるから、時の政権の意向に反することは書けなくなるだろうし、政権に都合のいい分析に偏するようになるかもしれない。しかしそのことは、白書の影響力が強くなるということでもあるから、しっかりした分析に基づいて説得的な議論を展開すれば、現実の政策への影響力が高まる可能性もある。

 外部部局による白書は、各省からのチェックがかからないから、相当自由に分析を展開できる。担当者は思う存分腕をふるうことができるのはかなりの魅力だ。しかし、閣議にかからない文書では、「どうせ研究所が勝手なことを言っているだけだ」とされて、受け取られ方が相当に軽くなるだろう。

 名前も難しい判断だ。長い伝統があり、諸先輩が大切に育ててきた「経済白書」は、いわば強力な「ブランド」だからこれを捨てるのは残念だ。一方、新組織で再出発したことを示すには、心機一転、名前も変えた方がいいかもしれない。

経済白書から経済財政白書へ

 この時私は、作成は外部部局方式、名前は「経済白書」が良いのではないかと答えたのだが、それ程強力な理由があるわけではないので、それほど強く主張したわけではなかった。その後、内閣府の結論は、私と逆に、公式白書で名称を変更するということになった。2001年12月に、省庁再編後最初の「経済財政白書」が発表され、今日に至っている。その後の展開を見ると、やはりこの省庁再編が白書にとっての大きな転機だったようだ。私の見るところ、白書には次の二つの変化が生じた。

 一つは、やはり時の政権の経済政策との関係が強まったことだ。その一つの象徴が副題である。白書の副題は、その年の白書の特徴を表すものなのだが、2001年度白書の副題は「改革なくして成長なし」であり、その後2005年度の「改革なくして成長なしⅤ」まで、5年間も同じ副題が続くことになった。言うまでもなくこの言葉は、時の小泉内閣のスローガンである。内閣府という組織は、そもそも総理のリーダーシップを強化するために設けられた組織だ。その組織が作る白書なのだから、時の政権の政策スタンスを踏まえたものになるのは自然だったと言えよう。

 もう一つは、「財政」という難しい課題を常に分析対象とすることになったことだ。名前が「経済財政白書」なのだから、当然のことだ。しかし、財政は多くの経済問題の中でも、特に政治性が強く作用する領域だ。その財政問題を取り上げる以上は、白書の中で、その時点での政府の公式のスタンスを踏襲せざるを得ない分野が増えることとなる。

 以上のようなことから、省庁再編後、白書の自由度は大きく制約されるようになったと考えられる。

難しくなったエコノミストの再生産

 では、もう一つの役割、「エコノミストの再生産」についてはどうか。これも、内閣府となって、その再生産のメカニズムは大きく損なわれることになったようだ。

 まず、経済分析、経済政策以外の仕事が相対的に多くなった。もちろん、経済企画庁時代にも、消費者行政、経済協力などのやや毛色の変わった仕事もあったのだが、内閣府になると、防災、沖縄・北方対策、男女共同参画、叙勲、政府広報などと一緒になったので、経済分野は「たくさんやっている仕事のうちの一つ」という位置づけになった。

 このことは、次のような二つの面からエコノミストの育成を阻むことになる。一つは、経済以外の分野の仕事が増えたので、私のように、もっぱら経済調査、分析に従事するというキャリアを歩むことが難しくなったことだ。こういう環境では、エコノミストではなく「どんな仕事でもこなすジェネラリスト」が育つことになるだろう。

 もう一つは、新しく入ってくる人々の変質だ。経済企画庁時代は、大学を出て企画庁に入ってくる人たちは(私もそうだったが)、「大学で学んだ経済学の知識を政府内で生かしてみたい」「やがては経済白書を書くようなエコノミストになりたい」と思って入ってきていた。しかし、内閣府になると、経済以外の分野の仕事が多くなるため、そうした望みが叶えられるとは限らない状況になった。そうなると、経済学を活かしたいと考える人は、経済産業省や財務省を志望することになる。最近では、そもそも学生は「内閣府で経済分析、経済政策に関する仕事をしている」ということも知らないようだというショッキングな話を耳にした。優秀なエコノミストの卵が入ってこなくなったというわけだ。

 さらに、これは省庁再編とは無関係なのだが、99年に公務員倫理法が制定され、公務員の副業が大幅に制限されるようになったことも影響しているかもしれない。それが良かったかどうかは別として、私が経済企画庁に入ってみると、宮崎勇氏、金森久雄氏、香西泰氏、吉冨勝氏といった人々は、本を出し、雑誌に寄稿し、講演するといった具合に、役所という枠組みを離れて大いに活躍していた。したがって私や新保生二氏、八代尚宏氏らも、何の疑問もなくこれにならって、本を出したり、原稿を書いたりした。こうして外部で活動することは、ちょっと言葉では表現できないほどいい勉強になった。剣道を学ぶ人間が、道場の外に出て、他流試合を行うことによって強くなっていくのと同じである。しかし、公務員倫理法ができてからは、こうした役所外の活動が大きく制約されるようになった。

 最近、人事政策の分野で、本業以外に、副業を持つことが本人にとっても企業にとっても有効な人材育成策になるという議論が出てきている。「パラレル・キャリア」「2枚目の名詞」「プロボノ」「副業の推奨」などと呼ばれるものだ。どうやら、経済企画庁時代は(意識していなかったと思うが)、パラレルキャリアを通じてエコノミストを養成していたと言えるのかもしれない。

 こうして、「経済白書」という名前はなくなり、その性格も変化した。新しい組織の中で、官庁エコノミストも育たなくなった。ではどうすればいいのか。省庁の再編は起きてしまったことだし、倫理法が必要だという議論も当然だから、昔に戻すことはできないことは分かっている。それでも、かつて経済白書が担ってきた「経済論議を巻き起こす」「官庁エコノミストを育てる」という役割は、どこか別の形でもいいから再生して欲しいと思う。私にも今のところ名案はないのだが、心の中では常に考え続けていこうと思っている。

※2013年8月に終了した「地域から見る日本経済」はこちら(旧サイト)をご覧ください。